第8話

エンジュは目が覚めても、あの竜の事が忘れられなかった。

朝起きて、洗い物の服をかき集めている時も、その服を冷たい水で洗っている時も、ロベリアに呼び出され朝食を食べている時も、そして洗濯を済ませて廊下の掃除をしている時もずっと頭にはあの竜の姿があった。

この世界に竜という不思議な生き物が存在がいることを教えてくれたのは、生物学者の父だった。

父はそう言った未知と呼ばれていた魔獣や希少生物を調べ歩くのが仕事だった。

だから、父が旅から帰ってくるたびにエンジュに旅の話を聞かせてくれる。

父はエンジュに竜の鱗と呼ばれるその美しい欠片を見せてくれた。

日に当てるとキラキラと光って綺麗だった。

光が透けて、色が世界に溶け込むような美しさだったのを覚えている。

そんな鱗を見せながら父は語った。


竜とは伝説上の生き物とされていて、今まで発見されることは少なかった。

なぜなら、古来の人間たちが竜の血肉は精力剤となり、皮や鱗は防具になると狩りを始めたからだ。

元々竜は生殖本能がそれほど強くなく、強靭な身体と長寿である代わりに100年に一度しか繁殖活動をしないという。

そのため、子供の竜を見るのは非常に稀とされた。

竜たちは自分たちの身の安全を考え、人類が寄り付かない北の果ての国、レジュノルティアと呼ばれる幻の島に住み着くようになったという。

しかし、人類は懲りず、それでも竜を求め、その幻の島、レジュノルティアを目指したが未だ到達した者はいない。

竜によく似た生物、ワームやワイヴァーンも元は竜の始祖と同じだという。

つまり、蛇に似て手足のない肉食獣ワームも、竜とは異なり直接腕が翼となったワイヴァーンも、強いて言うならば、シーサーペント呼ばれる海の大蛇も同じだと考えられていた。

しかし、シーサーペントについてはウミヘビの一種であり、竜というより巨大なウツボのような生物として今は認識されている。

ワームやワイヴァーンのような魔物は数が少ないとはいえ、珍しくはない。

大きな深い森の中に入れば、森の主として存在することもある。

しかし、彼らも竜と同じで生殖本能はさほど強くないため、見つけたとしても精々1匹、2匹と言ったところだろう。

食物が足りなくなるとたまに村を襲ったことや旅人や兵士たちを敵と勘違いして襲うことはしばしばあったため、魔獣として忌み嫌われていた。

それに比べて竜は幻の絶滅危惧種の貴重な魔獣。

死骸を見つけるだけでも大仕事なのに、生け捕りにするなど聞いた事がなかった。

父は竜の研究もしていたが、無暗にその生殖地を荒そうとは考えてはいなかったようだ。

こういった自然に生きる生物は人との接触を深めると、臭いが移り、同じ仲間から避けられることがあるらしい。

そうしてしまうと、集団で生きる生物にとっては致命的だ。

人間が恐ろしい存在として認識していることもあるが、それ以上に慣れ合おうとしないのは、そういう理由があった。

ただ、オオカミだけは違ったのか、人に寄り付き、いつの間にか飼いならされ、犬という種類となった。

一部の貴族の中には愛玩動物として飼いならされている。


こういった生物の知識も父が教えてくれた。

生前、父はどんな生き物とも共存していることを忘れてはいけないと言った。

人の力があまりに強大で、世界の支配者だと驕る者もいるだろうが、自然の摂理の中では人もまた魔獣や野獣、小動物と同じ動物であり、1つの命を持った生命体に過ぎない。

だから、無暗に命を奪うものでもないし、その命を頂くときはその生き物と育てて下さった神々に感謝をしないといけないと語った。

エンジュは今でもその父の教えを守っている。

命を頂くときはまず、神々に祈りを捧げ、命に敬意を払って感謝する。

卵が産めなくなった雌鶏を食す時にもそんなことをするものだから、カルミアはいつもエンジュの事を訝しる目で見つめていた。

カルミアたちにとって家畜とは食べることを目的とした生き物であって、その過程に毛皮を取ったり、卵を取ったりして、生活を取り持つ。

それに慈悲の心など向けるなど、考えもしなかった。



エンジュが仕事の手を休めることはなかったが、以前より精がないのは見て取れた。

手を動かしても、意識はいつも遠くにある。

仕事をきちんと終えてくれるならそれで良かったのだが、どうしてもエンジュのその態度が気になっていた。

そんな生活も何週間も経つと慣れてくるものだ。

以前はロベリアに怒鳴り起こされていたが、今ではロベリアが起こす前には目が覚めるようになった。

仕事も前より容量がつかめたのか、量が増えてもてこずることはない。

洗濯の仕事は約束通り、午前中には終わらせるし、掃除も丁寧にこなす。

エンジュは労働者として無能でもないようだった。

そして、最近では食事の準備を手伝うことも増えた。

火起こしはカルミアの家でもやっていたので手慣れたものだし、野菜や肉を切るのもすぐにコツをつかんだ。

何よりもエンジュはとても頭のいい子だった。

一度言われたことは忘れないし、率先して仕事もこなした。

汚れている桶や器があれば、洗い場に持ち込んで綺麗にして、所定の場所に置く。

その仕事ぶりはロベリアだけでなく、兵士の中心にいた右足が義足の男、エビネも感心するほどだった。

しかし、エンジュにはロベリアたちに言われた言いつけを一つだけ破っていた。

あの右の奥の部屋には行かない。

入らないし、中も覗かないという約束だった。

餌の桶を運びに行く仕事を与えられても、その奥を覗くことは禁止されていた。

それなのに、エンジュは周りが寝静まったことを確認すると毎晩のように竜を見に行った。

その白い竜はとてもきれいだった。

鱗が月明かりに当たり、反射して、まるで体中に宝石をちりばめているようだった。

瞳は澄んだ湖のように青く、翼は七色に輝いている。

エンジュはこんなに美しい生物を見たことがない。

父があれだけ多くの事を学び、遠くまで旅をしてまで会いに行く気持ちが分かった気がした。

しかし、そんな秘密の時間もそう続かない。

エンジュがいつものように扉の隙間から竜を見つめていると、後ろから誰かが近づいて来る気配がした。

すぐに隠れようとしたが遅かった。

入り口の扉は飽き、部屋はランプの光で照らされる。

そこに立っていたのは、義足の男のエビネだった。


「やっぱりお前だったか……」


エビネはエンジュが毎晩していることを随分前から勘付いていたようだった。

眉間には深いしわが寄り、エンジュはこの男にぶたれると思い、身体を縮こませる。

カルミアの家にいた時はいつもそうだったのだ。

彼らの言いつけを守れなかったときはいつもぶたれていた。

アキレギアからは素手で殴られていたし、カルミアからは箒の柄で何度も叩かれた。

だから、今回もそうなのだと思っていた。

しかし、エビネはエンジュを殴ろうとはしなかった。

エンジュに近づいて、しゃがみ込む。

ランプの光が目の前で強く光を放っていた。


「あいつに近づかなかったことは褒めてやる。しかし、あいつは獰猛な猛獣だ。人間がそう飼いならせるものじゃない。あいつがお前に気が付いたら、何をしてくるかわからないんだからな、大人の言うことはちゃんと聞け」


エビネはエンジュが思ったよりもずっと優しい男だった。

あまりに拍子抜けした結末だったために、どんなに辛くても泣かなかったエンジュの瞳から涙が溢れた。

父を失ってから人前でこんなに泣いたのはいつ以来だろうか。

いきなり大泣きをされたエビネは困惑し、おろおろし始める。

そして、そんなエンジュの頭を撫でて、笑ってこう言った。


「お前、あいつのことは好きか?」


その言葉にエンジュは顔を上げて、大きく頷いた。

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