第28話
エンジュが老婆の家に来て、1週間は経っていた。
体力はだいぶ回復したが、身体中怪我を負っていたので、動き回ることはまだ出来なかった。
老婆は献身的にエンジュの看病をしてくれている。
時々、狩人のスターチスがエンジュの容態の確認とガドゥプルの現状の報告に来ていた。
ガドゥプルは相変わらずスターチスが持ってきた餌を食べようとはしないようだった。
怪我の方はエンジュと違って順調に良くなっているようだったが、このまま食事をとらなければ、治癒能力も落ちてしまう。
スターチスは基本、無口な男だった。
老婆の毎朝、決まった時間に訪ねて来て、今朝方仕留めた獲物を持ってくる。
獲物が仕留められなかったときは、山の奥に実っている果物を持ってくる時もあった。
スターチスが何も言わなくても老婆がエンジュのいる部屋の方へ目配せして、エンジュの様子を報告していた。
それが終わると、スターチスの方もガドゥプルの様子を話す。
今日はどんな餌を与えた。
まだ食べていない。
怪我の直りは順調だ。
そんな簡単な会話しかしなかった。
そして、会話が終わるとスターチスは老婆から薬をもらって家を出る。
毎日、その繰り返しだった。
「さすがに魔獣といっても7日間も食べないのは問題だね。水は飲んでいるのかい?」
老婆は深刻そうな顔でスターチスに尋ねた。
スターチスはゆっくりと頷く。
「ああ、洞窟内にある水を少量。慣れない場所での生活でもあるし、かなり衰退している。無理矢理でも食わしてやりたいところだが、相手は魔獣だ。さすがに俺も竜の世話はしたことがない」
深刻な状況なのか、いつもは無口なスターチスの口数も増えていた。
老婆もどうしたものやらと困り果てていた。
「あの子の為にも、元気になってほしいが、本人の生きる気力がなければなんともね。長年、城の地下で飼われていたんだろう? いきなり飛び出してこんな場所に来てもどうしていいのかもわからないんだろうね。ここから逃げたしたくても、今じゃその体力もないだろうからね」
その声は静かにベッドで寝ていたエンジュの耳にも微かに聞こえていた。
ガドゥプルがもう1週間も何も食べていない。
口にしているのは少量の水だけ。
どんな動物だって1週間も物を食べていないと死んでしまう。
ガドゥプルはみんなが命を懸けて助けた竜だ。
こんなところで死なせるわけにはいかないと思った。
老婆が部屋を訪れた時、エンジュはいつものように寝ていた。
ドアを閉め、いつものように山に山菜を取りに行く老婆。
その習慣をエンジュも把握していた。
老婆が家を出たことを確認すると、エンジュは身体を無理矢理ベッドから起こした。
お腹には激痛が走る。
身体中が痛くて、上半身を起こすだけでもやっとだった。
それでもエンジュは行かなければいけない。
うまく動かない足を懸命に動かして、雪崩れるようにベッドから降りた。
そして、壁を伝いながら扉に近づく。
部屋の奥からは音はしなかった。
確かに老婆は今、家を留守にしている。
こんな行為は老婆やスターチスに対する裏切りだとはわかっていた。
それでもエンジュはカドゥプルに会いに行かなければいけないと思ったのだ。
扉を開けて、机の上に置いてある果物が目に入る。
エンジュはそれを近くの籠の中に入れて、よろけながら玄関に向かった。
痛みから頭が朦朧としてくる。
ほんの2、3歩先でもこの時のエンジュにとっては何メートルも先に感じていた。
やっと手に掴んだ、玄関のドアノブ。
それをゆっくり回して、1週間ぶりの外に出た。
足に感じる草の感触。
窓越しとは違う、直接日差しに当たった温かさはたった一週間ぶりのことだとは感じさせないほどの懐かしさを感じた。
エンジュはよろめきながら前に進む。
そして、そこから外を見渡した。
エンジュは洞窟の場所を知らない。
けれど、ここからそれほど離れていないのはスターチスの言葉からもわかっていた。
目を凝らしてみると、森の先に崖が隙間から見えた。
エンジュはそれを目掛けて歩き始める。
きっとそこにガドゥプルがいる。
知らない場所、知らない人に囲まれて怯えているのだと思った。
自分が言ったところでガドゥプルが安心するかはわからない。
それでも、このままスターチスたちに任せたままで、ガドゥプルを餓死させることは出来なかった。
エビネたちから託された想い。
それはそんな軽いものなんかじゃない。
自分がガドゥプルを安心する場所に返してあげられなくて、誰が返してあげられるのだろう。
そして、もしこんな場所で死んでしまったら、結局王国の兵士に見つかって、その亡骸を利用されるだけだ。
そんなのはまっぴらごめんだと思った。
何のためにこんな大怪我をしてまで、そして彼らが命を落としてまでガドゥプルを逃がしたのかわからなくなる。
家から崖の距離はそう遠くはないのに、この時のエンジュにはとても遠く感じた。
まだ数十歩しか歩いていないのに息が切れて、動けなくなる。
エンジュは幹に寄りかかり、時々休憩しながらも前に進んだ。
何度も痛みで意識が飛びそうになったが、それでも必死に食らいついて一歩、一歩と歩いていく。
そして、崖の見える場所まで来ると、そこから洞窟がないか探した。
右か、左か、どちらに洞窟があるかわからない。
ここでもし選択を誤っても引き返す体力はエンジュにはないだろう。
エンジュは必死に考えて、右に向かって歩き始めた。
何となくだが、その方向にガドゥプルがいるような気がしたからだ。
痛みで頭も回らないし、今はその勘に頼るしかなった。
そして、家を出てから数時間後、やっと洞窟を見つけた。
今頃、老婆は家に帰ってエンジュがいないことに気が付いている頃だろう。
もしかしたら、探し回っているかもしれない。
崖を伝いながら向かった洞窟の中。
薄暗かったが確かに何かいた。
それがガドゥプルでなければ大事なのだが、もう躊躇しているエンジュには確認している余裕はなかった。
そのまま足元の悪い洞窟の中に入って、目を凝らす。
中にいた魔獣もエンジュに気が付き、顔を上げた。
確かにそこにいたのは白い竜、ガドゥプルだった。
今まで見たことがないほどやつれた体。
もう、何日も食べていないのはすぐに分かった。
目の前には親切にもとって来た獲物が食べやすいようにして置いてある。
ガドゥプルは一切それに手を付けていなかったのだ。
エンジュは一歩ずつ彼女に近づいていき、もう彼女に手が届きそうなほど近づいていた。
いつもならこんなに近づけば、威嚇され、暴れて怪我をさせられる。
噛み殺される可能性だってあった。
エンジュはそれでも構わないと思った。
ガドゥプルが餌を食べて元気になってくれるなら、自分の身体すら差し出しても構わない。
エンジュはガドゥプルに果物を見せて、消えそうな声で言った。
「ガドゥプル……、お願いだから食べて……。死んじゃうよ、ガドゥプル……」
エンジュはそう言った瞬間、体力が尽きたのかその場に倒れた。
それでもエンジュは諦めなかった。
「お願い……、私でもいいから食べてよ、ガドゥプル……」
それがエンジュの本心だった。
そして、彼女はその場で意識を失った。
エンジュを探しに来ていたスターチスと老婆は日が暮れる前に洞窟の中でエンジュの姿を見つけた。
エンジュは籠を手にし、ガドゥプルの前で倒れていた。
ガドゥプルはスターチスたちを見ると睨みつけて威嚇していたが、エンジュを傷つけるつもりはなさそうだった。
むしろ老婆の目には竜が少女を守っているようにさえ見えた。
狩人はガドゥプルの前を通って、自分の捕まえた獲物を確認する。
そこには獲物の形はなく、骨だけがいくつか残されていた。
老婆は威嚇するガドゥプルを宥めるように見つめ、そっとエンジュに近づいた。
そして、意識を失って眠ってしまったエンジュの背中を摩りながら、囁いた。
「エンジュ……、あんたの願いはちゃんとこいつさんにも伝わっとるよ」
その後スターチスがエンジュを抱えて、老婆たちは洞窟を出て家へと戻っていった。
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