第13話 あとがきにかえて

① 「スタンド使いはスタンド使いと出会う」

あの日あの時、私が見た「コギト・エルゴ・スム 真の我」とは、私の中の在来種純粋日本人の血を、より一層励起させてくれたようです。


その割合こそ違うとはいえ、日本人であれば誰でも(形而上的な)縄文人の血を具有している。その血由来の精神を、自分の人生に於いて引き延ばすか、逆に矮小化して消し去ってしまうのか、の違いです。

私の場合、好んで「相打ちのガツン」を求める(50年前の)大学日本拳法のスタイル(習性)のおかげで、外来種の脳細胞が殺され、原始日本人(縄文人)の脳細胞が活性化しました。(大学1年生の、あるOBの工場で1ヶ月間体験した、合宿以上に苦しかった(狂気の)アルバイト生活のおかげでもあります。)

その所為で、卒業後の会社では、縄文人らしい、徹底的に(仕事に)執着するという、まるで「画狂人」と称した葛飾北斎のような「狂人」として5年間狂いまくり、その結果、海外駐在員に指名されました(入社して5年間、私の自己申告書の希望勤務地は、大方の男子社員と異なり「東京」であったにもかかわらず)。

あの、なりふり構わぬクレージーさとは、今思い返してみても、「高校時代までの私」にはなかった人格です。

こんかい相席させて戴いた「天井桟敷の人々」による「人目をはばからぬ強烈な声援と底抜けの明るさ」こそ、かつてのこの私のクレージーさを、内に彷彿とさせてくれました。(彼女たちの声援が耳から離れず、大会当日の深夜に起き出し、この本のV.1.1を徹夜で書いたのです。)

私のみならず、あの会場にいらした現役の大学日本拳法人の方々にとっても、彼女たちが見せてくれた鬱勃たるガッツ・気骨・愛情は、これからの大学日本拳法ライフに大きくcontribution貢献してくれることでしょう。

② 「様々な大学日本拳法」が誘引する縄文人への道

 

今大会、あの確固とした存在感のある女性を見て、自分が大学日本拳法というものに今更ながら(今になってもまだ)執着している理由がわかったような気がします。

人にもよるでしょうが、私の場合、いつも

「ずっと何かを・誰かを探している。」(日本映画「君の名は。」冒頭)。

60歳の誕生日の数週間後にドイツのニュールンベルグで見た夢(白日夢)の景色を、それから数ヶ月後、青森三内丸山古墳で見たのですが、その時「デジャビュ(既視感)」というものを実感(体験)しました。今までの私の人生とは、遥か遠い過去の記憶を辿る為の道であった、と気づいた。

50歳の時に書いた「思い出は一瞬のうちに」という本は、そんな私の「過去を思い出す為の一つのきっかけ」であり、60歳後半のこの頃とは、そういう「手がかり」を求めて生きているようなものかもしれません。

まこと、「還暦」とはよくぞ謂ったもの。

先祖返りとは、生物が進化の過程で失った形質が、子孫において突然現れること(広辞苑)という意味らしいが、私の場合、遙か遠い過去において見たり聞いたりしたことを、いま思い出そうとしているかのようだ。そのトリガー(きっかけ)になるものが、60歳を過ぎた頃から見えてきた・感じることができるようになってきたのかもしれません。

この歳になってなんで今更、という気もしますが、大学日本拳法にこだわるのも、そういう理由があるのかもしれません。

例えば、昨年の全日本学生拳法選手権大会、関西学院大学対明治大学に於ける、関西学院大学の素晴らしい拳法。

なにが私にとって楽しいのかといえば、ガンガン前へ出て攻める、蹴る・打つ・投げるという、日本拳法の三要素を自在に駆使する彼らのスタイルというか、その奥に存在するガッツ・精神性なのです。

YouTubeから録画した、過去(といってもここ数年ですが)の全日本学生拳法選手権大会の様々なビデオの中でも、これくらい何度も見る映像はない、というくらい見ていて楽しい(一時は毎日見ていました)。

自分自身の若い頃のガッツが甦ってくる、以上に、自分の人間としての遙か遠い過去に遡る為の一つのスパイスともなるような気がします。今は、たまに飯を食いながら鑑賞させて戴いております。

試合に勝った負けたという結果よりも、彼らの強い精神性が、古ぼけてガタが来た私の脳髄に刺激を与え、過去を思い出す後押しをしてくれるのです。

今回、天井桟敷で隣り合った女性達の「強烈な気力と底抜けの明るさ」という二本立ての刺激もまた、多くの試合映像や各校のブログと同じく、私の過去探求の道に一つの大きな灯りとなってくれました。

こんな「幸運・僥倖」に出遭うとは、ヤキが回った(死が近づいた)ということか、はたまた、これからもっと過去への旅という冒険ができる、という希望となるのか。

③ 泣いてくれるな 愛しの青(馬のこと)よ 今宵しのぶは 戀ぢやない(田原坂)


大阪人との出会い


◎ 新今宮駅近くの古本屋の親父

いつも、100円で、45年前に読んだ「コブラ」や20年前に集めた「ジョジョの奇妙な冒険」といった漫画や「日本古典文学全集」連歌俳諧集 小学館を100~300円で売ってくれる。

話し始めると、終わらない。Never Ending Story。

  聞いてもいないのに、「向かいのパチンコ屋の壁に西日が当たって眩しいさかい、サングラスをしてるんや。」なんて、長話になる。

  

◎ 南海パークの警備員さん。

エディオン・アリーナの方角はわかるが、どの道をどう行くべきか知らない私に、エスカレーターを上り、あちこち歩き回って約三分間も道案内をしてくれた(休憩に行く途中の)警備員さん。


◎ 八百屋の親父

  値段やブランドではなく、心(コミュニケーション、心と心のつながり)で商売する。

  きれいな大手スーパーで・きれいな富有柿を・きれいなレジの女の子から買うよりも、しょぼい八百屋で・しょぼい親父から・しょぼい柿(自分の家の柿の木からもいできたという、不揃いの値段はスーパーと同じ)を買う方が、それでも、なんとなく「正しいことをした」「心の何かがカチッと嵌まった」という感じがするのが不思議です。

やはり、縄文人の血が呼ぶのでしょうか。


<いかにも大阪人らしい詩(歌詞)>

「最後の夜汽車」甲斐よしひろ

スポットライトは どこかのスターのもの

陽のあたらない場所を 僕は生きてきた

ふりそそぐ白い 月あかりにさえ

肩をすぼめては 目をとじてきた

・・・

拍手が鳴りやみ 客がいなくなっても

歌いつづける 悲しいシンガーのように

・・・

白い月あかりの その裏側で

僕はゆがんだ 顔を洗った

白い月あかりの その裏側で

涙のかけらを 洗いおとした

・・・


「大阪の女 ロングバージョン」ボロ

・・・

男は夢に立ちむかうけれど

女はまもるものがある

男は壁をのりこえるけれど

女は愛をさがした

大阪で生まれた女やさかい

この街をまもりたい

大阪で生まれた女やさかい

この街で何かをさがしてた

男は夢に立ちむかうけれど

女はまもる愛をみた

・・・

立教大学の近くの小さな部屋

それが二人の愛のかたまり

夢を追いつづける二人は

現実のすべてを見た

大阪で生まれた女やさかい

負けられへんと思った

大阪で生まれた女やさかい

がんばらなあかんと言いつづけた

立教大学の近くの小さな部屋

何もないけど輝いていた

・・・


2023年12月8日

V.5.5

2023年12月18日

V.5.6

平栗雅人

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「全体は部分の総和に勝る 」 2023年 第68回全日本学生拳法選手権大会 見聞記 V.5.4 @MasatoHiraguri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る