茅島 愛
扉を開けると、部屋中に紙や木片が散乱していた。
男が、ナイフを片手に、愛が今まで描いてきた絵画や、それを創り出すための道具を次々と蹂躙していた。
愛と男の目が合う。男は意に介する事なく、スケッチブックをナイフで切り裂いた。
愛の全身の血液が沸騰する。怒りのまま、額縁の破片を拾って投げつける。破片は男の額に当たり、血を滲ませる。
「何やってるんだよ!」
愛は激昂する。男は表情を変えずに、シャツの袖で血を拭った。
「父親に向かってなんだその口の聞き方は」
男——茅島拓郎は、愛の戸籍上の父親である。1年ほど前からそうなってはいるが、愛は拓郎のことを一度も父と呼んだことはない。
「俺は愛ちゃんの将来を心配して言っているんだ。これから日本はますます弱くなっていく。そうなった時に必要となるのは学力だ。だから俺は愛ちゃんにもっともっと勉強して将来に備えて欲しいんだよ。来年からは高校生だ。こんなものに
拓郎は無造作に別のスケッチブックを切り裂く。切れ端が、床に落ちる。金と黒の煌びやかな縞模様が見えた。オショロコマだ。断片を見ただけで描いた時の記憶が鮮明に蘇る。本当の父と一緒に水族館に行った時に描いたものだ。閉園ギリギリまで優しく見守ってくれた父の眼差しは、今でも脳裏に焼き付いている。
拓郎は絵の切れ端に足を乗せた。
「あの男は努力を怠った。だからつまらない死に方をすることになったんだ」
愛は内側で何かが爆発するのを感じた。
愛が我に返った時、拓郎は床に転がっていた。
愛の手には壊されたイーゼルの脚部が握られていた。足下から呻き声が聞こえる。拓郎はまだ息があった。頭から血を流し、苦しそうにうずくまっていた。殺してやる。愛は小さく呟き、イーゼルを思い切り振りかぶった。
「……え?」
腹部に冷たい感覚があった。愛の手から木片が離れる。ナイフが、深々と腹部に突き刺さっていた。
激痛が、体内で燃え上がる。愛はその場に崩折れた。
「拓郎さん大丈夫!?」
母が、涙を流しながら拓郎に駆け寄った。愛はそこでようやく、母が自分を刺したと気がついた。
「ああ、俺は大丈夫だ。助かったよ」
「良かった……拓郎さんにもしものことがあったら私……」
愛の心を絶望が埋め尽くした。感情が黒く塗りつぶされていく。刺傷の激痛を凌駕するほどに、胸に痛みが広がる。
「ああでもどうしよう……このままだと私逮捕されて拓郎さんの側にいられなくなる……」
「大丈夫さ。ほら、こうやってナイフに愛ちゃんの指紋をつけて……こうすれば『ナイフで襲いかかってきた娘ともつれあってる内に誤って自分の腹部を刺した』ってことになるさ」
母が、泣き笑いで拓郎に抱きついていた。愛の頭に母との思い出が駆け巡る。繋いだ手の温もり、一緒に絵画の道具を買いに行った日のこと、父と3人で行った水族館——
もう指一本すら自分の意思で動かせなかった。自分が生きているのか死んでいるのかわからなかった。どちらでも良いと思った。
なんだかとても眠かった。ひたすらに身体と心が眠りを欲していた。瞼を閉じる。瞬間、愛を眩いほどの青い光が包んだ。
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