用水路
高校生だったサチさんは、学校が終わると近くのコンビニでバイトをしていた。校則では夜八時までとされているが、人手が足りないこともあって九時まで働いていたこともあった。学校の近くなので時折教師もやってくるが、ほぼ黙認のような状態だったという。
夏場でも夜の九時になれば、さすがに帰り道は真っ暗だった。制服に着替えて駅まで走り、自宅の最寄り駅まで十分ほど電車に揺られる。そのあいだに、当時はまだガラケーといわれるそれで友人たちのSNSを見てまわる。今帰っている途中と報告すれば、夜道に気をつけてと友人が返信をくれた。
最寄り駅から自宅はさほど離れていない。何もない駅周辺は真っ暗だった。昼間に見れば、田んぼが広がるだけの田舎特有の光景といえる。駅からまっすぐ目の前にある田んぼのあいだの道を五分ほど歩くと、サチさんが家族で住む団地がある。
田んぼのあいだの道はきちんとアスファルトで舗装されていて、車両の往来も少なくない。だが今の時期は夏草がもうもうと生い茂っている。道路に侵食しないよう田んぼの持ち主が草刈りをしても、その成長はおそろしくはやい。
道と田んぼの境には用水路があった。雨が降ると濁流がごうごうと音を立てて流れる。ここ数日は晴れが続いていたこともあって、耳を澄まさなければ聞こえないほどのささやかな流れだった。
ばしゃん
何かが用水路に落ちたようだった。田舎なので、考えられる可能性はいくつもある。ノネズミ、タヌキ、ハクビシン。カエルではなさそうだな、とサチさんは思った。何かはわからないが、田舎育ちの経験と勘である。たぶん、カエルじゃない。
ばしゃ、ばしゃばしゃ
きいいいいいいっ
どうやらネズミのようだ。水で溺れて暴れているのだろうか。それともタヌキかキツネにでも襲われたか。必死にもがいて助けを求める悲鳴が聞こえた。
助けようにも、ネズミじゃどうしようもないしな。噛まれたら病気になるかもしれないし。
それでも、サチさんはなんとなく気になった。ガラケーのカメラを照明モードにして、用水路へと向ける。草刈り後に成長を始めた夏草が倒れて、新たな獣道が生まれていた。そこから用水路をのぞくことができた。
コンクリート製の用水路に、長くたなびく藻が生えていた。
きいいいいいいいっ
ネズミの悲鳴があがる。
ゆらめく藻も動いた。藻に絡まって動けなくなっているのか。
ざぱあ
ネズミをくわえた口を持つ頭が、用水路からあがってきた。
腹を前歯で噛みつかれたネズミは、しっぽを激しく振って抵抗を見せていた。ぴしぴしと細いしっぽが動くたび、水が弾き、自らを噛んでいる女の頬をたたく。
ネズミを噛んでいるのは、女の頭だった。
その頭が乗っているのは、蛇の胴体だった。
駅からかろうじて届く明かりが、濡れている蛇のうろこをてらてらと光らせていた。
女の顔を乗せた蛇は、サチさんを、おそらく見ていなかった。ガラケーの明かりに反応しただけだろう。
女の顔に目はなかった。目玉があるべきところには、底なしの空洞のような黒さがあるだけ。
ガラケーの明かりが自動で消えた。
ぴたっ、ぴたっ、ぴたっ
女の藻のような髪から滴るしずくが用水路に落ちる。
身をこわばらせていたサチさんは動けなかった。
用水路からどぷんと音がした。そいつが潜ったらしい。駅から届く明かりで、あの藻のような黒髪が水中で揺れているのが見えた。藻が遠ざかる方向は、サチさんの自宅と同じだった。
サチさんは来た道を駆けて、駅まで戻った。家にいる母親に電話をかけて、足を痛めたと嘘をついて車で迎えに来てもらった。
サチさんはそれから、バイトの時間を変更した。なるべく明るい時間に帰れるように、学業優先にすると店長に伝えてシフトを変えてもらった。どうしても夜遅くなりそうなときは親に迎えに来てもらうようにした。
ときどき、サチさんはその用水路をのぞいてみる。もちろん昼間だ。だがあれ以降、女の頭の蛇を見たことはない。
「不自然に畔の草とか田んぼの稲が倒れているのを見かけることがあるんですけど、もしかしたら……って思うんです」
マネキンの頭を乗せたカカシが田んぼに立っていることがある。それを見ては、サチさんは心臓が止まりそうなほどおどろくのだそうだ。
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