ライン
シルバー人材として働いているカサイさんの話。カサイさんは道路工事現場で車両に向かって旗を振り、一方通行規制の協力を願う役を担っている。
「最近じゃあれも電子掲示板とか、旗を振る人形とかに変えてきてるところが多くてね。ブレーキも踏まずに工事現場に突っ込んでは死傷者が出る事故が一時期多かったでしょう。でも結局、そういう専用の機械を買うよりはこういう白髪のジジババを雇ったほうが安いんだよ」
人命のほうが安上がり。カサイさんは自虐して笑う。実際、田舎の高齢者は年金に加えて畑仕事だなんだとやらなければ生きていけないほど、最近はとても世知辛い。
「そのときはS町のT橋ってところの現場だったね」
やたらとうねる河川の整備に加えて、古くなった橋の隣に新しい橋を架ける工事をしていた。通行車両が古い橋から新しい橋に切り替えるルートを適切に走行するよう、それと工事車両の出入りを周囲に知らせて手配する作業をカサイさんは任されていた。
仕事はいつものようにそつなくこなしていたが、気になる点があった。
「橋の片側にね、赤いラインが入っているときがあったんですよ」
ラインは左側、車両ならば通過する道路上に、歩行者ならば右側の視界の隅に映る位置にあった。それは左側の道路の、さらに左寄りにある。橋が終わる数メートル前で途切れていた。
「工事現場はいろんな資材の搬入をするし、どこそこに何をどれくらいっていう目印もたくさんいるからね。まあ正確にやっている見せかけもしなきゃいけないから」
そのラインが何で書かれていたものかもわからない。カサイさんがそれを見た翌日には消えていることもあった。朝現場にやってきたら、出現していることもある。ペンキなら一日でまっさらに消すことは不可能だし、チョークだとしても工事中の砂利からあの赤い粉を一掃するのも難しい。
「自分の仕事には関係なかったんでねえ、あんまり気にしてなかったんだよ」
おかしなことはあった。
なぜか、女性が赤いラインを見に来る。
写真でも撮ってSNSにアップするのだろうか。カサイさんはなんとなくそんなふうに思っていた。しかしそんなものを撮ったところでおもしろいのか。女性たちを観察していて気づいたのは、彼女たちは別に赤いラインを撮影しているわけではないということだった。田舎を徒歩で移動する女性など地元の人間に限るし、それも移動方法が限られている学生か老人が主だ。
彼女たちは赤いラインのすぐ脇を通り過ぎる際に、足を止め、数秒、じっと見つめて去っていく。
じっ、と。
よくよく考えてみれば歩行者の通行は反対側だ。なのでカサイさんは、事故防止の注意喚起も兼ねて彼女たちに歩く道を反対にするよう伝えようと思った。
「見かけたら追いかけようとしたんだよ。でも気づいたら消えてるんだ」
赤いラインがある限り、その女性たちは現れる。見知った学生服はコンビニで昼食を買うときたまに見かけるものだから、周辺の学校の制服に違いない。はたまた汚れてもよい簡素な衣服に身を包んだ中年から老齢の女性は、家と畑や田んぼとの往復途中にあるこの橋を渡らざるを得ないような人々だ。
あるときカサイさんは、ようやくひとりの女性に声をかけることに成功した。
「あの、すみません。ここの工事現場の者なんですが、よくみなさんここで立ち止まられますよね。何か気にかかることでもあるんですか」
ちょくちょく見かける農作業姿の女性だった。シルバー人材で雇用されているカサイさんとそう年齢が変わらない、しかし白髪を丁寧に黒染めしているのだなとわかるつややかな髪をしていた。肌に刻まれた皺からは相応の年齢が読み取れる。手に食い込むビニール袋には収穫したナスとピーマンを詰め込んでいて、反対の手には鎌とハサミを握っていた。
「ああ、いんや。なんだっていっつもここだけ濡れてんだべなって。隣の婆様が言っでたがらよ。んだがらおれも、なんでだべなあって見でくんだ」
このばあさん、大丈夫か? カサイさんは率直に思った。ここ数日雨など降っていないし、地面は濡れてもいない。
頬が冷えた。
空を見上げたカサイさんは、いつの間にか真っ黒な雲が頭上を覆っていたことに気づいた。ひとすじの雨粒が見えたので、視線を地面に落とす。
赤いラインが、しずくを受けて揺らいでいた。まるで水面のようだった。
カサイさんは「え」と焦った。
赤いラインだと思い込んでいたのは自分のほうで、本当はこのばあさんが言うように水たまりなのではないか。だから今日あっても明日には乾いて消えているのかもしれない。砂利から砂ぼこりが起こらないよう、現場に水をまくことはある。もしやそれだったのか。
「あけえか」
ばあさんの声だった。
振り返ったカサイさんのすぐそばに、ばあさんの顔があった。目と鼻の先よりも近い。思わず「ひい」と悲鳴をあげて後ずさった。だが作業着がばあさんにつかまれていたせいで動けない。老人とは思えないほどの握力だった。
「あけえか、おめのめはあけえか」
お前の目は赤いか。
なんだそれは、どういうことだ。
カサイさんはとたんに怖くなり、ばあさんを突き飛ばしてしまった。
だがやはり、カサイさんの服を握っていたばあさんはまったく離れてくれなかった。
「おめのめはあけえか、おめのめはあげのか、あけえか、おめの」
ばあさんから顔を背けた先に、カサイさんが赤いラインだと思っていた水たまりがあった。
そこには自分と、長く黒い髪が顔を覆う女性が映っていた――ばあさんではない。
夕立を誘う生ぬるい突風が吹いた。
風が水面を揺らす。
波紋が、そこに映る女性の長い黒髪をかきわけた。
女性の顔に目はなかった。
「おめのめはあけえか」
ばあさんの声ではなかった。
目の前に鎌の切っ先が迫っていた。視界が鈍色に染まる。
刃がまぶたと目玉のすき間に滑りこもうという寸前、カサイさんは気絶した。
休憩時間になっても戻ってこないカサイさんを心配して様子を見に来てくれた作業員が、倒れているカサイさんを発見した。救急車が呼ばれ、熱中症ということで一日入院した。
その日のその時間帯は三十八度を超える猛暑日だった。県内でいちばん暑い地域だったと夕方のニュースが言っていたと、現場監督から呼ばれた妻が教えてくれた。
数日後、カサイさんは現場に復帰した。救急車を呼んでくれた作業員も含めて全員に詫びとお礼をし、それとついでに赤いラインについて尋ねてみた。
「誰もそんなもの見てないっていうんだよ」
それどころか、赤いラインを見るために立ち止まる女性たちさえ知らないときた。確かにあの現場で突っ立っているのはカサイさんくらいで、他の作業員は工事作業に熱中しているから見ていなくても不思議ではないが……。
「それからその現場では、赤いラインを見ていません」
その現場では。
引っかかる物言いに突っ込むと、カサイさんは頭を振りながらため息をついた。
場所は決まっている。どこかの橋の上だった。どちらかといえばアスファルトではなくてコンクリートのような、白けた道路上の左側の左寄りに、赤いラインが浮かんでいる。
そばには、それを眺めている女性がいる。必ず。学生だったり主婦だったりと、姿は様々だが、カサイさんは確信している。
「あれ、絶対にあのときのばあさんなんだよ」
厳密にいえば、ばあさんではないのだろうが。
じゃあ
カサイさんはわかりたくもないだろう。
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