その数奇な自動人形

爛耀

その数奇な自動人形

 いつもとは違う寝床で寝返りを打つ回数も増えてなかなか寝付けずにいた。東京よりは幾分かマシではあるものの、夏の夜の暑さも手伝って寝苦しい。次第に扇風機の音も気になり始めてくる。母屋の方には冷房がついているのに、と自分の待遇を思うと腹立たしさもぶり返される。もう何度目かの後悔のため息を吐いた。

 普段は殆ど気にかけないのだが、今回ばかりは放蕩に生きているツケが回ってきたと思い知らされた。

 キリギリスのような生活で遊興費ばかりが嵩み、いい加減借金も溜まってきたところで父の訃報が届いた。我ながら不謹慎ではあるが、これ幸いと数年ぶりに田舎へ帰った。もちろん目当ては遺産である。自分が生まれた頃にはもう父は若くなかったが、なかなか元気は良かったようで、上には歳の離れた兄と姉がいる。自分が高校生に上がった頃には父はもう現役を退いていた。それを期に父のまた父、自分からすれば祖父の生家に彼は移り住んだ。それから十年ほどが経った。自分は進学を理由に東京に残って、かろうじて大学にも籍は持てたものの、その実態はろくなものではなく、講堂よりもホールへの出席率が圧倒的に高かったし、休日は馬券場にも足繁く通った。そんな素行はおそらく大学から家族にも知らされていたんだと思う。時折家族からの連絡が入っていたが、悉く無視を決め込んでいた。なんでそんなふうになってしまったのかは自分でもよく分かっていない。

 久しぶりに顔を出すと母と兄姉、および親戚方の冷ややかな視線に迎えられた。父の遺言状には自分の名前は書いておらず、焼香をあげるのだけは許されたが、追いやられるようにこの離れに押し込められた。どうやら顔も見たくないらしい。泊めてやるだけありがたいと思えとのことだが、今になってみるとさっさと帰った方が良かった。もといこんなところにのこのこと来なければ良かった。

 さて、充てにしていたものがないとなると困ったことになった。のらりくらりと躱してきた催促もそろそろ洒落にならない頃だ。

 こんな田舎くんだりまで来てなんの成果もなしじゃどうにも割に合わない。母屋に忍び込んで香典からいくらか抜こうかとも思ったが、あの調子では本当にその場で警察を呼ばれかねない。どうしたものかとうんうん唸っていると、この祖父の生家には蔵があることを思い出した。

 家族もまだあの蔵の整理までは手が回っていないのではなかろうか。あまり期待はしていなかったが、もしかしたら金目のものが眠っているかもしれない。自分の中で決断がなされると、横たえていた体をのっしりと起こし、着替えを済ませてリュックを背負った。何か良いものを見つけられればそのままここから逃げ出してしまおうという算段だ。

 夜目を慣らして離れから蔵へと向かった。蔵の鍵は開いていた。田舎特有の不用心さか、それともこれから整理するために開けておいたのか、あるいはその両方なのか、何にせよ自分にとっては好都合だった。

 中に入るとそこは夜の闇より暗い。重苦しい空気にもわっと包み込まれた。独特の古びた匂いからももう何年も手入れされていないことが分かった。どうやら父も祖父の持ち物には興味がなかったらしい。

 スマートフォンのライトを点けると人工的な光が辺りを照らす。蔵の中はごちゃごちゃしていて、とにかく箱だらけだった。それを見てげんなりし、家族も手付かずだった理由が分かった。これらをいちいち開けて中身を精査して……とやるのは骨が折れそうだった。自分も心折られてすぐに引き返そうかと思ったが、一応奥まで確認することにした。分かりやすく宝物が置いてあるかもしれない。そういうものを仕舞っておくのは大体奥の方だと相場が決まっている。

「うわぁああ!」

 なんて自分でも吃驚するくらいの声を上げてしまった。それだけにその後の沈黙が静かすぎるほどだった。心音が音を立てて鳴っている。

 ライトが差し込んで、目に飛び込んできたのは人形だった。人間の等身大の大きさであり、箱の上に腰掛けてそこにいた。あまりにも人の形であったので、その存在感に心臓がキュッと締め上げられた。

「脅かしやがって」

 気を紛らわせようと独り言が多くなっていた。闇の中の人形は不気味ではあったが、眺めているうちに随分と落ち着いてきた。

 黒を基調とした服を着ていて、シンプルではあるが宗教者の祭服のようであった。手足は長く感じられて、何より一番目につくのは顔を覆うペストマスクであった。

 この蔵の中では明らかに異質な存在ではあるものの、金にはなりそうにない。そうなのだけれど、奇妙な興味をこの人形は掻き立てた。

 止せばいいのに、この人形の素顔が気になって、マスクの留め具に手をかけた。今にも動き出しそうなものだから、触れるには一瞬の躊躇があったが、その空想は空想のまま空振った。ご尊顔を拝むも、これといった感想は出なかった。どこにでもいる西洋人の相貌で、明日にでも忘れてしまいそうな特徴の無さだった。

 ずらしたマスクを元に戻すと、充足と共に疲労が体の中にあるのに気付く。音を立てないように箱と箱の間を縫うように進んでいたので、思ったより疲れてしまったのかもしれない。

 結局のところ蔵から何も盗ることはなかった。箱を開けてひっくり返して探すのがどうにも億劫だったし、適当に持って帰って中身がガラクタであったら、余計にがっかりするだろう。楽な方へ楽な方へと流れる自分の気質が痛み入る。

 帰ろう、そして何事もなかったように寝床に戻ろう、と思ったそのときだった。

 背中で何か動いたような気配を感じた。体は硬直して数秒動けなかった。聞き耳を立てて、毛穴を広げて周囲を探る感覚。何も起きていないのを感じてから、恐る恐る後ろを振り向いてライトを向ける。そこにはさっきと変わらない光景があった。ふぅっと大きく息が漏れた。

 当たり前のことだったのに、酷く安堵している自分がいた。暗闇というのは根源的に人を不安にさせて恐怖させるのだ。そう思ってライトの向きを戻して一歩踏み出す。

 ぎしっ。

 今度は気配じゃない。明確に音が鳴った。体はすぐに金縛りにあったかのようになる。背中が汗を掻いているのが分かった。頭はパニくって、思考がまとまらない。大丈夫、大丈夫、大丈夫……と自分に言い聞かせるようにただひらすら心の中で唱える。そうだ。ちらっとライトを向ければそれで終わりだ。何事もない。スマートフォンを持つ手がかすかに震えていた。

 ねっとりとした蔵の空気の中で溺れてしまいそうで、それが耐え切れなくなって、ついに僕は後ろを振り向いた。

「うわあああああああああああああああ」

 裏返った声で悲鳴を上げる。

 あのペストマスクの人形が立ち上がっていたのだ。

 そのまま箱をかき分けて、一目散に出口へ向かって走っていった。自分が蔵に忍び込んだ盗人であることも忘れて派手に音を立てて逃げ出す。もうそんなのに構っていられる余裕はなかった。

 スマートフォンのライトを落としそうになったが、これは道しるべとなる生命線。自分の正面を照らしながら懸命に駆けていく。

 かしゃん、かしゃん、かしゃん。

 聞き覚えのない音が後ろで鳴っていた。機械が軋むようなその音とあの人形が頭の中ですぐに結びついた。

 追ってきている!

 音はどんどんと近づいてくるように大きくなっていった。

 咄嗟にスマートフォンの画面を暗くして、逃げ足を九十度切り返して道横の茂みへと体を放り込んだ。どさどさっと音を立てて、木の枝が体のあちこちを引っ掻いた。ただ、その痛みを感じている場合ではなかった。乱れた呼吸を抑え込むようにして、地面に這いつくばって息を潜める。

 苦し紛れではあったが、この選択に一縷の望みをかける。だが、それと同じくしてあの音も鳴り止んでいた。辺りは静けさに包まれている。それがまた恐ろしかった。

 体を起こして立ち上がる気にはとてもじゃないがなれなかった。夜明けまで後何時間あるかは分からなかったが、このまま朝までやり過ごしてやろうと思っていたくらいだ。

 そんなふうに考えていた矢先、間が悪いことにスマートフォンのバイブレーションが鳴り響いた。静寂の中ではあまりにも大きな音であって、自分でも血の気が引いていくのが分かった。操作して止めてももう遅い気しかしない。

 悪あがきにも程があるが、茂みの中から木の枝を拾い上げてその場で立ち上がった。こんなものを武器に見立てるのは小学生ぐらいのものだが、何も無いよりはマシだ。しばらく暗闇の中でうずくまっていたからか目は大分慣れていた。

 ほんのすぐ先にあの人形が立っているのが分かった。恐怖を通り過ぎてもう叫びも出ない。そもそも一体どういう仕組みで動いているのか。思考はそっちに転がった。

「分かった! ドッキリだ! 僕を懲らしめるためのドッキリなんだろ⁉ なぁ!」

 木の枝を突き付けながら喚いても、人形からは虚しくなるほど何も返ってこない。

 幽鬼みたいにその場でぼおっと突っ立って、自分の方を眺めている。人形なのに、息遣いが聞こえてくるかのようで、妙な生々しさがあった。ただ、追いかけてきたものの、それ以上向こうから何かしてくる気配はなかった。

 ここまで来るともうどうにでもなれ、といった気にもなってくる。

「もう一体なんなんだ……僕に構わないでくれ」

 そう溢すように言うと、その人形の輪郭がぼやけてその場から見えなくなってしまった。何が起こったのか全く分からなかったが、腰が抜けてその場でへたり込んだ。

 呆然としてしばらくその場でそうしていると、気が付いた頃には日が昇り始めていた。辺りが明るくなり始めるとようやく重くなった体を引きずって歩き始める。通りかかったバスに乗ってからは自分がどうやって岐路についたかまるで覚えていなかった。帰途での最後の思考はこの珍事よりも返済日をどうやり過ごすかというものだった。

 ハッと目が覚めると目の前の天井は祖父の家のそれではなく、アパートの自室のものだった。布団の中の自分は服を脱いで下着だけであり、自室に帰ってシャワーも浴びずにそのまま倒れ込んだのが窺える。泥のように眠っていたから今の時刻の見当は付かなかったが、まだ陽のある時間帯ではありそうであった。

 祖父の家から東京はそれなりに時間を要するが、朧げな意識でもきちんとバスと電車を乗り継いで帰れていることに驚く。我ながらなかなかの帰巣本能だ。

 鈍とした頭をもたげながら、体もゆっくりと起こす。本当は目が覚めた瞬間に飛び起きる感覚だったのだが、そこまでは体がついてこなかった。

 「うう」と呻き声を上げて、自分の体が擦り傷で傷んでいるのに気が付く。その痛みから昨晩の出来事が徐々に思い出されていった。

 あの体験を夢だと片づけるには、祖父の家に行ったところまで遡らなければならない。できれば親族に邪見にされたことも夢であれば良かったのだが、そこは現実として受け容れなければならない。

 怠くなった身体をいよいよ動かして、水の一杯でも飲もうかと思ったそのとき、視界の端に見慣れない何かがあるように思えた。その異物に目をやり、一度視線を外してもう一度見やる。二度見の先には例の人形が足を伸ばして座っていた。

 渇いて錆びた喉からはろくな悲鳴も上がらなかった。人形はお行儀良く座っていて、不意に首がぐりんと曲がる。マスクには覆われているが、目が合ったように思えた。

「な……な、な……」

 自室に居る等身大の人形の存在に当惑するしかなかった。そして、昨晩の出来事が夢や幻でなかったことを思い知らされる。頬を抓ってもただただ痛いだけだった。

 布団から這い出て、その人形の様子を窺うように距離を取る。最もこの狭いアパートの一室ではさほど離れられない。もし、その人形が熊か何かのように襲いかかろうと思えば容易であろう。

 膠着状態は続いた。察するにこの人形は自分について来てしまったのだ。ただ、道中この風体で動いていれば騒ぎになっていてもおかしくない。枕元に放り出されていた端末を手繰り寄せる。充電せずにいたので電池は残り僅かだったが、SNSで「ペストマスク 人形 動いている」等と思いつく限りの検索をかけたが、それらしき結果は見当たらなかった。

 だとすると、この奇天烈な人形はもしや自分にしか見えていないのだろうか。今この場にいるのは自分独りなので、すぐに確かめる方法はなかったが、思いつきで恐る恐るスマートフォンのカメラを向ける。シャッター音が鳴ってからすぐに画像ファイルを確かめた。もし、そこに存在していないものであればカメラには映らないはずだ。この際、幽霊でも幻覚でもなんでも良かったが、期待とは裏腹にその人形の画像はばっちりデジタルデータとして残っていた。

 保存された写真と実物を見比べても何も変わりはない。それだけくっきりと写っていた。それから一定の距離を保ちながら、人形の一挙手一投足にビビりながら観察を続けて一時間ほどが経った。手を伸ばしては引っ込め、触るか触るまいかの逡巡をして、半ば自分の世界に意識が行っていただけに、人形が突然立ち上がったときの叫び声はひっくり返ったもので身体も大いにのけ反った。

「えっ、えっ」

 ついに襲われるのか、という思考は目の前のリアルに塗りつぶされる。

 人形が立ち上がると同時に、そのポケットからお札がぼどぼどと零れ落ちた。オフダではなくオサツだ。帯札はされていないので正確な量は分からなかったが、数百万はくだらないだろう。

「うおっ、うおおおおっ!」

 亡者のように金に飛びつく。手触りも本物らしく、透かしもちゃんと入っているし、パッと見た限りでは通し番号も異なっている。人形が故意にポケットから取り出したように見えたとか、数百万が収まるサイズのポケットには見えないだとか、そんなことはもうどうでも良かった。とにかくここにある。金! 金! 金! これで借金には困らない。いや、返済したところでまだまだ残るだろう。

 金を鷲掴みにして悦に入っていたせいで気が付くのが遅れたが、人形のテリトリーに入り込んでしまっていた。テリトリーと言ってもこっちで勝手に区切っていたのだが、これだけ近付いても人形はこちらに何かする素振りは見せない。金と戯れる自分をただ見下ろしていただけだった。

 待てよ、と自分の中で閃き、もといシナプスが活性化されるような感覚が起きた。もう一度スマートフォンを開いて、SNSのニュース欄を開く。さっきはほとんど気にも留めなかった事件の記事をタップする。

 その事件はATMが破壊されて現金が盗み出されたというもの。結構な近所で起こった事件だったので記憶にフックがかかっていた。ただ、奇妙にも設置されていた監視カメラにはその犯人の姿が映っていなかったという。犯行時刻は朝方と書いてある。記事では犯人は監視カメラに何かしらの細工を施したのであろう、という記述で締められているが、最後まで読んだ後にまじまじと人形に目をやった。

 もしかしたらこの人形が犯人なのではないのだろうか。被害金額もなんとなく同じくらいの規模に思える。仮に、仮に、この人形がとても強引にATMから金をおろしてその姿が監視カメラに収められていないとなると、さっき自分のカメラで撮れた事実と矛盾する。

「透明になれる……?」

 自分の仮説が口から漏れ出てしまっていた。そう考えると帰り道で誰の目にも触れていないのも辻褄は合う。

 少し考えてから言葉を探した。人形に話しかけるなんて正気の沙汰ではないが、自動で動いている様を目の当たりにしている以上、誤差みたいなものだろう。自分も立ち上がってこう言い放つ。

「す、姿を眩ませてみろ」

 ちょっと高圧的な物言いになってしまったか、と口に出してからほんのりと後悔してドキドキしていると、その人形はおもむろにその輪郭を消失していった。そして、今まで背景だったところが見えるようになっていた。

 思わず拳に力が入る。成功だ。それにこの人形はこちらの意を汲んでくれるらしいというのも分かった。金に困っていた自分の深層心理を掬い上げてきたのだろうか。そこまで考えるのは我ながら自分に都合が良いかもしれない。

「よし。出てこい」

 そう告げるが、目の前に人形の姿は現れない。おかしい。ここに来てこれは夢か幻だったのか。いや、現金だけはしっかりとある。焦ってきょろきょろすると人形は背後に突っ立っていた。情けない声を上げて床に尻をついた。心臓に悪い。顔は見えないが、なんとなく嗤っているようにも思えた。

 だが、これで確信に変わった。仮に、もし、この人形がATM泥棒の犯人だったとしても、ちゃんと姿を消して犯行に及んでいたのであれば証拠は残らない。つまり、この金は安全に使える。なんてラッキーなんだ。遺産は貰えなかったが、それ以上の収穫があった。不可解だがこの動く人形を上手く使えば一生金に困ることはない。すっかり舞い上がって有頂天になっていた。

 それからの数日間は薔薇色だった。

 金さえあれば大抵の遊びには困らない。平日はパチンコ、休日は競馬場に足を運んだ。ギャンブルというのは金を増やすためじゃなくて、ドキドキを味わうためにやるもの。勝てばその記憶が脳に克明に焼き付けられる。それを求めて僕らは何度も金を突っ込む。普段は財布の中身を多少は気にしていたが、今はそんなこともない。安心してその行為に興じられた。逆に今まであったなけなしの金を失うかもしれないというひりつきはだいぶ薄れてしまった。その発見はなかなか実感できるものでもないだろうから選ばれし者になったという感動はあった。すっかり余裕ができてしまったので、わざわざ朝から並ぶこともなくなった。というのも夜は夜で飲みに出歩いていたからだ。普段は飲めないようなグレードの高い店で女を侍らせ、普段は飲まない高い酒を浴びるように飲む。酒は強くも弱くもなかったが、泥酔してしまえば高いも安いも変わりはない。鷲掴みにして適当に財布に突っ込んだ金は翌朝には大体なくなっていた。

 連日連夜、贅を尽くして遊んだが、その反動は身体の方に跳ね返ってきていた。まだ若いとはいえ、ろくに眠らずにいれば疲労は溜まる。

 それからしばらくは家で過ごすことにした。家にいても三大欲求すべては満たせる。睡眠はもちろん、食欲も性欲だって簡単に届けてもらえるのが今の世の中だ。我ながら極端ではあると思うが、家に帰らないような生活が続いたと思えば、家から全く出ない生活をし始める。それぞれを飽きるまで愉しんでやろうという思いが自分の中にあった。

 そうやって小市民が思いつく限りの娯楽をひとしきりやった後、さてこれからどうするか、もう一線超えたところに踏み込んでやろうか、と御法に抵触する不心得を抱き始めた頃、その日最初の来訪者が自宅を訪れた。

 チィーーーン。チィーーーン。チィーーーン。

 出し抜けにインターホンが鳴った。

 古いアパートというのもあって、人を呼び出す音も安っぽくて腹立たしい。そうだ。金もあることだ。引っ越しをしてみるというのも良いかもしれない。

 そう思いながら気だるげに覗き穴に目をやると、普段なら居留守を決め込む相手が立っていた。だが、今の自分はそんな彼の相手をしてやるのもやぶさかではなかった。

 一度玄関から部屋に戻って、束にした金を二つばかし手に取ってからドアを開けた。その瞬間、来訪者の足がドアの間に突っ込まれてストッパーをかける。

「今日はやけに素直に出てくるじゃないの」

「嫌だな。いつもと変わらないですよ」

「返済日だってのに、顔出さないからわざわざ来るハメになったんだぞ」

「いやぁ、ちょうど伺おうと思ってたところだったんですけどねぇ」

「チッ、よく言う」

 そこにいたのはお世話になっている借金取りのおじさんだった。頭はパンチパーマがかかっていて、胸が大きく開いた派手なシャツを着ているといういかにもな風貌だ。

 最初はパリッとしたスーツを着た真面目なサラリーマン風の男が僕の応対をしていたのだが、借金が積りはじめてからはいつの間にかこのおじさんに担当が変わった。

「で、利息分ぐらいはあるんだろうな?」

「まさか!」

「あぁ?」

 低い声の恫喝。普段だったら縮み上がって手のひらを擦るぐらいしかできないが、今日は違う。

「今日はきっちり返しますよって」

 そういって札束二つを借金取りに手渡した。彼もかなり意外だったのか、目を丸くして一瞬言葉を失っていた。

「お前……これ、どうしたんだ。万馬券でも取ったんか」

「まぁ、そんなところです」

 にやつきを隠せないままそう言った。万馬券どころじゃない。十万、百万馬券級のスーパーラッキーだ。

「ということでね。今までご迷惑かけましたから。その、お釣りは取っといてください」

 自分には珍しく馴れ馴れしくも彼の肩をぽんぽんと叩いた。

「いや、返す金があるのはいいんだがよ」

 彼は気まずそうに一旦言葉を区切った。

「お前、これ足りてないぞ」

「えっ。そんなぁ。確か二百万ぐらいでしたよね⁉」

「ぐらいって……俺が言うのもなんだがちゃんと自分の借金額くらいは把握しておいた方がいいぞ」

 そう言うと彼はドアの間に挟んでいた足を引いた。

 部屋に戻れば金はある。でも、これで引き下がってくれるならそれで良かったし、一回カッコつけてしまったばっかりにおずおずと追加で出すのは恥ずかしかった。

「今日のところはこれでいいわ。次はちゃんと残りの金持って来いよ!」

 金融屋の取り立てにしては随分と優しいおじさんは、二百万を受け取って帰っていった。残りは十数万ぐらいらしく、賭けの勝ち分でなく真面目に働いて返せという忠告もいただいた。

 ありがたい言葉ではあったが、余計なお世話でもあった。そのうち折を見て返しに行こうとそのときは思ったが、次の日にはきっと忘れているだろう。彼のことを思い出すのは返済日前だけで充分だ。

 一仕事終えた気分になって、部屋に引っ込んでからは体を布団に横たえてごろごろと過ごす。なんとなく引っ越し先の物件をスマートフォンで物色するもあまりピンと来なかった。今のアパートの家賃が安すぎて貧乏性に陥っているんだと思う。気が付くと青白い光が顔を照らしていた。時間が過ぎるのは存外早くて夕方を通り越して外も暗くなり始めていた。

 やっぱり今日も部屋から出る気にはならない。なんだか身体も怠い。今度は物件から食事探しに切り替える。何もしなくても腹は減るが、惰性気味に検索するものだから物件のときと同じくなかなか自分の中でヒットしない。何にしようか。これなんかどうか。いや、この店って一昨日も頼んだっけか――。

 チィーーーン。

 インターホンの音だ。メニュー探しの途中でうつらうつらとしていた意識が起こされる。腹もすっかり空になっている。何を注文したのか、そもそも注文を確定したのかさえも曖昧なまま体を起こして玄関に向かう。時間はすでに二十二時を回っていた。

 部屋の電気を点けてから、最低限の防犯意識で覗き穴を覗き込むもその警戒心はすぐに解かれた。

 ドアの前に立っているのは女だ。若い女だった。何の気なしにドアを開ける。

「あ、どうもー」

「はぁ?」

 僕がそう言うと、その女は怪訝そうな顔をした。

「あれ、デリバリーの人じゃなく……?」

 そう言いかけるが、確かに配達員が持っている大きな鞄はどこにも見受けられなかった。

「誰がデリヘルよ。失礼ね」

「デリバリーって言ってもヘルスじゃなくて、フードの方なんだよね。まぁ、それも勘違いだったんだけど」

 すると、その女はみるみるうちに顔を赤くした。勘違いはお互いしていたが、彼女の羞恥心の方が大きかったらしい。

「こ、この流れで言うのもなんだけど、ちょっと部屋に入れてもらえる?」

「ええっ」

「変に期待した声を出さないで! まずは話をするだけよ」

「でも知らない人は部屋に入れちゃダメって」

 茶化したような言い方をしてみたが、部屋の中には金が散らばっている。この女の正体が分からない以上、そんな謎の金を見られるのはよくない気がする。それに人形の存在もある。今しがた姿を消すように心の中で念じてはみたが大丈夫だろうか。

「命に関わることよ。君、このままだと死ぬわよ」

 普段の生活の中では意識されない『死』というワードに胸がキュッと締め付けられるも、そんなふうに言われる覚えはなかった。

「命ぃ? だらしなく生きている自信はあるけど、僕はまだ健康体だって」

「私が医者にでも見えるの?」

「いや……そうでも」

 彼女の格好は医者の清廉とした白とは真逆の黒を基調にした服装だった。よく見れば奇麗な顔をしているが、そこまで賢そうには見えなかった。それに唐突に訪問医療をしてくれる医者なんてなかなかいないだろう。

「私はこれでも一応占い師よ」

 胸に手を当てて彼女はそう言った。ひらひらとした衣服は言われてみると占い師のようにも見えてくる。それに人に死の宣告をしてくるところもそれらしいと言えばそれらしい。腑に落ちる納得感もあった。けれども、それとこれとは話が別だ。

「あ、自分は神様とかは信じてないんで」

「宗教じゃないわよ! 一緒にしないで!」

 強い語気に気圧されて、もといビビッて言い返せずにいると、彼女は改めるように話を続けた。

「最近変わったことがあったんじゃない?」

「そんな、ないっすよ」

 その心当たりはありすぎるほどあったが、素直に「ハイそうです」と言うわけにもいかない。

「そう? そうね。じゃあ、たとえば、『人形』……を拾ったとか」

 心の中にダーツ・ボードがあったらど真ん中ダブルブルを決められた気分だった。

「……お姉さん、何者?」

「だからさっき言ったでしょ。占い師だって」

 彼女は涼し気にそう言った。すっかりこの人を部屋に入れても良い気になり始めていた。この人はあの『人形』について何か知っている。そして、彼女の言う命に関わる事柄というのはその『人形』にも関係していると考えていいだろう。

「分かった。でもちょっと待ってくれ。ちょっと片づけるから」

 ドアを一度閉じて足早に部屋の中に戻る。『人形』の姿は見えなくなっていてそれは安心した。ただ、金だけは隠した方が良い。これを見られるのはやっぱりまずい気がする。

 だが、一度閉まったはずのドアはすぐにまた開いていた。その女は問答無用で部屋に上がり込んでいた。

「しっつれーい」

「ちょ、ちょっと」

 自分の制止をするりと掻い潜って中へと入ってくる。そして、いともたやすく散乱した大金を見られてしまった。

「へぇ……随分と稼いだのね」

 これを見られてしまったからには口封じをしないといけないか、とそんな考えも頭に過ったが、彼女から話を聞く必要もある。一瞬のうちに駆け巡る脳内が険しい表情として出ていたのか、先に彼女から釘を刺された。

「ちょっと! 妙な気は起こさないでよね。この際このお金の件はどうでもいいんだから」

 こちらに理解を示してくるものだからつい安心してしまう。善良な一市民として人殺しなんてのは大それている。少し心理的な負担が軽くなった気がした。

「それで『人形』は? ここにあるんでしょ?」

 彼女は部屋の中を見回す。この狭い部屋のどこに隠しているのか疑いを持っているかのような動作だった。

「えっと。驚かないで欲しいんだけど、なんか透明になれるみたいで、それで今は透明になってもらってる」

「透明……なるほどね。それって今見られる? 実際に見てみた方が早いと思うし」

「たぶんいけると思う」

 さっきとは逆のことを頭の中で念じる。すると、『人形』はおもむろに姿を現した。

「はい」

「え? いる?」

「はい。後ろに」

「へっ?」

 僕が彼女の背後を指差すと、即座に振り返って間髪入れずに小さな悲鳴が上がった。

「お、驚かせないでよ!」

 キッと睨んで自分に非難を浴びせる。

「僕に言われても。そいつ結構お茶目なやつみたいで自分も最初は脅かされたくらいで」

「君が動かしたんじゃないの?」

「いや。そこまでは。姿を現せ、ぐらいは念じたけど」

「へぇ。そう。ふむふむ」

 急に出てきたことには驚いたようだが、『人形』そのものへの脅えはない様子だった。それどころか興味深そうに『人形』を眺めていた。

「圧迫感はすごいけど、見た目は思ったより恐ろしくないのね。鳥のお面なんかしちゃっておかしいわね」

 ペストマスクのことを鳥のお面と表現して笑っているくらいだった。モチーフはそうなのだろうが、そんな言い回しをする人を見るとこっちがなんだかおかしく思える。

「それで、こいつは一体なんなんだよ」

「知りたい?」

「引っ張らなくていいって」

「あ、そ。これはおそらく『霊魂自動人形』っていう代物ね。私も実物を見るのは初めて」

「レ、レイコン、何?」

 聞き馴染みのない言葉に復唱できずにいると、彼女はゆっくりと繰り返してくれた。

「『霊魂自動人形』ね。幽霊の霊に、魂で霊魂。正確な時期はよく分かってないけど百何年か前に欧州のとある人形技師が作ったとされる呪いの道具ね」

「呪い⁉」

 これまた突拍子もない話に思えたが、独りでに動く人形を目の当たりにしている以上、そういうオカルトも否定しきれない。

 それに『呪い』というワードは穏やかではないし、嫌な予感が込み上げてくる。

「呪いというと、人を呪わば穴二つでお馴染みの」

「そう。その呪い」

「話の感じからしてもしかして僕呪われちゃってます?」

「えぇ、そうでしょうね」

 こっちの重苦しい口調とは対照的にとても簡単に肯定してくる。

「先生! 僕まずいんですか⁉ 死ぬんですか⁉」

「急にまとわりつくな!」

 藁をも掴むイメージで彼女の肩を掴むも振り解かれてしまう。

「今生きてるんだし、直ちに影響はないんじゃない?」

「そんな無責任な」

「私だって一から十まで知ってるわけじゃないわよ」

「じゃあ知ってることを教えてください」

「えぇ。私もそのつもり」

 そう言って彼女はその場に座り、自分もそれに倣って腰を下ろした。

「お茶とか出ないわけ?」

「水道水で良ければセルフサービスです」

「あ、そ。じゃあ良いわよ」

 苦々しく口を歪めてから、彼女は話を始めた。

「まず……そうね。その『霊魂自動人形』の動力源からね。文字通り人間の魂をエネルギーにして動いているの」

「じゃあ今の場合」

「君の魂を使って動いていると思うわ。君と『自動人形』の間に経路が繋がっているみたい。君の思った通りに動くのもそのためね」

 そう言われると思い当たる節がなくもない。ここのところやけに体が怠いのは『自動人形』からエネルギーを吸われているということか。

「思った通りって言っても自由自在ではないけどね」

「そうね。あくまで『自動人形』だから自律的に動く部分が多い。というより本来は生きた人間と長く繋げる想定はされていないっぽいのよね」

「え。そうなの?」

「たとえば、この『自動人形』に憎しみとか殺意に満ちた人間の魂を食わせてその人間を死なせれば憎悪を撒き散らす殺人マシーンの完成。その魂の燃料が尽きるまで大勢の人を殺すテロにだって使える」

「そんな都合良くそんな人間が用意できるもんなのか?」

「悪人を拉致してきて拷問なり半殺しにするなりして憎悪を高める、とか」

「え……やば」

「ちょ、ちょっと。言っておくけど私が考えたわけじゃないからね。資料に書いてあったのよ。資料に」

 彼女の話す本来の使い方とやらにドン引きしていると慌てて訂正を入れてくる。考えうる最悪の使い方ってことなのだろう。

「『自動人形』が起動してしまったのは最悪だけど、経路が繋がった人間は幸いだったわ」

「うんうん。僕みたいな聖人で本当に良かった」

「えぇ、本当に。ただ金を盗み出すのに使う程度の悪人の手に渡って良かった」

 彼女は口角を釣りあげて、皮肉を込めてそう言った。

「でも待てよ。もし僕がもっと凶悪な人間だったらどうする気だったんだ?」

「それならこんなぬるい対応はしないわよ。一人でのこのこ来たりもしないし。むしろ、探すのが面倒だったくらいよ」

 押しかけられたときは気が動転していたから彼女がどうやって自分を見つけたかまでは考えが回らなかった。そうは言っても改めて考えてみても答えは出ないのだが。

「ちなみにどうやって?」

「私、不可解な事件の情報が入ってくるようにしてるの。この間起きたATM強盗事件が引っかかって、後はその周辺を足で探して……結構大変だったんだからね」

「足で探すって何? 訪問販売みたいに一軒一軒声かけてるとか?」

「そこまでじゃないけど……。私占い師でしょ? 霊感もあるから怪しい空気を発してるところを探すんだけど」

 自分が占い師であることをとにかく強調して話すのはなんなのだろうか。

「ここを見つけたときはびっくりしたわ。君のアパートから発せられてるのってもう邪気よ。邪気」

「へぇー。そういうのは全然感じなかったなぁ。なんか体が怠いなってのはあったけど」

「よくそれで済んでるわね……」

 呆れたようにそう言う彼女の言葉で思い出す。この『自動人形』が本当は恐ろしい呪いの人形で魂を食われていて命が危ういということに。

「そうだ。このままだと僕はまずいんだろ!」

「えぇ、魂を食われているからこうしている今でも寿命が削れているでしょうね」

「人生は太く短く派でもそれは嫌だ。どれくらいもつもんなんだ……?」

「それはちょっと分かんないけど、……二週間とか?」

「いくらなんでも短すぎる」

 この『自動人形』と出会ってからすでに数日間が経過している。だとすると、もうそこまでリミットに余裕はない。そうやって具体的に数字で考えてみると恐怖がリアルに感じられる。

「それで、それで解決方法は⁉」

「『自動人形』との繋がりを、経路を切断できれば解決するはずよ」

「い、今すぐやってくれぇ」

「無理よ」

 僕の切望は彼女の一言でぴしゃりと叩き潰された。

「な、なぜ! 金⁉ 金ならあるぞ。ここにあるので足りなければ『自動人形』に銀行強盗でもさせて……」

「あぁ、なんてさもしい人。君の呪いは私の力じゃ及ばないのよ」

 あぁ、このわたくしが救って差し上げますといった具合に現れておいて、何もできないとはなんて使えない女なんだろう。完全な八つ当たりではあったが、思わず恨みの感情が彼女に向けられてしまう。

「君の考えていることがよーく分かる視線ね……」

 目は口ほどに物を言うというが、こんなところで実感したくはなかった。自暴自棄気味に口を尖らせて突っかかる。

「じゃあ何か方法があるんですか?」

「可能性はあるわよ。そのために来たんだから」

「せ、せんせえ~~~」

「ほんと調子が良いわね」

 彼女の表情はもはや呆れを通り越してもはや真顔になっていた。

「とある霊山に住まわれている僧侶がいて、その方の力をもってすれば君の呪いを解けるかもしれない。ただ、一つの懸案もあって、君が良ければこの後すぐにでも出発したいんだけれどどうかしら」

「よし! すぐにでも出発しよう」

「二つ返事……。こっちは助かるけど」

「そりゃ、命がかかってるんだから当然よ。場所は?」

「奥多摩の方。タクシーで二時間とそこから歩きで四十分くらいかしら」

 目的地が思ったよりも都心に近くて助かった。リュックサックを取り出して札束をそこに全部突っ込む。自分の準備はそれでほぼ完了した。他に必要なものはないか。さっき夕食を選んでいるうちに寝落ちしてしまったからスマートフォンのバッテリーが心許ない。いや、落ち着け。モバイルバッテリーで移動中に充電すれば良い。

 チィーーーン。

 そうやって慌ただしくしているとインターフォンが鳴った。今日はよく人が来る日だ。これで三人目だ。彼女もそうだが、随分と遅い時間に来るもんだ。急いでいるのに出鼻を挫かれた気持ちになる。彼女に目配せをして居留守を決め込む合図を送る。変に応対して時間を取られる方が嫌だった。しばらくすればいなくなるだろう。

 チィーーーン。チィーーーン。チィーーーン。

 また音が響く。連打されているわけではなかったが、三十秒ほどの間隔でチャイムが鳴らされていた。かれこれ五分近くはドアの前にいることになる。

 いい加減苛立ちも募ってくる。電気が点いているから部屋に居るだろうという判断だろうか。それならば何者か見るくらいはしてもいいだろう。目が合うのを覚悟で覗き穴に目をやる。

 そこには中年の男性が立っていた。どこにでもいそうな普通の男。濁った目は焦点が合っていないようで、チャイムのボタンを押す一定の間隔もあってかロボットみたいな雰囲気であった。

 さっさと追い返してしまった方が早いか。そう思ってドアノブに手をかけたが、それを止める彼女の小さな声が背中越しに聞こえた。

「待って」

「なんだよ」

「誰が来たか、私にも見せて」

「良いけど」

 玄関前でひそひそとそんなやり取りをして、彼女と場所を入れ替える。そっと瞳を覗き穴に近付けて来訪者を盗み見る。すると、彼女は玄関から後ずさりして口元を手で覆っていた。心なしか顔色も良くなかった。

「出ないで……」

「えっ」

「絶対出ないで」

 くぐもった彼女の声は聞き直してようやく聞き取れた。剣呑な空気を感じ取って耳打ちで訊ねる。

「知ってる人?」

 彼女はただ首を横に振るだけだった。その言葉には従いつつも、ドアの前に居座られてしまってはやはり外に出ることはできない。どうしたものかと思っていたそのときに自分のスマートフォンが音を立てて鳴った。普段はバイブレーション設定にしていたが、どこかを触ってしまったのか設定が変わっていたらしい。しまった、と思ってももう遅い。

 チィーーーン。

 チィーーーン。

 チィーーーン。

 チャイムの間隔は早くなって、「応対セヨ」と咎めるみたいに何度も何度も押される。この不愉快な音が頭の中で思考のノイズにもなってくる。

 スマートフォンの画面を見ると親族からのメールが来ていた。メールは間隔を開けて何件も来ていたようで、そのうちの一件が今しがた着信音を鳴らした。内容は祖父の家の蔵が荒らされていたというもので、「お前が犯人だろう」という旨の非難の文章が書き添えられていた。あの日確かに自分は蔵に侵入した。だが、それはもう数日前のことだし、自分は殆ど手をつけていない。メール本文には家探しされたようにしっちゃかめっちゃかにされたとあった。

「田舎の家の蔵が荒らされていた……」

 僕は零すようにそう言った。そして、彼女に向き直ってもう一度訊ねた。

「なぁ、外にいるのは何者なんだ」

 メールの一件と外の男が繋がっていると考えると途端に気味が悪くなってくる。動揺していた彼女も大分落ち着いたのか、少しずつ話をしてくれた。

「これが私の思っていた懸案よ。まさかもうそこまで来ているなんて」

「なんなんだこいつは」

「『自動人形』を悪用しようとしている連中よ」

「悪用?」

「それこそさっき言ったようなテロじみた使い方をしてもおかしくない人たち。グリーン創世会って聞いたことない?」

 聞いたことがないカタカナの会に僕は首を横に振った。

「表向きはエコロジーとか環境とかそんな耳障りの良いことを謳ってる団体なんだけど、それがエセ科学に始まり、スピリチュアルにも傾倒して一種のカルト宗教になってるのよ」

「じゃあそのカルトが『自動人形』を狙ってるってのか」

「えぇ、そうよ。外の男も緑色のベストを着てた。緑のものを身に着けてるのが特徴よ。だから絶対に開けないで」

「でもそれじゃ出られないぜ」

「きっと最低でも刃物か何かは持ってると思う。場合によっては警察を呼ぶことも考えないと」

「警察はまずい」

 警察を呼べば外の男を追い返せるかもしれないが、事情聴取だなんだで余計に時間がかかって出発が遅くなる。それにもし自分の持っている大金が見られればそれどころじゃなくなってしまうだろう。

 チィーーーン。

 チィーーーン。

 チィーーーン。

 音は鳴り続けている。近所にも多少は聞こえているとなると、アパートの隣人が警察に通報することも考えられる。ただの中年のカルトの手先に思いのほか追い詰められているのを自覚した。

「やっぱりすぐにでも出発したい」

「待って! ドアは絶対――」

 彼女が言いかけたそのとき『自動人形』がドアの前に立った。

 そして、『人形』は足を上げて思い切りドアに向かって前蹴りをぶちかます。ただし、その足がドアをへこませることはなかった。その代わりにドアの向こう側で男の呻き声が上がる。蹴りを放った瞬間、ドアをすり抜けるように足は透明になっていて、蹴り足が男に突き刺さったらしかった。不可思議ではあるが、起こった事象を見ると『自動人形』はドア越しに男を蹴りつけていた。こちら側に戻した『人形』の足はもう透明じゃなくなって、何事もなく実体を持っている。

 覗き穴を見ると、男の姿は見えなくなっている。恐る恐るドアを開けて隙間から体を出して外を見ると、その男は失神してその場にひっくり返っていた。傍らには男の所有物であると思われるスタンガンが転がっており、まさに彼女の忠告通りであった。

 一瞬の出来事であったが、状況はその一瞬で解決していた。自分も彼女もすぐに言葉にまとめられずにいた。頭の中でたった今起こったことを整理する。だんだんと現実離れした状況に慣れてしまっている自分がいた。

「透明って言ったけど、なんか実体なくせるみたい」

「多分だけど霊体にもなれるみたいね。それだと色々合点がいくわ」

「あぁ、なるほど、霊体か。その表現しっくりくるな……」

 蹴る瞬間にドアを通過する部分だけを霊体化した、というのが二人の共通認識になった。霊体……言うなれば、お化けみたいになれるのであれば移動も随分楽になる。実際祖父の家から帰っている間はずっと霊体化していたのだろう。危険な存在であることは間違いないが、危険な存在を打ち払うのに役立ってしまい妙な気分だった。

「すぐにここから離れないと。この男が一人だとは限らないわ」

「田舎の家もこの部屋も割れてるみたいだしな……」

 彼女はATMの一件から自分を割り出したみたいだが、グリーン創世会なるカルトは祖父の家から自分に辿り着いたようにも思えた。もし、彼女とこの男の順番が違っていたらと思うとゾッとする。不用心にドアを開けてスタンガンを食らった後はどうなったものか分からない。

「荷物を持って早く行きましょ」

「ちょっと待ってよ。それももちろん大事なんだけど、タイミングってのは一回逃したら強引にでも引き戻さないといけないわけで」

「はい?」

 自分の要領の得ない台詞に彼女は怪訝な顔になる。急いでいるのに何をぐだぐだ言っているんだとでも言いたげな顔だ。

「でも、ほんと一瞬で済む。名前よ名前。先生の名前を聞いてない」

「あー……そういえば名乗ってなかったっけ」

「うん」

「こっちはある程度君のことを下調べしてしてたからもう知ってる気になってた」

「えぇっ。今日すぐに来たんじゃないの」

「あのねえ。さっきの話じゃないけど、君の素性を知らずに来れないわよ」

 彼女はさも当然といったふうに話す。彼女の立場からすればまぁ当然なのだが、自分からすればその間の時間だけ寿命を失ったことになる。僕がやきもきしている間に彼女はさらりと名乗りを上げていた。

「私の名前は二階堂。これで満足した? さっ、行くわよ」

「待って待って。僕の名前は――」

「だから知ってるって。君は君で充分」

 こっちの言葉を遮って彼女はそのまま部屋から出ていく。倒れた男をぴょんと飛び越えた。先に行ってしまうものだから、金を詰めたリュックを手繰り寄せて二階堂の背中を追いかけた。

 こうして僕たちは部屋を後にした。緑ベストの男の仲間がいるのではないかと警戒しながら足早に大通りまで出ると、間もなく通りかかったタクシーに飛び乗ることができた。

『自動人形』は霊体化してもらっていたが、どうやって僕らについて来ているかはよく分かっていない。意味があるかは不明だが、とりあえずタクシーのトランクに隠れているように念じてみた。

「どちらまで」

「とりあえずその辺を流してもらえますか」

「はーい」

 行き先を訊ねたタクシーの運転手は、彼女の指示に眉をひそめながらも従った。運転手の男はいかにもベテランそうで皺を顔に刻み込んでいた。何のこだわりもなさそうなラジオからの音楽と特有の匂いが車内にはあった。自分はこのタクシーの雰囲気が少し苦手だった。

 二階堂は本来の目的地を告げず、タクシーは夜の街を当てもなく走っていた。時折タクシーの背後にちらちらと視線をやって何かを確認している。

「尾行の確認よ」

 小声で二階堂はそう言った。自分が不思議そうにしていたから教えてくれたのだろう。しばらくタクシーを走らせてから安全を確認したのか、二階堂は目的地の住所を運転手に話し始めた。僕にも聞こえてはいたが、覚え切れなかった。

 運転手は信号待ちの間にカーナビにその住所を打ち込む。山奥だから画面には目的地の点以外何も表示されない。

 その場所を確認すると運転手は眉間に皺を寄せて問いかけてくる。

「こんなとこに何の用なの」

 ルームミラーに映るその目は不審に満ちている。

「えぇ。私たち心霊スポットを巡るのが趣味でそこがちょうどそうなんです。運転手さんは待ってなくて良いんで着いたら戻ってください」

 彼女は物腰柔らかくそれらしきことを言って応対する。自分から見たらとても社会性に富んだ態度で感心する。運転手も不審者を見る目から変わり者を見る目ぐらいには変わっていた。

「ふーん。帰れなくなっちゃうよ」

「朝までいるんで大丈夫です」

「それなら良いけど……お金あるの? ここからだと結構遠いよ」

「えぇ」

 二階堂はそう言うと僕を肘で突いてくる。おそらく見せ金を出せということだろう。あまり考えてなかったが自分持ちなのか。別にいいのだけど。ただ、どれくらいかかるのか見当がつかなかったのでリュックから札束を一つ取り出して運転手に見せる。

「あの……これ……」

 運転手はその金を見て一瞬だけ目を丸くしたが、特に言及はなくそのまま車を走らせるのに集中し始めた。やった後で自分の行為が怪しいものに思えてきたが、運転手だって長距離の料金がきちんと支払われるのであれば一応問題はないのだろう。

 車内に話し声はなく、ラジオからの音楽と走行音だけがあった。流れている流行歌をこの年齢の運転手が知っているのか気になったが、気を紛らわせられれば何でもいいのだろうと一人で納得した。この運転手はあまり話しかけてくるタイプではないらしく、黙々とハンドルを握っている。

 二階堂に色々と話を聞いてみたい気もしたが、この運転手という第三者がいることでそれも憚られた。もしかしたら心霊スポットに行くくらいのオカルト好きという建前である程度話せたのかもしれないが、彼女は彼女で黙ったまま窓の外なんかに目をやったりしている。もしかしたら流れている音楽に耳を傾けているのかもしれない。まだ街中を走っている僕たちは街灯の光を追い越したり、対向車とすれ違ったりして夜を進んで行った。

 いよいよ退屈になってスマートフォンを取り出して画面に目を落とす。暗い後部座席がぼんやりと白く照らされた。二階堂はちらっとこっちを見るとまた窓の外に視線を戻した。SNSや普段見ているニュースサイトを一通り巡回すると見るものがなくなってしまう。動画を見るというのも暇つぶしの手ではあるが、イヤホンを忘れてしまったので、ラジオのBGMと音が混じり合ってしまう。そっちを止めてくれと言うのも気が引けた。その気になればネットのコンテンツなんてのは無限にあるはずなのだが、心のどこかで素直に楽しめなくなっている気がした。これは焦燥感だ。自分の身の上を考えるとどこか落ち着かない。今こうしてタクシーに乗っていることが最善最速であるのだけれど、どっしり構えられるほど図太くはなかった。

 ふと、さっきのカルトについて検索することを思いつく。今この時点においては本当に知りたい情報であったし、建設的な気がした。えぇと、名前はなんていったか、グリーン……とそこまでしか頭に入っていない。

「なぁ、二階堂」

 仕方なく小声で二階堂に話しかける。返す彼女の声のトーンもさっきよりは低かった。

「あら。呼び捨てね。了解」

「サンでも付けた方が良かったか?」

 二階堂の年齢は分からなかったが、おそらく自分よりは年上だろう。ただ、わざとらしい敬語を使うほどは離れていないとも思う。

「なんでもいいんだけどね。それで?」

「さっきのさ。グリーン……なんだっけ」

「グリーン創世会」

 端的な返事をそのまま検索エンジンに打ち込む。すると検索結果の一番上に公式サイトらしいページが表示された。それをそのままタップするとページが表示されるわけだが、その内容には驚かされた。

 一見するとカルトとは分からないような小綺麗なデザインのウェブサイトが目に飛び込んでくる。コンテンツも充実しているように見えてパッと見では怪しい気配は感じられない。サイトに貼られている写真では、にこやかな笑顔を浮かべた青年たちが畑作りに精を出している。普通の環境団体にも見えるが、どこか不自然さも感じられた。サイトをよくよく見ていくと、カルト宗教であるという事前知識のおかげで文章のところどころの表現が匂い立ってくる。思わず首を傾げたくなってくるスピリチュアルぶりだ。そして、極めつけは通販のページである。そこで売られている健康食品やらサプリやらの値段がかなりの割高で確信に至った。こんな値段設定で手を出す人がいるのかとも思ったが、信者じゃないにしてもそんな値段だからこそ良いものだと思い込む層がいるのだろうと領得した。

 この団体の沿革を見るとどこにそんな資金があったのか、静岡のリゾートホテルを転用していて、かつてホテルだった場所でコミューンのメンバーは生活し、その周辺で農作物を作ったりなんなりしているらしかった。

 確かに都会での生活に疲れたり、夢破れた人たちが流れてくるのにはうってつけに思えた。ウェブサイトのトップページには集合写真が掲載されており、笑顔をたたえながら皆一様に緑色のものを身に着けている。

 部屋に押しかけたあの男はいるだろうか、と写真を隈なく見回したがそれらしき人物は見当たらない。そうなってくるとまた怪しさに拍車がかかる。ウェブサイトに載るような表向きの人間ではないということだ。リゾート跡地というのもあって敷地は広そうだし、表沙汰にできないことを隠すのも難しくはないのだろう。

 スマートフォンから目を離して、スリープモードに切り替えた。えぐみのある情報が頭に入ったせいか少し疲れてしまった。流れる曲に耳を傾けながら、タクシーメーターの数字が上がっていくのをぼんやりと眺めていた。相変わらず会話はなく、淡々と走行していく。いつしか街を抜けて、外の明かりも減り始めていた。

 山道に入り始めた頃だった。それまでほとんど無言を貫いていた運転手が口を開いた。

「お客さんたち。心霊スポットに行くくらいだから怖い話もいけるクチなの?」

「えぇ。まぁ」

 作り話の辻褄を合わせるためか、二階堂が曖昧に相槌を打つ。

「私もね。こういう仕事をしていると、そんな話の一つや二つ聞いたことあるのよ」

「へぇ。じゃあ何かあるんですか」

 そこまで興味があるわけでもなかったが、退屈を紛らわせられるならという気もあって弾みでそう聞き返した。

「あるよぉ。これはね。私の知り合いの、同業のタクシードライバーが遭遇した出来事なんだけどね。その日はすごい雨だったらしくって。雨の日ってのは稼ぎどきだからその日はもう朝から働きっぱなしね。雨は夜まで降り続いて、そろそろ上がってもいいかと思ってたら、ちょうどタクシーを止めようとしている人がいたのね。白いワンピースが夜道でやけに目立って、雨なのに傘差さないでずぶ濡れになってて、そういう人ってあんまり乗せたくないもんなんだけどつい車を寄せちゃったんだって。でもよくある話じゃない。雨の中でずぶ濡れの怪しい女がーって話。でもその女の人は傘が壊れててそれで難儀してたみたい。すごく感謝されちゃって、何よりその女性が美人だったってのもあってちょっといい気分になったんだって。一旦近くのコンビニまで寄って新しい傘を買ってから、また走り出して、行き先がね。ちょうどお客さんみたいに山の中だったんだよね。そこはちょっと引っかかったんだけど、美人には弱くって雨の中事故らないように車を走らせたんだ。はじめは社交的な雰囲気だったその人もだんだんと話さなくなって、車の中はしんとしてた。夏なのに雨もあってなんだかその日はちょっと寒かったなぁ。それでどこまで行くんだって思いながらハンドル握ってると、さっきまでずっと黙ってたその女性が」

 そこで運転手は言葉を切った。話の中の間としては長すぎたので、こちら側が不安になって何か言おうとしたそのときだった。

「ここで止めてください!」

 さっきまでの低いトーンとは打って変わって声をひっくり返らせての金切声を上げた。この男性のどこからそんな声が出たのかと思うほどでその突然さにも思わず体がびくっとなった。

「って言うもんだから驚いてブレーキを踏んだのね。それでちょっと待っていてほしいって言って傘を差して外に出て山の中に入っていっちゃったんだ。しばらく待っても戻って来なくってちょっと不安になったんだよね。料金の方は良いんだよ。山の中だから戻っては来るだろうとは思ってたけど何かあったのかと心配になって、こっちも傘を差して外に出たの。それでその女性が歩いて行った方に向かって行って、ぬかるんだ地面に足を取られないようにして、でもね。その辺りには人の気配はなかった。ザーザー降りだったから聞こえてるか聞こえてないか分からなかったけど、お客さぁん、お客さぁんって声をかけてね。それで足元がおろそかになってたから何かが靴に当たる感じがした。もう少し勢い良かったらつまづいてたかもしれない。それが何なのかを分かってゾッとしたの。それね、死体だった。もちろん人のね。雨で土が流されて地面から露出しちゃってた。流石に驚いて一目散に駆けだしてすぐに車に戻ったよ。大きな声じゃ言えないけどスピードも出して逃げるようにその場を後にしたね」

 ぶっきらぼうだと思っていた運転手はそんな話を饒舌に語った。タクシーに乗ってきた女性が埋めた死体を確認しに行ったのか、それともその死体自体の霊だったのか。そんな想像の余地を残す話だった。思ったよりも鳥肌に来たので、おどけた感じで運転手に話しかける。

「それって知り合いのじゃなくて、運転手さんの話じゃないですか!」

「あれ、あははは! バレちゃったか! あははは!」

「途中から話し方が実体験になってましたよ」

「あは、あはは。そうかそうか、あは」

 異様に興奮している様子でさっきまでとは明らかに違っている。自分の話でスイッチが入るタイプなのだろうか。横目で二階堂を見ると、彼女もどこか顔を強張らせている。そんな彼女が口を開いた。

「それでその後はどうなったんですか」

「ん? 何が?」

「だって死体が見つかったんですよね」

「……」

 それまで声を出して笑っていた運転手が急にうんともすんとも言わなくなる。いつからかラジオも途絶えて完全な無音になっていた。

「やだな。二階堂さん。作り話なんだからそんなディティールに突っ込んでも」

「確かに、それもそうね」

「……」

 運転手はこちらの会話に反応を示さずに押し黙ったままだった。さっきまでのように淡々と車を走らせている。

「ねぇ、運転手さん。ここら辺で一旦降ろしてもらえます?」

 二階堂が急にそんなことを言うので驚いて彼女の方を見る。まるで運転手の話みたいだ。それにここで降りてもまだまだ先は長い。

「……」

 一向に返事はない。二階堂の語気が強く大きくなる。

「降ろしてください!」

「ダメーー! ダメだめ駄目っ駄目だめ駄目ダメ駄目だめ駄目ダメぇーーーーー!」

 壊れたラジオみたいに大声で運転手はそう喚き散らした。はっきり言ってもう正気じゃない。身の危険を感じたのはそれだけではない。この細い山道でタクシーは加速していた。このままでは事故は避けられない。

「くっ」

 内側のドアに手をかけるか開かない。ロックがかかっているのもあるが、車窓にはまるで外から押さえつけるように白い手形がべたべたべたべた、と貼り付いていた。

 アクセル全開。間が悪いことに下り坂でさらに勢いがつく。このままだとガードレールを突き破ってそのまま真っ逆さまだ。殺される! 死にたくない!

 そう強く思ったそのとき、タクシーの後方から大きな音がした。反射的に振り返るとトランクが開いていた、もといこじ開けられていた。そして、車の天井に衝撃が圧しかかる。『自動人形』だ。直接は見えなかったが、直感的にそう思った。

 かしゃん、かしゃん、かしゃん、と音を立ててタクシーの上を走っただろう『自動人形』はフロントガラスに姿を現す。暴走するタクシーの前に躍り出た『自動人形』はガードレールとの間に飛び込んで緩衝材としての役目を果たした。

 強い衝撃が車内を貫く。シートベルトをつけていなかったら体は投げ出されていたかもしれない。車も崖下に転落していたであろう事故だったが、『自動人形』のおかげでなんとか免れることができた。

 運転手はエアバッグを抱いて気を失っている。二階堂が運転席の方に体を乗り出して、ドアのロックを解除する。さっきまであった手形は嘘みたいに消えていて、ドアは簡単に開いた。

 なんとか外に這い出て、ようやく一息ついた。『自動人形』はタクシーとガードレールの間から抜け出していて、何事もなかったかのように突っ立ている。この衝撃においてもなんの損壊もなさそうであった。

「なぁ、これ、何……?」

 愚直な疑問を二階堂にぶつけた。命からがら助かりはしたが、何が起こったのかという理解にはまるで追いついていない。

「たぶんだけど、この運転手が霊に当てられておかしくなったんだと思う」

 僕の問いかけに彼女はまずは一言で端的に答えた。

「霊⁉ 霊ってさっきの話の中に出てきた女の人の?」

「それは分かんないけど、原因は『自動人形』にあると思う」

 そう言って二階堂は『自動人形』に視線を向けた。

「『自動人形』の霊気が他の霊を刺激して、結果この有様になったってとこかしら」

「そうなの?」

 救われたといっても元の原因も『自動人形』にあるらしい。素直に感謝してしまったが、これではマッチポンプだ。

「君の部屋でも言ったけどこの『自動人形』が撒き散らしてるものってかなり酷いものよ。タクシーだからこれぐらいで済んだけど」

 あわや大事故を二階堂はこれぐらいという表現で片づける。まるでこれぐらいは織り込み済みといった様子に結構のんきしてた自分も気が付くところがある。

「もしかしてこの移動ってかなりリスキー?」

「そうよ。もし、電車に乗ってたら最悪脱線事故なんかもあったんじゃない? または全然知らない駅につれて行かれちゃうとか」

「そんなの聞いてない!」

「言ってないからね」

 彼女はそう言ってさらりと僕からの非難を躱した。

「この運転手も気がついたら自力でなんとかするでしょう。ここからは徒歩ね」

「と、徒歩ぉ⁉」

「それしか方法がないし、それが一番周りにも迷惑かけないわ」

 その表現には自分たちは危険な目に遭うという意が込められているのが分かった。この調子で霊障に遭うのであれば夜に動き回るのは憚られる。それにそもそもこの山を徒歩で何時間、となると体力的にも厳しいものがある。

「どこかで泊まれないのか」

「あら、急いでたんじゃないの」

「急がば回れという言葉もある」

「そうね。でもこの辺だとちょっと厳しいかも。建物なんかがあれば良いんだけど下手に山の中に入って野宿すると熊に遭うかもしれないし」

 あぁ、人間とは大自然の前ではなんとか弱い生き物なんだろう。悪霊を自然にカウントしていいかは微妙なところであったが、古代の人類のあり方を考えると間違いでもないだろう。

 はじめからできることはほとんど決まっているのだ。ババ抜きで相手のカードが二枚ともジョーカーになっている気分。試しに数歩進んでみる。これがこの後幾重にも繰り返されるのかと思うと気が滅入る。夏の夜の暑さが憂鬱に拍車をかけた。

「安心して。しばらくは舗装された車道を行くだけだから」

「それって遠回しに舗装されてない道もあるって言ってない?」

 二階堂は沈黙で答えた。つまり、……そういうことなのだ。憎々しげに『自動人形』を睨む。『人形』はタクシーの運転手という人目がなくなったからか、霊体化する気配もなく自由に闊歩していた。悪霊を集めるなら運転手に危害が及ぶ前にやっつけて欲しかった。そういうことができるかは分からないが。

「なぁ。ヒッチハイクはあり?」

「ぜひどうぞ」

 お互い分かってはいるが、こんな夜中にこんなところを通る車はほぼないと言っていいだろう。仮に通りかかったとしても、それこそ死体でも埋めにきているみたいなワケアリに違いない。その場合はお化けなんかよりも人間の方が恐ろしい場合だってある。

 僕たちの隊列はいつの間にか出来上がっていて、二階堂が先頭でその後をひょこひょことついて行くのが『自動人形』だった。そして、そのさらに後方になんとかついているのが自分だった。背中にはずっしりとした荷物もあって身体が重い。平時であればとっても嬉しいお金の重みではあるのだが、それが使えない状況であればただの重量でしかない。コンビニはもちろんのこと自動販売機一つ見当たらない。金はただあっても使いどころがなければ無用の長物。やはり使ってやらなければ意味はない。この件が終わったらまた散財しよう。そんなささやかな誓いを胸に歩みを進める。

 前を往く『自動人形』は実に軽快な足取りで進んでいた。まるで散歩を愉しむかのようにも見える。僕の魂だか命だかのエネルギーを消費しているのだから僕を運んでくれてもいいものを、と。そんなふうに考えても、このときばかりは『自動人形』も僕の思う通りには動かない。

 操り人形ではなくあくまで『自動人形』なのだと思い知らされる。僕の考えだとか思いが利くのはある程度であり自由自在ではない。もしかしたら強い思いだとかそういうのが必要なのかもしれないが、今は心から楽したいと考えている。その思いが届かないというのか。

 しばらくひーこらひーこら言いながら歩いていると、いつの間にか僕は二階堂に追いついていた。急に僕が走ったりして遅れを取り戻したというわけではない。単純に彼女の足が止まっていたのだ。

 下ばかり見て歩いていたのでろくに前を見れていなかったのだが、僕らの前には大きなトンネルがあった。そのトンネルの先はどこまで続いているのか見えず、暗闇が広がっていた。闇夜より黒いそのトンネルの穴は見ていると吸い込まれそうで落ち着かない気分になる。

 二階堂の隣にまで辿り着くと彼女は唇を締め、顔を強張らせているのが分かった。

「二階堂?」

「はぁ……ここを通らないといけないのよね……」

 独り言のように、自分に言い聞かせるように、彼女はそう呟いていた。

「なんかまずいの?」

「えぇ。大いにまずいわね。このトンネルって曰くつきなのよ」

 心霊スポットに行くと言った彼女の作り話を思い出す。その作り話もあながち嘘ばかりでもないらしい。人がとっさに話を作るとき百パーセント創作にもならないということだ。

「普通に通る分には、用心すれば問題ないのだけれども。今ってそうでもないじゃない?」

 彼女は『自動人形』の方を示す。『人形』は二階堂も追い越して、勝手にトンネルの中に入って行こうとしていた。

「『自動人形』の存在が非常に良くないわね。霊を刺激しててカオスなことになってる」

「確かに、なんか胸がざわざわするような」

「霊感がない君だからその程度で済んでるのよ。ここに入って行くのは台風の中に入るようなものよ」

「いやー、鈍感で良かったー」

「今すぐ私の立場を分からせてやりたいわね」

 二階堂は苦虫を潰したような顔でため息を吐いた。ここで立ち止まっていても『自動人形』はお構いなしに勝手に進んでいく。当然その後を追いかけなくちゃいけないし、ここに留まっていても目的地には辿り着かない。

 意を決したのか彼女は再び歩き始めて、僕もその後を小走りで追って隣についた。トンネルの中に入っていくと自分でも分かるくらいに空気の澱みが感じられる。二階堂はスマートフォンのライトで行く先を照らした。僕もそれに倣ってライトを点けた。『自動人形』の背中が映し出されて、自分たちの少し前をのほほんと歩いているのが見える。中を進んで行くとさっきまでの熱気は引いていって妙にひんやりとしていた。

「なんか……異様に暗くないか? 車も通るなら、もっと、こう、トンネル内にも灯りがあるんじゃ」

「そうね……なんででしょうね……」

 緊張感がしみ込んだ二階堂から明言はなかった。もしかしたら普段はトンネル内にも車が走れるくらいの光があるのかもしれないが、今は霊障の一環としてその灯りも失われてしまっているのかもしれない。だとすると、そんなところに飛び込んでいるこの状況は好ましくないだろう。いや、もっとストレートに言うとすると『ヤバい』んじゃないか。

「さっきのタクシーのときみたいに霊に襲われたりするのか……?」

「さぁ、どうかしらね」

 二階堂は曖昧に答えて一つたとえ話を始めた。

「君は……そうね。部屋でくつろいでて、読書なんかしちゃったりして優雅な昼下がりを過ごしていたとする」

「本なんかもう何年もまともに読んでないぞ」

「たとえよ。たとえ。そんなときに窓の外から爆竹を投げ込まれたらどうかしら」

「どうって。最悪だよ。キレるだろうね」

「今私たちがしてるのってそれに近いわ」

 そうやって聞くと途端に嫌な気分になってくる。十中八九何かが振りかかってくるってことじゃないか。爆竹こと『自動人形』は機巧音を立てながらこっちの気苦労なんて知らん顔で歩いている。

「そんな……ただ歩いてるだけなのに」

「存在してるだけでダメなものもあるのよ。この世の中にはね」

 さらりと口にした彼女の台詞が耳に残った。自分だって今のところ人様に迷惑をかけてばかりでどちらかと言えば存在してなくても良い方に分類されてしまうだろう。

でも、生まれてきてしまったのだから仕方がない。どう思われたって自分らしく生きていくしかないんだ。生きているかは微妙だし、何を考えているかも分からないが、勝手に『自動人形』の肩を持ちたくもなる。ほんのちょっぴりだけだが。

「そうだ! 霊媒師だったら『人形』を抑えるようなまじないかなんかないの?」

「霊媒師じゃないくて占い師ね。そんな都合の良いものがあったら最初からしてるわよ」

「はぁ」

「シンプル溜め息って……君ってやつは。とにかく祈るしかないわね」

 二階堂の口調は冷淡としていてとてもじゃないが祈りとはかけ離れていた。けれども、彼女がそう言うのであればそれが現実的な線なのだろう。祈ることが現実だというのもおかしな話ではあるが。

 気を張りながらも歩き続ける。暗闇というだけでもストレスがかかるが、終わりの気配は一向に漂ってこない。足の裏にかかってくる疲弊が痛みを告げる。以前付き合っていた彼女にショッピングへ連れ出され、連れまわされたときと同じような痛み。つまりはそれぐらいは歩き詰めているということだ。

「なぁ」

「言わないで。私もいい加減思ってたところよ」

「いや、念のため聞くけどこのトンネルが日本一長くて有名だとかは。それなら諦めもつくんだけど」

「残念ながらそんなことはないと思うわ」

 手のひらサイズの希望は案の定いとも簡単にこぼれ落ちてしまった。

「トンネルに閉じ込められたか……」

 原理はどうなっているかは分からないが、今の現象をありのまま受け入れるとそうとしか考えられない。二階堂からの否定もなかったのできっと同じ認識なのだろう。

「一旦止まってみるか」

「そうね。でも『自動人形』を見失わないぐらいには進まなくちゃ」

「だったらちょっと止まってもらえるか試してみる。止まれ!」

 僕の声は虚しくトンネルの中に反響する。『自動人形』はまるで意に介さずひたひたとそのまま進んでいく。どうやら散歩はかなり好きらしい。僕たちは諦めて最低限のスピードで追いかける羽目になった。

「このまま朝までってのはないよな」

「どうかしら。今ここが本当にトンネルの中かも怪しいわ」

「は?」

「全く別の空間に放り出されている可能性もあるわね。臭いものには蓋じゃないけど隔離作用が働いて」

「何を言ってるかさっぱり分からん。でもすごいな。クールでいられる二階堂が」

「あら。これでも焦ってわよ。ただ、危険が近いというわけでもなさそうだから」

 そう言って二階堂は手首にライトを照らす。そこには色とりどりの紐がニ本巻き付けられていた。

「それは?」

「お守りみたいなものよ。何かあったら切れるからまだ大丈夫」

「へぇー……ってそんなのつけてずるいぞ! 僕にも僕にも!」

 彼女の手首に手を伸ばそうとするも、隠すようにしてすぐに引っ込められてしまった。照明も当たらなくなってもう見えない。

「だめよ。簡単に取り外ししたら意味ないんだから」

 それ以降二階堂は黙ってしまい、何か思案に暮れているようだった。無限に続くトンネルを何の当てもなくただ歩くのは精神的にもかなり辛いものがある。彼女と違って自分には何か考える引き出しがないので思考の中にも所在がない。ただ、彼女の横にくっついて歩くだけだ。

 トンネルの中はひんやりとしていて過ごしやすささえ感じていたぐらいだったが、今は寒気に近くなっていて背中に怖気が走るほどだった。

「そうだ。一回戻ってみるのはどうだ? 時間はロスするけど一旦抜け出して……」

「それは……おすすめできないわね」

「えっ、なんで」

 そう言いかけてから気付く。耳を澄ませると絶え間なく息を継ぐ音が聞こえてくる。一旦意識してしまうとその息遣いはどんどんとリアルになっていき、その生温かな感触が首筋にかかるのも感じられてくる。彼女はちょっと前からこの事態に気付いていたのだろうか。

 声を上げてしまいたくなったがどうにかこらえる。背中のすぐ後ろにもう何かが迫って来てる気がして嫌悪感が止まらない。いっそ振り返ってみて確かめてやりたい衝動が頭の中でガンガンと鳴っていた。

「ちなみに後ろを見てみるってのは」

「絶っ対におすすめしないわね」

 二階堂は強い口調でそう言った。本当に絶対まずいらしい。それもそのはずだ。彼女は一瞬だけ前に向けているライトを自分に当てて手首を見せてきた。二本あるはずの紐がもう一本だけになってしまっている。きっと歩いている間に切れて落ちたんだろう。

 あぁ、どこかに行ってしまったもう一本の紐さん。この短い間にいなくなってしまって恐怖だけを僕に置いていくんだね。

「前門の虎、後門の狼ってわけだ」

「大丈夫。前に虎はいないわよ。今のところね」

 後ろの何かから逃れたい一心で自然と早歩きになってしまうが、フゥッフゥッという息遣いは途絶えることなくついてくる。今にも叫び出したいくらい精神的にもきているが、肉体的にも辛くなってくる。気分はマラソンだ。足は止められない。止まるのは良くないと生存本能が訴えかけてきている。光る画面に目をやると電源が消耗して電池マークも半分くらいまで来ている。それがまた無性に焦燥感を煽ってくる。この上明かりまで無くなったらもう正気じゃいられないだろう。

「二階堂。何か名案は」

「ちょっと待って」

「もう色々限界だぁ」

「ねぇ! 気が散る!」

「あぁ、くそっ。荷物も重い。早く早く」

「はぁ……じゃあ降ろしたらいいじゃないの」

「それは嫌だね」

 小賢しい言い合いをしていると馴染み始めていた前方の光景が違ってきていた。暗闇の中で白い光に照らされる少し前の道と『自動人形』の背中。だけど、どうだろうか。目の前には『自動人形』の表面が現れていた。呆気に取られてすぐにそれがどういうことなのか気が付かなかった。

 僕でも、二階堂でもなく、『自動人形』が後ろを振り返って立ち止まっていたのだ。

 急に止まることもできず、自分と二階堂はそれぞれ『自動人形』の右側と左側を通り抜ける。それと同時に『自動人形』は足に力を込めて僕らの後方へと跳躍した。

「ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン」

 次の瞬間には地鳴りのような、警報のような音がトンネルの中を突き抜けてきた。その衝撃なのかより冷たい空気の塊が波動となって押し寄せる。それが身体に当たるとぷつぷつぷつと鳥肌が立ってその場で腰砕けになる。膝でコンクリートの硬さを感じていた。明らかに良くないスイッチが入ってしまった感じだ。

 その場で動けずにいると今度は酷い頭痛が僕に襲いかかった。うずくまって額をコンクリに押し付ける格好になる。そうした方が幾分かマシだった。そして、目を閉じていても瞼の裏に上映されるのは全く別の光景。それが何が何だか分からないが、その光景から逃れようとして瞼を上げても目に映るものは変わらない。叫び出しそうになる心とはまた別のところでそれが何なのか少しずつ分かり始めていた。

 これは『自動人形』の視界だ。二階堂が見てはいけないと言っていたものがたっぷりと頭の中に入って来る。

 暗闇の中に青白い光がぼおっと浮かび上がってそこに在った。半透明なその光が輪郭となって異形たちの存在を形作っていた。

 それは霊的な存在なのか。彼らはぶくぶくと太った醜い姿をしていた。人の形ではあったが、巨体というよりも巨塊と言った方がしっくりくる。その魑魅たちはトンネルの天井から首を吊るされて振り子みたいに前後に揺れている。

「アアア、アアア、アアア、アアア」

 揺れて揺れて、その反動で紐が千切れると魑魅たちは目を見開き、口を大きく開けて飛び付いてくる。この魑魅たちの振る舞いは常人には知覚できない呪いの表象に思えた。身の毛もよだつおぞましさだったが、それよりも恐ろしいのは『自動人形』の方であった。

「アアアアアアア、アアアアア、アアアアア、アアア」

 『自動人形』は襲い来る魑魅たちを返り討ちにしていたのだ。指の先からは鋭い針が飛び出す機構になっていて、長く尖った爪みたいだった。そして、その針で魑魅たちを切り裂くようにして滅していく。

「アアア、アアアアアアア」

 その半霊体を裂かれた魑魅は叫喚しながら形を崩して消えていく。魑魅たちはそうされるのが分かっていても飛び付かずにはいられないのか振り子を揺らし続ける。

 天井にびっしりと吊るされていた亡者たちの縄はだんだんとその数を減らしていき、彼らの悲痛な叫び声もなくなってまたトンネルの中は静かになった。背後の気配も、その息遣いももう感じられなくなっていた。

 気が付くと自分の視界はただの地面に戻っていた。さっきまでの冷ややかさはなくなっていて暑気を感じる身体に戻りつつあった。

「に、二階堂。もういいか」

「えぇ。もう大丈夫みたいね」

 横にライトを向けると彼女はすでに立ち上がっていて、背後にいた『自動人形』の方を見ていた。二階堂は早い段階で振り返ってあの一部始終を見ていたらしかった。僕が『自動人形』を通して見た光景もおそらく彼女は自分の目で確かめることができたのだろう。

「大丈夫?」

 うずくまっていた僕に二階堂は手を差し伸べる。薄暗い中でその手を取ってのろのろと立ち上がっている最中、『自動人形』はまた僕たちを抜き返して前方に向かって歩いて行ってしまった。

 その背中を追いかけながら、さっきの出来事について彼女に訊ねた。

「あの幽霊みたいなのって『自動人形』がやっつけたって理解でいいんだよな」

「見てたの? いや、見えてたの?」

 二階堂は意外そうな口ぶりであった。

「いや、直接見たわけじゃないけど。多分『自動人形』の目を通して見えたの、かな」

「そう。なるほどね。私も私の出来る範囲で説明はしなきゃと思ってたけど見えてたなら話が早いわ」

「そうは言ってもあまりに一瞬の出来事だったから何が何やら」

「君の思っている通りで間違いじゃないと思う。だから、もうそろそろで出口も見えてくるはずよ」

 ちょうど二階堂が話しているとトンネルの出口が見え始めて、まもなく僕らは外に出られた。夜の闇も濃いと思っていたが、トンネルの中に比べれば随分と明るく感じられた。

 そして、同時に今までの疲労がどっと噴き出してきた。疲れを感じている暇がなくて身体もようやく思い出してきたといったところだった。

「少し休憩にしましょうか」

「賛成」

 僕らを振り回してやまない『自動人形』もトンネルを出てからは先を急ごうとはしなかった。その場でうろうろ歩き回ったかと思えば立ち止まったりして落ち着きがない。

 臆面もなく地面に直接、僕と二階堂は腰を下ろした。お互いに「ふぅ」と一息つく音が漏れた。

「本当に出れて良かった」

「えぇ。同感ね」

「ちなみに他に何か打つ手はあったの?」

「正直なかったわね」

 二階堂は素直に白状する。

「下策だけどいちかばちか振り返ってあいつらと対決するってぐらいかしら」

 その下策を勝手に強行した奴に目を向ける。いつの間にか自分たちと同じように地面に座ってじっとしていた。またしても『自動人形』のせいであり、『自動人形』のおかげでもあるというところに落ち着いた。

「にしてもこいつ強いんだなぁ。まさかお化けも相手にできるとは」

「そうね。だから厄介なのよ。物理的にも霊的にも強力な力を保持している……。それに今はエネルギーも大したことない状態だから、本来の力で動いたらと思うとゾッとするわね……」

 エネルギー、つまり僕の魂を指しているのだが、それが大したことない呼ばわりされると分かってはいてもなんだかちょっとだけムッとしてしまう。

「でもさ。元はこいつのせいでも何かあったらこいつがなんとかしてくれると思うとなんとかなりそうだよな」

「完全にコントロールしてるわけじゃないんだから頼り切るのは禁物よ」

 二階堂はそう忠告した後に話を切り変えて次の展望について話し始めた。

「それでどうする? このまま朝まで進む?」

「いや。正直ちょっとキツイかもしれん。体力的にも霊的にも」

「そうよね。どこかで今晩過ごせればいいんだけど」

「ちょっと進みながら探そうか」

「えぇ。そうね」

 そうと決まれば善は急げだ。僕らは疲弊した体に鞭打って立ち上がる。この場合はより良い寝床を見つけられればこの負担は全然ペイできる、はずだ。

 さっきまで僕らの先を歩いていた『自動人形』であったが、今度は後ろをついてきていた。その足取りは重いというよりもだらだらとしたものだった。『自動人形』もさっきの戦いで消耗しているか、あるいは歩くのに飽きたのか。

 そうしてまたひたすら歩き続ける時間になった。トンネルから出るまでの歩数は物理的な距離としてはカウントされておらず、切り捨てる言い方をすれば完全に無駄足であった。それを意識してしまうと本当にへこたれてしまいそうになるのでなるべく考えないようにして無理やり前向きでいた。山の中の車道はアップダウンを繰り返して心身とも消耗した僕たちをさらに削っていく。

 道中は緑豊かでコンクリートジャングルに比べると暑さはまだマシではあるが、それでも夏の熱気はそこらに漂っている。次第に喉も渇いてきて体だって変調をきたしてしまいかねない。砂漠を歩いたことはないが、気分としてはそんな感じだ。砂漠と違って山の中に入っていけば沢なんかはあるかもしれないが、現代人としてその水にかぶりつくのには躊躇がいる。本当に生命の危機ってことになればそうも言っていられないのだろうが、今はそこまででもなく微妙な状況であると言えた。

 いざ直面したらどう思うかはそのときになってみないと分からないが、気持ちとしては生水だろうが汚水だろうが泥水だろうが飲んでやりたいと思い始めていた頃だった。

 しばらく前から顔は地面を向いて前をほとんど見れていなかったが、ふと頭を持ち上げたときに自分の視線の先にぼおっと光る何が目に入った。道の傍らで何かが発光している。なんだろうという疑問に対してすっかり反射神経の衰えた自分の思考回路が動き始める。その光は薄ぼんやりとしていたが、灯のない暗い道の中では際立って見える。その場で動かない発光だから自動車だとか自転車のライトという線はない。そもそもその手のライトであったらもっと明るいだろう。すると、次に浮かぶのは霊的な存在だった。トンネルの一件で自分にも霊感があるような気分にもなって、もしかしたらその類のモノが待ち構えていているのではなかろうか。そんなふうに思うとじわじわと怖くなってくるが、『自動人形』がいれば追い払ってくれるだろう。その恐れもすぐに引っ込んだ。では、あれは何か。僕の考えの線が繋がってまとめるより先に二階堂が久しぶりに言葉を発した。

「もしかしてあれって、自動販売機だったりする?」

「自販か!」

 彼女の掠れた声はとても腑に落ちた。こんな山の中に自動販売機があるのも不思議であったが、そう考えると活力が湧いてくる。まさに砂漠の中のオアシスだ。

 さっきから随分と鈍くなった足取りが少しだけ早足になった。ぼやけた光が近づいて徐々にその全貌が明らかになってくる。その四角い形は正真正銘自動販売機だった。

 足早に目の前まで近づくと屋根付きのベンチがあってその側に自動販売機が併設されていた。加えて、ポールが立っていることからそこがバス停であるらしいというのも分かった。これまでに通り過ぎたところだとポールに看板が立っているぐらいであってそれらと比べると随分と豪華だ。

 僕らは自動販売機の前に立ってごくりと喉を鳴らした。しばらく手入れがされていないのか表面は汚れていて、売り切れの赤ランプもちらほらと点いていたが、辛うじて稼働はしていて飲み物もまだ残っているようだった。コインを入れて水が入ったペットボトルを購入する。他にも種類はあったが、ついている味が不純物に感じられて無意識にただの水を選択していた。

 がこん、と嬉しい音がしてペットボトルが落ちてくる。消費期限だか賞味期限だかを確認すると少しだけ過ぎていたが許容範囲内であった。少なくとも汚水だとか泥水だとかよりは全然マシだ。半ば忘れられていそうな自動販売機ではあったが、まだそこまで年月が経っているわけではなさそうだった。

 疲れておぼつかない手でキャップを開けて飲み口から体に水を流し込む。口の端から溢れてしまってもそんなのはどうでもいい。あまり冷えていなくて温めではあったが、久しぶりの水分で体は潤いに歓喜していた。

「ぷはぁ」

 二階堂も無言で水を飲んでは息づいた。自分は五百ミリペットボトルのほとんどを飲み干していたが、彼女もまだ三分の一ほど残していた。二階堂も表には出していなかったが、自分と同じようにこのオアシスを求めていたのだろう。

「生き返るー」

「えぇ、ほんとに。助かったわ」

 僕らは一息つくと、自然と吸い込まれるようにバス停のベンチに並んで腰かけていた。『自動人形』は相変わらずそこらをうろうろとしている。

 喉の渇きが癒えると元気が出てきて気持ちにも余裕が出てくる。人の欲というのは一つ満たされると次が出てくるもので自分が空腹だと気付かされる。ただ、ここには水分しかないのでそれで誤魔化すしかない。二本目のペットボトルを購入して半分ほど飲む。たぷたぷと腹の中に水が張っているのが感じられる。

 スマートフォンの画面で時刻を確かめると午前二時を回ろうとしていた。いい加減疲労もピークを超えている。ここらで立ち止まることも考え始めなければならない。

「今日はここで休もうか? ちょうど屋根もベンチあるしさ」

「あら、ここでいいの?」

 二階堂は含みを持たせた言い方をする。

「いいのって。もう時間も時間だし、この先にこんな休憩スポットはないかもしれん」

「このバス停って何の場所か見た?」

「何のって」

 そこまでは注意が及んでいなかった。明かりをポールの看板に当てるとそこには『学校前』とあった。このバス停に屋根があったり、ベンチがあったりしたのはそのためだろう。

「ね?」

 暗がりでも分かる二階堂の得意げな顔。つまりこの近くには学校があるということだ。確かに学校だったら校舎もあるだろうし、この場所と比べれば快適そうに思える。

「でも勝手に忍び込むのはどうなんだ」

「盗人が何を言うか」

「てゆーかな。盗んだのは俺じゃなくて『人形』だから!」

「はいはい。でも一晩だけだし、多分だけどその学校もう廃校になってるわよ?」

「ほう」

「ここ一年ぐらいで潰れちゃったんじゃないかしら」

「こんな山の中だし、少子化だしなぁ」

「ほら、これで何の気兼ねも要らないでしょう?」

「不法侵入であることには変わりないけどね」

「非常時だから超法規的措置よ」

 そうして僕たちは車道から横に逸れて山の方へと入っていく。本当にこんなところに学校なんてあるのかと思ってしまうほどの静けさであったが、十分ほど進むと校門が見えてきた。

 彼女の予想通りその学校は廃校になったらしく、校門は閉ざされて鎖が巻き付けられていた。ただ、校門はよじ登れるぐらいの高さしかないから大人であれば簡単に侵入することができた。

 その校舎は二階建てで一般的なものと比べればこじんまりとしていた。そのスケール感から教室もそこに通う児童や生徒の数も少ないというのが見て取れる。廃校になってまだ間もないというのもあって荒れ果てているわけでもなく、まだ使おうと思えば使えそうだった。けれども、不思議とそこがもう役目を終えたことは伝わってくる佇まいであった。

 校舎に入ろうと扉に手をかけるが、案の定鍵はかかっている。どうしたものかと思って二階堂の方を見るが、彼女も僕の方を見ていた。視線が暗に何かを訴えかけている。

「開けないの?」

「開けないのって。鍵がかかってるんですけど」

「そこは……ねぇ」

 二階堂は言葉を濁してはっきりとは言わない。自分には頼り切るなと言っておいてこんなときだけちゃっかりとずるい女だ。

「窓ガラスでも割って鍵を開けるか?」

「そんな乱暴な。いかにも不法侵入者っぽくしなくてももっと穏便に入れる方法があるんじゃない?」

 試しに別の案を言ってみるとあくまで遠回しに誘導してきやがる。ハァと息を吐いてから僕は『自動人形』の方を一度見てから目をつぶって心の中で念じる。この扉の鍵を開けろ、と。

 すると、今回はあっさりと僕の念に応じて『自動人形』は動き始めた。駆動音を立てながら扉の前まで歩いて行き、そのまま霊体化して校舎の中へと入って行く。まんまと校舎の内側に入ることに成功した『自動人形』は中から開錠して扉を開けた。二階堂はこの『人形』を恐るべき兵器のように語っていて、その一端をこの夜何度か見てきたが、こんなふうに小器用に扱ってしまうとそんな気がしなくなってくる。

 窓ガラスがある分トンネルよりは暗くはない。夜の学校というシチュエーションが不気味であって気後れするものだが、彼女はお構いなしに進んでいく。

「昔に建てられたっぽいから当直室なんかがあれば良いんだけど」

「あぁ、なんか先生が泊まるとこだっけ」

「そうね」

 こんな山の中で独り泊まり込むというのを想像すると心細くなって恐怖が首をもたげてくる。もし二階堂から別行動の提言があったら拒否していたところだろう。ただ、そんなこともなく僕らは二人して校内をライトで照らしながら探索した。程なくして一階の職員室だったらしい部屋の隣に目当ての場所を発見することができた。

 部屋の前には『宿直室』とプレートが貼ってあった。中は畳張りで六畳ほどの広さだろうか。自分のアパートと大体同じように思ったが、物が一切なかったので広くも感じられた。しばらく放置されていたというのもあって空気は淀んでいて埃っぽかった。宿直室の窓を開けて、他の教室から拝借してきた自在ほうきで軽く掃除すると最低限人が過ごせる環境にはなった。

「窓は開けたままにしとく?」

「暑いけど念のため閉めておきましょう。その分脱水にならないように水分は取るってことで」

 自動販売機で買い込んでいた飲料を部屋の隅に置いた。畳の上に座ると身体の底にどっと疲れが流れ込んでくる気がした。やっと休めると思って肉体も安堵しているのだろう。モバイルバッテリーに自分のスマートフォンを繋ぐ。もう残り僅かだった電源が回復し始めるのを見ると心が安らいだ。二階堂の方を見ると同じように充電しながらスマートフォンを操作している。その様子を見るとミステリアスな彼女もなんだか普通の女子みたいに思える。

「アラームセットしておくわね。六時ぐらいでいいかしら」

「おう」

「もうトイレとか行かなくて大丈夫? 部屋閉めちゃうけど」

「ん? うん」

 二階堂の言いっぷりに違和感を覚えながらも頷く。すると、二階堂は閉めたドアの前に太い糸のようなものを張り付けていった。その糸はドアの反対側の窓にも施されている。

「何してんの?」

「気休めの結界よ」

「結界! 霊能力者っぽい」

「占い師ね。これで『人形』に刺激された霊が入って来なければ良いんだけど」

 頑なに自分の職業を訂正してくる二階堂であったが、この行いは流石に僕の知っている占い師を超えている気がする。まぁとにかくこの紐をくっつけているからもう外には出るなってことだろう。

「とにかくもう休もうぜ。明日もたくさん歩かなきゃ」

「そうね」

 僕が体を倒して寝そべると、それに同調して二階堂も畳の上に腰を下ろしてそのままごろんと寝転んだ。しばらくすると彼女の方から寝息が聞こえてくる。もう寝てしまったのか。ちらっと横を見ると腕を枕に横向きで体を丸くしている。その様子はちょっと猫みたいだった。

 ただ、俯瞰してみれば若い女と同じ部屋で二人で寝るっていう状況だ。普段なら嬉し恥ずかしな状況だが、心身ともにすっかり疲れていてとてもじゃないがそんな気分にはなれない。けれども、その心身にちょっとした乖離が発生していた。身体の方はすぐにでも休みたがっているのに意識の方がなかなか眠りに沈んでいかない。疲れ過ぎていると逆に寝つけないというやつだろうか。

 無理くりにでも目をつぶって入眠に向かおうとするも暑さもあって寝返りを何度も打ち、意識も残ったままで不毛な時間が流れていく。三十分か四十分ほど経ったぐらいだろうか。それも自分の曖昧な感覚なのだが、だんだんと眠気が思考を濁していって眠りに落ち始めていく感覚がやってきた。ただ、その最中で僕は物音を聞いた。何かが切れる音。そしてドアが開く音。かろうじて薄目を開けると『自動人形』の背中が見えた気がしたが、それももう定かではない。声を出そうにも体を動かそうにもその直後に僕の意識は完全に途切れてしまった。


 ◆


 キンコーン、カンコーン……キンコーン、カンコーン。

 学校のチャイムが鳴っている。机の上に突っ伏していた頭を上げる。頭がぼおっとしていてぼやけている。そこで僕は眠ってしまっていたらしいと気付く。

 僕の席はちょうど教室の真ん中で前方はがらんとしていて誰もいない。次は移動教室だったか。どうして誰も起こしてくれなかったのか。そう思うと憤りと焦りが込み上がってきて、跳ね上がるように立ち上がった。

 何の気なしに振り返ると教室の後ろにはまだ女生徒が一人立っていた。彼女の名はなんだったか。まだ寝ぼけているせいかすぐに出てこない。

「あっ、二階堂」

 思考よりも口の方が先だった。そうだ。彼女の名前は二階堂と言うんだった。なんで忘れていたんだろう。

「次って移動教室だっけ」

 僕がそう話しかけると彼女は何も答えずにいた。なんだか呆れているみたいに見えて、僕の神経を逆撫でする。

「なんだよ。教えてくれたっていいだろ」

「ちょっとほっぺたを抓ってみて」

「はぁ?」

「いいから」

 彼女は自身の頬をつまみ上げる仕草をした。しぶしぶ僕もそれと同じ動作をする。すると、どうだろう。何の痛みも感じない。

「えっ」

「どう? だんだん思い出してきた?」

「思い出すって何を」

 二階堂はちょっとだけ考え込んでから僕に問いを投げかける。

「そうね。君はこの学校にどうやって登校してきた? バス? 電車? 自転車?」

 とても簡単なその問いに僕は答えることができなかった。学校に来ているのであればそのための手段があって当然だが、彼女の挙げたそのいずれもしっくりこない。僕はどうして教室にいるんだろう。自分の着ている黒い詰襟も急に得体のしれないものに見えてきた。

「もしかして夢……?」

 泡のように浮かんだ僕の思いつきに二階堂はこくりと頷いた。そうだった。僕たちはバスでも電車でも自転車でもなく、タクシーと徒歩でこの学校に辿り着いたんだった。そして、その学校で仮眠を取って……今に至るってことか。

「うわぁ。なんだか急に恥ずかしくなってきた」

「そうよね。場の空気に飲まれて自分を学生だって思い込んじゃって」

 彼女はクックッと珍しく笑っていたが、僕が気にしていたのはそこではなかった。

「フロイト的欲求不満が無意識でコスプレ二階堂を求めてたなんて……」

「は、はぁ?」

 つかつかと二階堂の方へと向かって、その墨色のセーラー服の肩を掴む。彼女は後ずさりをしたが、教室の後方だったせいでそれより下がれずに捕まえることができた。

「……なにしてんの?」

「せっかくの明晰夢なんでフロイト先生につき従おうと」

「あぁ。もしかして夢を良いことに乱暴しようとしてる?」

「ははは。乱暴なんてそんな――えっ?」

 次の瞬間、僕の世界はぐるっと回って背中が地面に叩きつけられた。痛みと衝撃が身体を突き抜けてしばらく呼吸がおぼつかない。天井を仰ぎながら痛覚がないのは自傷だけなのだと知った。ほんの一瞬の出来事だったからちゃんとは分からなかったが、どうやら二階堂に投げ飛ばされたらしかった。詳しくないけど柔術の類だろうか。

「目が覚めてからお互い気まずくなるしやめときましょ?」

「先にそう言って欲しかったな」

 息を整えてから僕は身体を起こして彼女の方を見上げる。

「明晰夢って自分の思い通りになるんじゃなかったのか」

「これ明晰夢ではないから」

「そうなの?」

「私だって全部理解できているわけじゃないわ。推測よ」

 二階堂は僕の横を通り抜けるとそのまま教室の前方まで行って黒板の前に立った。そして、先生みたいに話し始める。

「おそらく私たちは同じ夢を見ているわ」

「同じ夢?」

「えぇ。でもこれは二人の夢じゃないと思う。君はこの教室に見覚えがある? 学生のときこんな感じの教室だった?」

「いや。さっきまでは違和感なかったけど、今思い直すと全然見覚えない」

「そうよね。私もそう。だから私たちじゃなくて誰かの夢に迷い込んでしまった、と思う」

「誰かって誰だよ。もしかして僕たち以外に他に誰かいたっていうのか」

 そう思うと背筋に寒気が走る。僕たちの他に廃校の中に何者かが潜んでいるかと思うと、身の危険を感じずにはいられない。今は眠ったままで無防備だ。

「私はそうじゃないと思う」

「なんでそう言えるのさ。確かに施錠はされてたけど僕たちだって隅々まで探索したわけじゃない。そのときはいなかったとしても僕らが眠った後から侵入して来て息を潜めてるってことも」

「そうね。でも私たちより前にここに忍び込んでいるなら宿直室を使わない手はないし、私たちより後に侵入して来てそれが良からぬ人物だとすると夢の中に引きずり込むよりも直接狙う方が早いんじゃないかしら」

「じゃあなんだって言うのさ」

「あの廃校自体の夢の中だとしたらどうかしら」

 二階堂のその言葉は突拍子がなくってそもそも何を言っているのか意味を理解するにも時間を要した。だって夢を見るという主体が人間ですらないのだから。

「廃校の……えっ? 本気で言ってる?」

「私だってできれば違っていて欲しいけどね。でもたまにあるのよ。人の思念が多く集まっていた場所がそんなふうになってしまうことって」

 今日だけですでに二回も霊障に遭っているからそろそろ何があってもおかしくないと思えてきている。だが、この場合は一般的な霊のイメージを超えている。あえて言語化するなら廃校自体の霊といったところだろうか。

「でもこういう目に遭わないために紐の結界を貼っていたのよね。それが破られてしまったとなると余程強力な存在か……」

「あぁっ、あの紐なら」

「何か心当たりが⁉」

「『自動人形』が部屋の外に出るときに切れてたような」

 寝落ちしかけているときの曖昧な記憶を思い出しながら口にすると二階堂はその場で崩れ落ちた。「ははは」なんて渇いた笑いを浮かべている。僕はその姿になんて声をかけていいか分からず閉口して彼女が立ち直るのを待っていた。

 しばらくすると二階堂先生は教卓に立ち直っていた。『自動人形』は災害みたいなものだし、ショックを受けていても仕方がないと思い直したんだろう。

「君が起きるまでの間にこの教室をちょっと調べてたの」

「おぉ、流石。それで?」

「まず窓から外を見てみて」

 彼女に言われるがまま教室の窓を覗き込む。そこには校庭が広がっていて反対側にも校舎らしき建物が見えた。その階数を数えると四階はある。高さから見ると自分たちが今いる教室もその四階にあるらしかった。

「ん? 待てよ。廃校って確か二階建てじゃなかったか? それよりも随分大きいような」

「あら。今度は鋭いわね。この夢の中では実際の廃校と構造も変わっているみたい」

「そんなのあり?」

「夢だしね。こんなふうだったら廃校にならなかったのに、みたいな理想も入っているんじゃない?」

 適当な論にも思えたが、妙な納得感もあった。そもそも夢の中のような世界では常識的な理屈ばかりが通るものでもない。割と何でもありの世界とも言える。

「それであの廊下を歩いてる連中はなんだ?」

 二階堂に訊ねながらもその姿がなんなのかなんとなく見当はついていた。遠目だけど着ている服の緑色はよく目立つ。件のグリーン創世会の連中だろう。パッと見るだけで少なくとも向こう側の校舎の各階に一人は徘徊している。のそのそと歩く様はゾンビを想起させた。

「察してるかもしれないけど、グリーン創世会ね」

「さっき僕たち以外はいないって言ってたよな?」

「えぇ。そうね。廃校にはいないけど、この学校の夢世界にはいる。多分あれは私の悪夢だと思うわ。君の部屋の出来事がよっぽど印象的だったのね」

 悪夢を語るにしては淡々としていて二階堂はどこか本当のことを言っていない部分がある気がした。ただ、それはなんとなくの感覚でしかなく、それが何か上手く言葉にはできない。まとまっていない状態で話しても場を乱すだけだと思って黙ったまま奴らの観察を続けた。緑の服を着た連中をよく見ると手元には鉈だの斧だの鋸だのを持っている。襲われて殺されるのは確かに悪夢らしい。

「あれに殺されるのは嫌だなー」

「多分が続くんだけど、この夢の中で殺されてしまうのも多分良くない」

「そうなのか。そういう殺されたり高いところから落ちたり、死んじゃうような夢ってそこで目が覚めたりしないか?」

「普通はね。でも今はどうもきな臭い。わざわざ私から恐怖を取り出してああやって配置してるってなると邪魔者と考えた方がいいかも」

「ふーん。じゃあ夢から覚めるまでこの教室に隠れとけばいいんじゃないか?」

「そこなのよね」

 二階堂は僕の意見に同意しつつも新たな問題とやらについて話し始める。

「六時にアラームをセットしてるからそこまで時間が経てば目が覚めてこの夢から出られるんだとは思う」

「なおさらここで時間を潰せばいいんじゃないか」

「私もできればそうしたいけど……」

 そう言って彼女は僕に教室の時計を見るように促した。時計の針は三時を指している。三時と言えば僕がちょうど寝付いたぐらいの時間だろうか。教室の外が明るいので夢の外と中では十二時間ほどズレが生じていることになる。

「時計がどうかした?」

「あの時計。私が気が付いてからもずっと動いてないのよ」

「はは……壊れてる、とか」

「私の嫌な想像を言っていいかしら。あの時計が動いていない限りは夢の外の時間と同期しない、としたら」

「ごめん。なんだかまだちょっと追いついてない」

「時計の針を動かす何かをしないと、夢の中の時間が経過しないで閉じ込められたままになっちゃうってこと」

 それを逆にして言い換えると時計の針を動かさないと夢からは覚められないってことになる。

「自分が起きるまでこの教室は調べてくれたんだよな?」

「えぇ。そうね」

「つまり、教室の外も調べないといけないわけだ」

 二階堂は無言で頷いた。その神妙な表情からも教室の外に出るというのは危険を伴うのだとすぐに理解できた。

「だから君が起きるのを待ってたのよ」

「そうだよなぁ……」

 一つ深呼吸をしてから気持ちを固める。教室のドアをスライドさせて顔だけ出して外の様子を窺った。廊下には誰もいなくてしーんとしている。もう少しだけスライドさせて身体半分を退出させる。

 学校の構造を俯瞰でイメージすると『コ』の字の形をしていると思われた。自分たちがいる場所は『コ』の字の横線部分に位置している。反対側の校舎にはうようよとグリーン創世会の連中が歩いていたが、こちらの校舎の、少なくとも四階には自分と二階堂以外の人の気配はない。

 僕と二階堂は自然と二手に分かれていた。

 分かれると言ってもお互いの姿がちゃんと見えるように目配せをし合っていた。二階堂は真ん中の校舎に繋がっている方へ向かい、僕はその反対側の先端部分へと向かった。二人とも抜き足差し足でなるべく音を立てずに歩いて行く。その途中にも他の教室があったが、まずは突き当りまで進むことにした。

 突き当りまで辿り着いたところで、こちら側には下の階へと続く階段が設置されるのに気が付く。違和感はあるものの屋上へと伸びる階段はなかった。

だが、いずれにせよ階段の存在が頭から抜けていたのでもしここからあいつらが上がってきていたらばったり鉢合わせになっていた。そう思うとゾッとする。

そして、油断は禁物だとまた気を引き締め直した。

 ちらりと二階堂の方を見る。彼女も中央の校舎と繋がるところまで辿り着いていて、曲がり角の壁に背中を合わせて慎重にその先を確認していた。

 その様子を見送ってから自分も階段を一段一段ゆっくりと下っていく。身を屈めて少しでも見られないように階下の様子を窺う。三階のすべては分からなかったが、少なくとも階段周辺には誰もいないようだった。

 二階堂の方も特に異状はなかったようで引き返して戻って来ているのが見えた。自分も急いで引き返すとちょうど教室の前で合流となり、そこで簡単に状況の報告をし合った。

「今のところ大丈夫そうだな」

「えぇ、そうね。何かあった?」

「向こうには階段があった。そっちは?」

「そうね。階段で言うと曲がった先の校舎にはその中央に階段がありそうだったわ」

 ただ、時計についての手がかりはまだ見つかっていない。こうなるとまだ入っていない他の教室も探していかないとならないだろう。そんなふうに考えながら教室の中に戻って何気なく時計の方に視線を送る。僕らはほぼ同時にその時計の変化に気付いて「あっ」と声を上げた。

 時計の針が僅かだが動いていた。

「外に出たのが関係あるのかな」

「そうね。その検証も兼ねて別の教室に移動してみない?」

「隣の教室にでも移るか」

「それでも良いんだけど階段に近い教室で、それに四階じゃない方がいいわね。三階にしましょうか。下の階は大丈夫そうだった?」

「多分大丈夫だったけどどういう意図が?」

「最上階だと追い詰められやすいのと階段が近くにあれば逃げやすいかと思って」 

「おっしゃる通りで」

 僕は全面的に彼女の提案を受け入れた。

 さっき歩いたところを歩き直してまた四階校舎の端っこまで着くと、同じように階下の様子をチェックする。このちょっとの時間で何か変わることもなく、僕らは三階の一番端の教室に無事入り込めた。

 教室は大体同じ構造らしく置いてあるモノがやや違っているぐらいで最初に居た教室と変わり映えしなかった。前方に備え付けられている時計もさっきと同じ針の傾きをしている。気持ちまた少しだけ進んだようにも見えたが、ほとんど変わらなくも見える。

「ここにしばらく留まってみましょう」

「了解」

 所在が無くなって窓や教室のドアの外の様子をちらちらと見ていたが、二階堂は教室の適当な机に腰掛けて自身の手首に指を添えていた。どうやら脈拍を測っているらしい。時計の時間が不確かな以上、自分の生体をものさしにしようという発想だ。 

 自分は測っていないが、それなりの時間が経っても時計の針は微動だにしない。教室の時計を見上げていた二階堂の目線がこちらに向いた。

「私の脈拍が大体一回一秒でこの間に三百回刻んだわ。つまり、五分は経過しているはずなんだけど」

「そうだな。明らかに針は動いてない。五分って言ったら目盛一個分だ」

「そういうことね。これで時間が経過する条件が見えてきたわ」

「えっ」

「なによ。まだピンときてないの?」

 二階堂は呆れたようにそう言って腕を組む。話しながら彼女に遅れて推知に辿り着いた。

「えっと。教室の中にいる間は時計は動かないってことだよな」

「なんだ。分かってるじゃない」

 微笑を浮かべるが、なんだか鼻で笑ったようにも見える。僕がその真意を測りかねているうちに彼女はもう次の問題に取りかかっていた。

「だとするとちょっとまずいことになったわね。六時になればアラームで目が覚めると思うんだけど、その約三時間を潰すには教室に隠れるんじゃなくて廊下だったり、教室の外に出ないといけない。でもそれだとあいつらに見つかって襲われる危険性はぐっと増す。ジレンマでジリ貧ね」

「だったらまずは『人形』を探さないか? 『自動人形』がいればそいつらだってやっつけられる」

「そうね。でも――」

 ちょっとの間考え込んで、言葉を区切ってからまた話し始める。

「それ以外にも何か方針が欲しいところね」

「方針? なんとか『人形』と合流すればいいんじゃないか?」

「合流できなかった場合、たとえば『自動人形』が夢を見ないのなら最悪私たちだけでなんとかしないといけない」

「廃校は夢を見るけど『自動人形』は夢を見ないのか?」

「それは、分からないわ。もちろん探す。探すんだけどやっぱりそれ以外にも何かが」

 それは自分にも言い聞かせているみたいで彼女自身もまだ糸口が掴めていないといった様子だった。

「夢の中からアプローチしてなんとか目覚められれば良いんだよな?」

「何か思いついた?」

「まだだけど……。この夢の世界を壊しちゃえば目覚めそうだなって」

「良いわね。それで?」

「いや。だから思いついてないんだって」

 僕らは教室の外に出て階段に並んで座り込んだ。階段まで来たのは外に出て少しでも時間を稼ぐためというのと敵を視認しやすくするためだ。

 廊下にも気を配りつつ、思案に暮れてみるがなかなか考えはまとまらない。頼りにしていた『自動人形』だが、もし夢の世界に来ているのであれば勝手に暴れてもっと騒がしくなっているだろう。しかし、そんなこともなく校舎はとても静かだった。『自動人形』は当てにできない、と自分の中で諦めがついてしまっていた。

 だったらどうするか。今はこうして落ち着いているが、徐々に恐怖の化身たちが自分たちに向かってきて追い詰めてくるだろう。数は向こうが多いし、長丁場になれば逃げ切れない気がする。

 状況は思ったよりも悪いのだろうが、タクシーやトンネルの時と比べるとまだ直接的な危機が迫っていないせいか気持ちも緩慢としている。

 切り替えようと自分の頬をぴしゃんと叩く。ただ、自分ですると痛みがなくてちょっと間が抜けたものだ。

 さっき思いつきで二階堂に話した「夢の世界を壊す」というのは考え方としては悪くない気がしている。壊す、と言っても色々な角度がある。たとえば、校舎に火をつけてしまうというのはどうだろうか。その凶行を実行に移した後を想像してその考えをすぐに却下した。ただ、火の海に苦しめられる自分たちの姿が浮かんできた。それでは自爆だ。

 校舎の外に逃げ出すというのも考えてはみたが、この夢の中を箱庭みたいな世界だとすると果てがあるだろう。その場合はやっぱり逃げ切れない気がする。

 単純に逃げられないのであれば内側から綻びを見つけるか作ってやるしかない。さっきの「夢の世界を壊す」というところにまた戻って来る。

 堂々巡りだろうか? 発想が凝り固まっているだろうか? いや、まずはこの線で考えてみよう。もっと自由に、もっと広く、だ。

 まずは原点に立ち戻ろう。そもそもこの夢は廃校になった学校が見ている夢だ。それも改修を繰り返して老朽化した山の中の小さい校舎としてではなく、立て直しでもしてやらないといけないほどの新校舎だ。階数も二階建てから四階建てになっていて随分と大きくなっている。なりたい自分を夢想する人間と同じだ。

 こうだったのならきっと廃校にはならなかったはず、という願望が表れていると考えていいだろう。綺麗で立派な校舎であれば児童や生徒が見限ることもなかっただろうというそんな切なる思いだ。

 そこまで虚妄の廃校の気持ちに感情移入をしてみるも、その上で夢をぶっ壊してやらないとならない。自分だったら何をされるのが嫌か。気持ちよく浸っているところにどんな水差しをされると気持ちが冷めて目も覚めるのか。

 いくら空想をしようと、如何ともしがたい現実はやはりそこに横たわったままである。それは人間だって同じだ。ギャンブルだって大当たりする未来を思い描いても現実はかなり厳しかったりする。負けたときの腹の奥からじわじわと込み上げてくる不快感と焦燥感。そういった感情を校舎にも与えてやって思い知らせてやれば良いのではないか。お前はおんぼろで惨めに打ち捨てられたただの廃校なんだってことを。

 掴みかけたその糸口に僕は興奮した。どうしてやろうかと考えると気分が昂って来る。アイデアはまだなかったが、もうすぐそこまで来ているという根拠のない自信はあった。

 そうだ。何も眠っているときに見る夢だけが夢じゃない。夢のような時間だとか夢心地だとか起きていたってそういった瞬間はある。それが台無しになるのはどういうときだろうか。夢から覚めて現実に引き戻されるそんなとき。やがて、点と点が繋がって線になり自分の中に一つの形ができてくる。これならばどうだろうか! 閃きは弾ける光のようだった。

 僕はその興奮状態のまま二階堂にそのことを話した。早口だったし、きっと唾だって飛ばしていただろう。ただ、珍しく彼女は軽口を挟まず、僕の話をじっと聞いていた。

「そうね……」

 彼女からの第一声はそんなもんだった。平坦な調子の相槌だったのでその真意が分からずもどかしかったが、それもすぐに解消された。

「面白いわね。それならこの夢の世界は崩れて目が覚めるかもしれない」

「だろう!」

 認められたのもあってつい熱が入ってしまうのが自分でも分かった。

「他の手もないし賭けてみましょう。それができる設備があるとすると職員室か専用の特別教室になるわね」

「じゃない方は職員室の周辺にあるイメージがあるな」

「えぇ。まずは職員室に向かいましょうか」

 方針が決まって階段に腰かけていた僕らは立ち上がっていた。だけど、ただそこまで行けば良いというわけではない。おそらくそこまでに徘徊している例の連中が障害となることだろう。幸い自分たちが居る側の校舎にはまだその影はなかったが、予断を許さない状況は続いている。

「武器でも探してみるか?」

「戦う気? 数ではきっと勝てないわよ」

「気休めだよ」

 三階端の教室に戻って室内を物色する。始めに思いついたのは自在ほうきだ。宿直室を掃除したのでその存在が頭に残っていた。夢を見る前と同じようにロッカーを開いてみるが、その中には何もなくがらんどうであった。隠れるスペースとしてはいいかもしれないが、期待と違ってがっくりした。

 そうなると教室の中にはめぼしいものは見当たらない。二階堂の方を見るとなんと彼女は教室にある椅子をひょいと持ち上げていた。確かにそれなら重すぎないし相手の刃物を受け止められるかもしれない。振り回すことだって不可能ではない。彼女のその選択を真似して僕も手近な椅子を手に取った。

 職員室がありそうなのは中央の校舎だと二人の意見も一致していた。それが何階にあるのかは分からないので行ってみるしかない。四階にいた時点では中央の校舎に奴らはいなかったが、他の階の状況は不明だし時間経過で様子が変わっているかもしれない。

 まずは三階から二階に移動しようと、そろりそろりと忍び足で階段を降りていく。

しかし、その途中でちょうど階段の近くまで来ていた緑色の服の男と鉢合わせになった。男の顔は黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶされたようになっていて近くで見ると異形の姿をしている。

「ひっ」

 二階堂が小さく声を漏らす。お互いの存在に気が付いたその瞬間に僕らの体は硬直してしまった。男はその間にもこちらに向かって駆け寄ってくる。その手には鉈が握られていて、表情は読めないが行動には殺意が溢れていた。

 殺される、そう思うと自分の体の硬直は解かれて自由になっていた。夢の中だからか、危機的状況だからか、大胆にも二階までの階段を降り切ってその男の前に躍り出た。待ってましたと言わんばかりに僕を目がけて鉈が振るわれる。その凶行に対して椅子の足を持って盾にして阻む。ぐぃいんと衝撃が腕に走った。背もたれの部分が刃で割られている。これが人の体に叩きつけられていたと思うとぞっとする。

「うおおおおおおおおお」

 そして、椅子ごとありったけの力で前に押し出して男を僕らから遠ざけた。攻め手から一転隙を突かれたのもあって男は体勢を崩してよろけて尻もちをついていた。

「今だ! 走れ!」

 僕がそう叫ぶと二階堂も階段を降り切ってそのまま二階から一階の方まで走って行った。男が立ち上がるのにもたついているのを尻目に僕も彼女の後を追った。

 その降りた先にも連中がいたら大分苦しかったが幸いにも一階の廊下には誰もいないようだった。

 そのまま一番近い部屋に駆け込む。そこは他の教室よりも広い図書室であった。校舎の一番端の部屋ではあったが、ここなら書架がいくつも並んでいる。もし、あいつらが入って来てもこれらを障害物にしたり隠れたりもしやすい。図書室の奥に入り込んで二人並んで座り込む。息を潜めて部屋の入口に注意を向けていたが、さっきの男が追いかけてきて入り込んでくることはなかった。部屋の中では時計が動かないので、体感時間にして五分ほど経ったところで僕らの緊張は解けて一息つくことができた。

「さっきはありがとう」

「お、おお。自分も無我夢中だったから」

「分かっていても急に来られるとダメね。動けなかったわ」

 そう言って体育座りをしていた二階堂は自身の肩を両手で抱きかかえて自嘲する。

「ねぇ。君って怖いものないの?」

「そりゃあ、あるよ。赤保留が外れるとか一番人気が飛ぶとか」

「あぁ、そうですか……」

 二階堂の相槌には呆れた声音がたっぷりと込められているのが分かった。

「改めてだけど、あの、グリーン創世会を模した人型って私が抱いている恐怖なのよ」

「そうみたい、だな」

 自分の部屋の前にいた男は不気味だったし、得体の知れない団体であるのはそうだと思うが、それだけで悪夢に出てくるほどのものではない、と思う。逆に言うと二階堂にしてみればそれぐらい大きい存在なのだろう。さっきは軽く話していたが、もしかすると少なからず因縁があるのかもしれない。

「さっきも階段を降りた先に待ち構えていたら嫌だなって思ってた」

 彼女はぽつりと呟き、話を続けた。

「まさにその通りになってたな」

「そう。そうね。もしかして私の弱気がつけ込まれてるのかも」

「考えすぎじゃないか?」

「でもそうだとしたら私たちはずっと職員室に辿り着けないわ。きっと職員室の周りに奴らが現れるようになってる。そんな気がする」

「だったら六時になるまで廊下の隅にでも座ってやり過ごそう」

「きっと無理よ。私がまた奴らを呼びこんでしまうわ……」

 どんどんと小さく弱々しくなっていく二階堂の声は消え入りそうなくらいだった。彼女とは今日出会ったばかりだが、ここまでネガティブな姿は自分のイメージにそぐわなかった。どこかミステリアスで揺るがないメンタルを備えているというのが彼女への印象だった。

 二階堂は押し黙ったままで自分も何を話していいか分からなくて、そのまま無為な時間が流れる。時間は過ぎているはずなのに時計の針は動かなくて僕らは止まった時の中にただ取り残されてしまっていた。

 動かない時間の中で留まり続けるとどうなってしまうんだろうか。この場に三時間でも六時間でも居座って試してみるのもそれはそれでアリな気がしたが、それをするとなんとなく夢の中に囚われ続ける気がしてそれが廃校の思惑なのかもしれないと勝手に思っていた。児童や生徒を失った学校がその代替品を夢の中に迷い込んだ僕らに求めている。そう思うと考える時間だっていくらでもあるわけでもない。意識が引き延ばされ続けてしまったら大音量のアラームぐらいではもう目覚められないかもしれない。

 もし、二階堂が使い物にならないのであれば自分一人だけでもなんとかして玉砕覚悟で職員室もしくは目的の特別教室まで行くしかないかもしれない。だんだんと自分の中でそのための気持ちを固める作業が始まっていた。さっき男と遭遇したことで自分の椅子を使ってしまったから彼女が持っている椅子を借りてなんとかあいつらを振り払いながら進む。上手くいけば奴らの武器を奪うこともできるかもしれない。そんなふうに考えながら拳を握りしめて自分を奮い立てる。

ただ、僕の喉が開くより先に二階堂が先に口を開いた。

「実は一つだけ案があるの」

「そうなのか?」

 僕の決意はもろくも彼女の言葉に揺らごうとしていた。

「それってどんな方法なんだ」

「至ってシンプルよ。でもその前に伝えておきたいことがある。もし、君が行く先に困ったのなら私の手帳に『幻道院』という場所の住所が書いてあるわ。そこを目指しなさい」

「ちょ、ちょっと待てよ。それじゃまるで自分がいなくなったときの言い方じゃないか」

 二階堂は微笑を浮かべるだけではっきりとしたことは口にしなかった。

「私が囮になってあいつらを引きつける。そうね。校庭辺りに出て呼ぶ込むから追っかけっこになるわね」

「待て。早まるなって」

「私が出ていってちょっとしたら例の作戦をよろしくね。なるべく私が殺される前に」

「その作戦だって確かじゃないんだぞ」

「君の考えに私も一口乗ってるのよ」

 彼女の覚悟は決まっていた。それが一番効果的だということに気付いてそれを自分に納得させるための葛藤もすでに終わっていたのだ。確かに合理的だし自分が無暗に突っ込んでいくよりも遥かに良い。良いのだけれど、心情的にはやっぱりしっくりこない。

 でも、遮二無二に彼女を止めることは結局できずに僕はその背中を見送ってしまった。後ろ暗い自己嫌悪の火が僕を苛む。遠くで女の叫び声が聞こえた気がした。二階堂が奴らを引きつけている声なのか、それともただ襲われているだけの悲鳴なのか。分からないまま、分からないまま自分も図書室を出て廊下を歩いていた。すぐにでも走り出したかったが、まだ校舎内にあいつらが残っていたときが最悪だ。無暗に音を立てるわけにもいかなかった。

 まっすぐな廊下には誰もいない。

 角を曲がって中央の校舎に足を踏み入れる。その先にも人の影はない。誰もいない。遠くで女の叫び声が聞こえる気がする。急がなければ、急がなければ、と気が焦れる。

 中央の校舎の真ん中には玄関と階段がある。この階には職員室も目当ての教室もないと分かると階段に足をかけた。理性が後ろ髪を引いてなんとか走り出しはしなかったが、自然と早足にはなっていた。この先に誰かいたら、とそんな想像は押し込めて階段を上って二階へと辿り着く。右と左を見回す。校舎は実に静かだったが、遠くで女の叫び声が聞こえた気がする。心臓の音が煩い。片っ端から教室のドアに手をかけていく。いくつか外れを引いたり、鍵のかかった部屋に当たって焦燥しながらも僕は職員室に辿り着くことが出来た。着いた。着いた。着いた。その室内を素早く見やった。

 まずは例の設備は併設されていないのを確認した。そして、次に探すべきは鍵の在りかだ。机やらなんやらにしまい込まれていては面倒だったが、職員室の壁の側面にいくつか鍵がかかっている。特別教室を開くための鍵だ。その壁に近づくとまたさらに目を滑らせる。何もかかっていない箇所もあったから自分がこれから向かおうとしている場所がそうだったらと思うと胸が締め付けられる。だけど、ちゃんとその鍵はそこにあった。合格発表で自分の番号を見つけたときみたいな安堵だった。

「よしっ」

 引っ手繰るようにして鍵を手中に掴んでポケットの中に突っ込む、もうこの職員室には用はない。急いでここを離れて決行しなければならない。職員室のドアを開けるまでの間にすでに見つけていたその教室に行かなければならない。

 なのに、どうして。

 廊下には誰かが立っている。

 顔はぐちゃぐちゃに塗りつぶされていて誰か分からないはずなのに。その風体から僕はその人が何者なのか感づいていた。

 僕の恐怖がそこに立っていた。

 もうそれしか見えなくなって、何も聞こえなくなっていた。

「親父……?」

 自分が怖がっている存在が実の父親だって? そう思うと笑ってしまいそうになる。自分でも気が付いていなかった潜在意識がこの夢の中で暴かれる。心の柔らかい部分を剥き出しにされて目の前に突き出されている気分になった。

 その目の前の父は緑色の連中とは違って何の武器も持っていない。ただ、蛇に睨まれた蛙みたいに足がすくんで動けない。父の影はおもむろに近づいて来るとその両手を僕の首筋に回した。僕はなんの抵抗もできずに為すがままであった。

 ゆるゆるとその手に力が入っていく。締め付けられて息が苦しい。思わず彼の手首を掴んで逃れようとするが、石のように固くて動かない。いや、もしかしたら自分の腕の方に力が入っていないのかもしれない。今の自分にはもうそれさえ定かではなかった。

「がっ……あっ……」

 苦痛から呻き声が漏れる。全く以て酷い状況だ。実の父に首を絞め上げられて殺されそうになる悪夢なんて。そんな夢を見ること自体が親不孝だ。

 ただ、実際のところもずっと親不孝に生きてきた。

 家を出てタガが外れるそのずっと前から父のことが苦手だった。何を話せば良いのか分からなかった。兄姉みたいに上手く接することができなかったのもあって余計に自分が欠陥品に思えてならなかった。普通なら弟が兄姉の行動を反面教師にして生きるもんだが、僕はその逆を行ってしまったんだ。失敗するたびに気が落ち込んで、また一つ諦めてしまうんだ。自分が悪循環に陥っているのに気付いたのは随分後だったし、そこまで行ったらもうどうにもならなかった。

 夢の中とはいえ父にこんなことをさせてしまって申し訳が立たない。親であれば余程のことがないと我が子をその手にかけないだろう。自分は人の親でないから本当のところは分からないが、きっとそうなんだろう。最後まで自分だけで精一杯な人間だった。

 遠くなって途切れそうな意識の中は悔恨でいっぱいだった。目の前の父の腕を掴む僕の手の握力もゼロに近づいていく。苦痛を通り超えて酸素が欠乏した脳みそはなんだか妙な気持ち良ささえ感じている。身体中の筋肉が弛緩していくのを感じる。下半身は緩んで漏らしそうになる。

 遠くで女の叫び声が聞こえた気がした。

 放蕩に無責任に生きてきた自分だったけど今この瞬間は誰かの生命がかかっていた気がした。誰だったか。失調している頭で思い出すのにも時間がかかる。そうだ。二階堂だ。僕が上手くやらないと彼女が危ない。自分のせいだなんて思うとどうにも目覚めが悪い。

 さっきまでが嘘だったみたいに僕の腕に力が入る。首を締め付けていたその手を引き剥がしてその父の形をした何かを突き飛ばした。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 それまでできていなかった分も空気を取り込もうとして喘ぐように息をする。

 突き飛ばしたときには確かに感触があったが、僕の目の前にはもう誰もいなかった。父の幻影はもういない。だけど、呆けている暇はない。息を整えながらも歩みは止めない。目的にしていた特別教室は職員室のほんのすぐ側にあった。

 鍵を差し込んで閉ざされていたドアを開ける。ちゃんと開いてホッとするのと同時に何故か大丈夫だという確信もあった。僕はそうやって『放送室』へと入った。

 部屋に入ってまずやったのはバリケード作りだった。ここでの行動によって廃校から異物として判定されれば排除するために連中がここに押し寄せてくるかもしれない。放送室にあるものは限られるが、あるだけの机や椅子や棚をドアの前に積み上げた。これで鍵を壊されたとしてもしばらくは保つだろう。

 放送室の機械の前に立って見よう見まねで弄る。電源を押してマイク音量のツマミを最大まで回してやった。放送する範囲は全校だ。聞かせるべき生徒は誰もいないけど、この夢の中に響かせられればそれ良い。

 マイクの前で大きく深呼吸する。さっきの絞首のせいでまだ頭がくらくらしたが、そうも言ってられない。すぐに取りかからなければ。ボタンを押してマイクをオンにする。

「マイクテスト、マイクテスト……」

 いざ放送を始めるにあたって頭の中に用意していた原稿の解像度が限りなく低いことに気が付く。話す内容の整理はできていなかったし、それらしい体裁で喋る自信もなかったが、言いたいことだけははっきりとしている。

大きく一つ深呼吸。兎にも角にも見切り発車でオンエアーは始まった。

「皆さん、聞こえておりますでしょうか? 私の声は届いておりますでしょうか? 本日を持ちましてこの学校は最後の日となりました」

 放送室にあったクラシックのCDからとにかくもの悲しげな音楽を選んで流す。下校を促すようなそのメロディは郷愁を思い出させて僕自身の気分も乗った。

「とても残念ではありますが、廃校になるのは仕方がないことでした。当然のことでした。なにせこの学校は山奥にあってろくな設備もなくって生徒数だって少ない。むしろ、今までよくやったと褒めてあげたいくらいだ。そんな学校が見てくれを多少取り繕ったところで何も変わらない。全くもって無駄、無駄の無駄であり、やはりこの学校は廃校するにふさわしいと私は思います。ただ、そんな廃校も役目をしっかりと果たしたのです。それは様々な人間の踏み台になったという点です。まずはここに通った生徒たち。きっとこんな何もないところから這い出てやろうと躍起になって勉強に励んだことでしょう! 進学すればここから脱出できてより楽しい学校生活を送れるとそれは計り知れないモチベーションになったはずです。その点においては跳び箱のロイター板くらいには役に立ったと言えます。廃校になった甲斐もあるというものです。この廃校に勤めていた先生方もそうです。やれやれやっとここでの勤務も終わったぞ、と。同じ東京でありながらもこんな土地に縛られて腐っていた教師陣も新たな人生をようやく進めるのです。それも廃校になったことで叶いました。嗚呼、廃校万歳。そうは言ってもこの廃校に通っていた人間にも思い出はあるでしょう。ただ、人の記憶とはとても曖昧なもので忘れていきます。こんなしみったれた廃校のことはやがて忘れてしまうでしょう。仮に心の片隅にこの廃校を覚えていてもこの場所に足を運ぶことはもう決してないでしょう。廃校となってしまった以上ここに訪れる人間は解体業者ぐらいでしょうか。いやっ、それすらもないかもしれません。廃校となった以上、廃墟になるまできっと放置されるでしょう。そうなったら少しは役に立つかもしれません。廃墟マニアだとか度胸試しだとかそんなふうに使われるのではないでしょうか。とにかく! 廃校になった以上もう元のようにはいきません。改装されることもなければ再び生徒の声で溢れることもありません。寂しくこの地で少しずつ朽ちていく。それが廃校となった学校の運命なのです。とても残念ではありますが、本日を持ちましてこの学校は最後の日です。それでは、皆さん。さようなら。さようなら――」

 もはや挨拶の体にもなっていない廃校となった学校をこき下ろすスピーチを繰り返す。表現や言い回しは繰り返すたびにちょっとずつ違ってはいたと思うが、似たような内容にはなっていた。とにかく「廃校」というキーワードを強く強調することで夢見る廃校自身を現実に引き戻してやる。この「夢の世界を壊す」ために僕が思いついたやり方だった。

 長々と大声のスピーチを続けていたせいで喉は荒れて痛みを帯びてくる。だけど、僕はそれを止めることはなかった。

 さっきから放送室のドアをノックする音が聞こえていた。それをノックと表現するには度を越している激しさだ。殴打じみた音が自分の背中まで届くほどだった。

 誰がドアを叩いているかは分からない。グリーン創世会を模した例の連中かもしれないし、全く別の何かかもしれない。なんにせよ。自分にはそれがスピーチを止めようとする反応にしか思えなかった。ちょうど人の免疫機能がウイルスに対抗するかのように。だとすると、この行為は廃校に効いているということになる。だから、僕は一心不乱にマイクに向かって叫び続ける。唾を飛ばして言葉を吹き込んで言い聞かせてやる。そうだ。これは僕からお前への呪いの言葉だ。

 ドアを打ちつける音はさらに激しくなる。腕が十本はある怪物が殴りつけているかのような勢いですぐにでも破られてしまうのではないかと思えてくる。そして、その中にはドアを斬り割って開いてやろうとする激突音も混じり始めていた。素手だけでなく道具を使われているのであればもうあまり時間はない。僕も早口で絶叫する。喉の奥から血が滲んでいる気がする。自分でも何を言っているか分からなくなるときがあっても呪いは止められない。こうなったら我慢比べである。どのみちこの部屋に入られてしまったら一巻の終わりだ。

 放送室は揺れていた。外から何かが押し寄せてきて殴打されているからだけでなく、部屋自体が激しく揺れていた。まるで地震だ。マイクを両手に持って懸命にスピーチは続けていたが、次第に立っていられなくなる。揺れはどんどんと強くなっていた。

 左右に振り回されていたのがエスカレートして回転になる。

 世界がぐるぐると回って、気持ちが悪い。吐きそうになる。

 次に聞こえたのは何かが割れた音。ドアだろうか。いや、もっと決定的な何かだ。

 内臓が浮かび上がる浮遊感。下を見ると足場が崩れてなくなっていた。握りしめていたマイクもいつの間にかなくなっている。

 後はもうただ落ちていくだけ。その下は何もない真っ暗闇が広がっている。叫び声を上げる間もなく落ちていく。

 意識はぐうぅぅんと遠くなって自分の身体がゴムみたいに引き延ばされる気色の悪い感覚に陥る。

そして、そのゴムが千切れてしまうのと同時に、僕は気を失った。


 ◇


 ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ、ピピピピピ……。

 近くで何かの音が鳴っている。それが何の音なのかすぐには分からない。自分の意識はまだ瞼の後ろにあった。ゆっくりと目が覚めていく。外はほのかに明るい。自分は眠っていて今目を覚ましたんだ。そのことを認知するとこの喧しい音がアラームだというのにも間もなく気が付いた。

 身体が重い。部屋が暑くて寝汗も酷い。頭の中はまだ胡乱していて不快感だけがあった。腕も足もぐったりとしていてなかなか動いてくれない。束の間の休息とあっては疲労も芯から抜けてはいない。

 ピピピピピ、ピピピピピ。

 アラームは止まらない。なんだか止める気が起きなかった。止める義理がないとも思った。なぜだろうか。そのアラームの音には馴染みがない。なんで自分はここで横になっていて、なんで目覚めの音を聞いているんだろう。

 頭の中が断片的な思考でほぐされていくとだんだん記憶に色が戻り始める。そうだ。二階堂だ。このアラームは二階堂がかけたもので僕たちは山の中を歩いている途中だった。そして、一晩をここで明かしたんだ。

 身体を起き上がらせる。喉ががさがさしてならない。すぐに近くのペットボトルに手を伸ばした。すっかり温くなった水でも随分と楽になる。涸れた体内に潤いが染みわたっていった。

 目の端で『自動人形』を捉える。ちゃんといる。部屋のドアが開きっぱなしだったから一度出ていったのは見間違いではなかったらしい。朝になる頃には戻って来たようだが、今はそれよりも二階堂だ。

 二階堂の頭の近くでスマートフォンがアラームを吐き出し続けている。けれども、一向に目覚める気配はない。彼女のスマートフォンをタップしてアラームを止める。時刻は六時を少し過ぎていた。二階堂の言った通りだ。夢の中にいたことを完全に思い出していた。

 自分の目が覚めているとなれば夢の世界を壊すのには成功したのだろう。夢の中では三時間過ごす前に脱したのでその後は通常の眠りに戻って今しがたアラームで起こされた。そんなところだろうか。

 だとすれば二階堂はどうなってしまったのだろうか。彼女は自ら囮になってくれていた。あの世界が崩れるまでの間逃げられたのだろうか、それともその前に捕まって殺されてしまったのだろうか。

 緊張して心音が早くなる。彼女に近付いて息をしているのを確認する。一安心ではあるものの、夢の狭間に落ちてしまっているとなるともう目を覚まさない気もして恐ろしくなった。

「二階堂」

 呼びかけるもまだ眠っていて返事はない。起きる素振りもない。僕の声量がアラームの音よりも小さかったからかと思って声を張り上げる。

「二階堂!」

 掠れた喉からありったけを絞り出す。彼女は依然として一定の寝息を立てるだけだった。危機感が募って彼女の肩を掴んで揺さぶる。それでも手応えのある反応はなかった。自分は見たことはなかったが、その様子は植物人間を想起させた。最悪の状況が頭の中にちらついてくる。やはり無茶だったのか。あのグリーン創世会は彼女の恐怖だ。自分も恐怖と対峙して身体が動かなかったことを考えると彼女にも同じことが起きてもおかしくない。ましてや連中は複数人いた。身体が動いても長い間逃げ続けるのは難しいだろう。

「二階堂……」

 自責の念が腹に溜まって、血の気が引いていくのを感じる。こんなことになるなら夢の世界で時が経つのを待てば良かった。そんな無理筋だった方にも気持ちが傾いていく。沈んでいく。それに『自動人形』に対しても恨みがましく思えてくる。あれがこの部屋に張っていた結界とやらを壊さなければこんなことにはなっていなかったかもしれない。

 けれども、こうなってしまったからには立ち止まってはいられない。夢の中の記憶を手繰り寄せる。彼女はもしこんな事態になってしまったらどうしろと言っていたか。確か手帳に目的地の場所が記されている、そう言っていたのを思い出す。

 眠りこける女性の身体を弄るのはそれはそれで気が引けたが、状況が状況だけに止むを得ない。手を伸ばして指を這わせて手帳の在りかを探る。

「ちょっと。そこじゃないわよ」

 不意に聞こえてくる人の声に心臓が飛び出しそうになるほど吃驚した。恐る恐る彼女の顔の方を見る。いつの間にかその瞼は上がっていた。

「目、覚めてたのか」

「おかげさまでね」

 二階堂は寝そべった姿勢のまま答えた。全身の力がへなへなと抜けて、大きく息を吐いた。心から安心した。危うく彼女の死を背負ってこの後の人生を生きていく羽目になるところだった。自分が生きていられるかは『自動人形』の如何次第だが。

「あら、そんなに心配してくれてたの?」

 彼女はくすくすと笑う。だが、起き上がれないところを見るに二階堂もかなり消耗しているようだった。始めは悪戯を疑ったが、本当にたった今意識を取り戻したのだろう。

「そりゃあそうだ。目を覚まさないってなったらこっちの目覚めが悪い」

「そうね。私もそう思うわ。ねぇ、お水を取ってもらえます?」

「ん。あぁ」

 何の気なしにペットボトルを一本取ってそれを彼女に渡そうとするが、思わぬ形で拒否されてしまう。

「飲ませてよ」

「はぁ?」

「まだ身体が上手く動かないのよ。夢の中で全力疾走したせいかしら。筋肉痛みたいになってるの」

「そんなバカな」

「君だって名演説をしたせいか声が掠れてるわよ?」

 そう言われてしまうと納得させられてしまう。全校放送だったから彼女に聞かれているのも至極当然だったが、なんだか気恥ずかしくなってそのことから話を逸らしたくもあった。

「分かったよ」

 ぶっきらぼうにそう言ってみせる。これは僕からの精一杯の反抗だ。それから彼女を抱き起こして蓋を開けて飲み口を唇へと近づける。ペットボトルを傾けて水を飲ませてやる。意識してしまうと良くない気がしたから自分を無にしてこの作業を続けた。

「はー、美味しい」

 二階堂も僕と同じように汗をかいていたし、身体は脱水気味だったのだろう。ただの水だったが、それで大分元気になったようであった。

 それからお互いの体力と気力を整えてから、一晩を過ごした廃校を後にした。当然疲労は抜けきってはいなかったが、それでも数時間休めたのは大きくて、僕らは次の一歩を踏み出せた。

 七時には出発するとそれからまた山登りが始まった。二階堂の後に僕と『自動人形』が続いた。二人の体力はほとんど空に近かったので、その歩みはまさに牛歩であった。その道程ではもはや誰も喋ることはなく、ひたすら無言で歩いていた。日差しが強くないうちに、という思いもあったが、目的地までは結局午前中いっぱいかかってしまった。

 最終的には舗道された道から外れて獣道じみた山道を曲がりくねりながら登って、件の幻道院という場所に辿り着いた。二階堂がどうやってその道順を選んでいるのか自分には飲み込めなかったし、もう一度彼女なしでここまで来いと言われればちょっと難しいだろう。場所を覚えられないように遠回りしたのかもしれないとも思ったが、その真意は分からない。

 山の中で唐突に門扉が現れたように僕には見えた。古い木造りのそれは寺院を連想させる。二階堂がその扉を何度か叩くと、まるで待ち構えていたかのようにゆっくりと開いていった。

 門の向こうには扉を開けたと思われる人の姿があった。肩にかかるほど髪を伸ばした少年が二人。白い和装と怖いくらいに整った顔立ちもあって、雰囲気は全然違うのに天使を彷彿とさせる。よく見ればそうではないのだが。身に纏う雰囲気が双子のようにも感じられた。

「こちらへ」

 少年たちに誘われて幻道院へと入っていく。門扉を潜って敷地の中に足を踏み入れると空気が澄んでいて神妙な心持ちになる。こんな神聖そうな場所に呪いの塊である『自動人形』を連れて来て大丈夫なのかと冷や冷やしたが、少なくとも『人形』の方には変化はなかった。さっきまでと変わらず大人しく歩いてついて来ていた。

 敷地は思ったよりも広いらしく本堂と思わしき建物の他にもいくつかのお堂なんかがあった。山の中にあるというのもあってか、自分の見たことがある寺院と比べると雑然と建ち並んでいるようにも感じられた。

 建造物のうち一つは居住区になっていてまずはそこに通された。『自動人形』はそこまではついて来ることはなく庭をうろうろとしている。山奥の寺院とあって外見こそ古かったが、内装は思いのほか綺麗であって下手な旅館よりも立派に見える。

 僕らが疲労困憊であるのは承知しているようで先んじて様々な用意がなされていた。

まずは湯浴みを、と勧められるがままに入ったその湯は格別であった。汗に汚れた身体は浄められて疲れも洗い流される。特段説明はなかったが、もしかしたら温泉だったのかもしれない。それくらいリフレッシュすることができた。

 湯処から上がると少年が着替えを用意している。気楽に着られる浴衣であった。そのまま別の部屋に通される。そこは個室になっていて座椅子も一つしか用意されていない。風呂のときに別れた二階堂もまた別の部屋に連れられたのだろう。机の上にはすでに食事が用意されている。まさに至れり尽くせりだ。しかも、精進料理のような質素なものではなく、それこそ旅館で出されるような部屋食であった。その彩を見ただけで腹が鳴る。思えば昨日の夜から何も食べていなかった。自分の部屋を出てからの出来事が多すぎて疲れもあって空腹だということを今の今まで忘れていた。料理は見た目だけでなく味も抜群であり少年の世話を受けながらご飯のお代わりまで何回かしてしまった。

 腹が満たされるとそれを見計らったみたいに少年はその部屋に布団を敷いた。食後とあって睡魔が首をもたげる。思えば睡眠時間だって足りていない。風呂から出た直後はしゃっきりとしていた気分もだんだんと落ち着いていって気怠さを帯びてくる。敷かれた布団にその身を預けると声が出そうになった。あまりの柔らかさと肌触りに感動を禁じ得ない。これに比べると廃校で横になった畳はもちろん自分の部屋の布団はカスに感じられる。

 布団の中で何回か寝返りを打つとあっと言う間に寝入ってしまった。

 飽きるまで存分に睡眠を堪能して目を覚ますと少しだけ頭が痛い。見た夢も起床後すぐに忘れて体感としては一瞬だったが、スマートフォンの時計に目をやるとしっかり数時間が経っている。お昼頃に到着したから外はもう夜になっていることになる。身体はすっかり楽になっていて疲労も綺麗さっぱりなくなっている。

 世俗から隔絶されている場所というのもあって、まるで天国にいるかのような気分であった。

 自分が起床して少し経ってから少年が部屋に入って来た。自分の挙動が察知されているかのようなタイミングの良さはもう気にならなくなっていた。人間というのはすぐに慣れるものでそういうものだと受け容れていた。

 少年は新しい着替えを持ってそれをこっちに差し出した。部屋でゆるりと過ごすための浴衣よりはもう少しフォーマルなもので、出されたからにはそれに着替えろということだろうか。そう勘ぐっているとそれについては少年から簡単な説明があった。

「お着替えが終わりましたらお呼びください。上人様がお待ちしております」

 そう言い残して少年は部屋から出ていく。その口ぶりからすると誰かに会わせられるのだろう。おそらくそれが少年たちの主であり、二階堂が自分と引き合わせようとしていた僧侶だというのが頭の中で繋がった。ここに着いたときはとても疲れていたし、もてなしを受けて本来の目的を忘れかけそうになったが、自分にかかった『自動人形』の呪いを断ち切るために幻道院に来たのだ。

 そう考えると気が引き締まったし、着替えをしたことで身も引き締まった。実際に鏡で見たわけではなかったが、気持ちだけは精悍な顔つきになる。一つ息を大きく吐いてから少年を呼びつけると、彼はまた「こちらへ」と短くそう言って自分を案内し始めた。

 自分が最初に入った建物から外に出されるとその足は本堂へと向かっていくのが分かった。その途中でまた別の少年に先導される二階堂と合流する。私服と同じで黒を基調とした着物を着ていていよいよ日本人形じみている。

「随分と遅かったじゃない?」

 自分の横に並ぶと彼女は小声で話しかけてきた。どうやら二階堂は自分よりも早く目を覚ましていて、それでやんわりと嫌味を言っているらしかった。

「そりゃ悪かった。そんなに早く起きてたのか」

「そうね。一時間前くらいかしら」

「そんなの誤差じゃないか」

「一時間を誤差なんて。君のルーズさが窺えるわね」

 二階堂は呆れた様子で妙に勝ち誇っていたが、一時間早かろうが遅かろうが、結局夜まで寝こけているというのは変わらないというのが自分の感覚だった。

 何か反論でもしてやろうかと言葉を探しているうちに僕らは本堂のもうすぐそこまで来ていた。厳かな雰囲気を放っていて軽率な言動をする気持ちにはとてもなれない。僕も彼女も自然と無言になっていた。

 二人の少年はそれぞれ蝋燭に火を灯して手燭を携え、僕らはその後に続いた。

 本堂は薄暗くて明かりは等間隔に置かれたぼんぼりのものしかない。夏なのに空調があるわけでもない。でも、決して暑くはない。むしろ、ひんやりとしていて不思議な感覚であった。

 奥まで辿り着くと少年たちの歩みがぴたりと止まった。そして、彼らはその場から横にずれる。数メートルほど先に誰かが座っているのが見えた。ぼんぼりに照らされて白い着物が浮かび上がって見えるその人こそ上人様なのだろう。頭は剃られて丸い形を映している。はっきりとは見えなかったが、その貌と頭には痣か火傷の痕が大部分を覆っているようだった。それもあってか年齢が読み取れない。五十代ぐらいのようにも思えるし、若く見るなら三十代のようにも思えた。

 少年たちがおもむろにその場で正座をしたので自分たちもそれに倣った。

「久しぶりだね。二階堂くん」

「ご無沙汰しています」

 そう言って二階堂は軽く頭を下げた。どことなくその声色には緊張があるようにも思えた。

「御子柴くんもここまで来るのは大変だったろう」

 あまりにもさらりとそう口にするものだからそのまま聞き流してしまいそうになった。その上人様なる人は名乗るよりも先に僕の名前を口にしていた。

「に、二階堂?」

「私は君の名前までは話していないわよ」

 思わず彼女の方を見やると僕の心の内を見透かしているかのような返答をする。初見で僕の名前が分かるとなると神がかりを感じざるを得ない。二階堂よりよほど占い師らしく感じられる。

「なるほど。名のある高僧だけあるみたいですね、これは」

「ふふ」

 上人様は肯定するでも否定するでもなく、そうやって意味深長に笑んだ。そして、閑話休題とばかりに二階堂がここまで来た目的について話を始めた。

「それで上人様。早速ですが今回の件ですが」

「あぁ、例の『霊魂自動人形』ですか。今もこの幻道院にも来ていますね」

「はい。どうでしょうか」

「噂には聞いていましたが、確かにあれは酷いものですね。幻道院にも簡単に入ってきてそれでいて平然と動いている」

「申し訳ありません」

「いえ、良いのです。むしろ、ここに来てくれて良かった。二階堂くんの判断は間違っていませんよ」

「ありがとうございます」

 二人のやり取りが歯痒く感じられる。やっとこさここまで来たのだ。『自動人形』を失うのはちょっとだけ惜しい気もするが、あれはそれ以上の疫病神だ。綺麗さっぱり縁を切れるのであればさっさと終わらせてしまった方がいい。

「それじゃあすぐに始めてもらえるんですか?」

「……と言いますと?」

 逆に聞き返されるのは想定してなかったので、面食らって次の言葉を辿々しくされてしまう。

「なにって。それはないですよ、上人様。だって助けてもらえるんでしょう? あの『人形』との繋がりを断ち切って。それともいかに高尚なお方といっても無料じゃダメってことですか? 金ならあるんでそれでなんとか」

「あぁ……」

 上人様の顔は笑っている形を作っているのにとても無機質に感じられた。

「そうですか。しかし、残念ですが私には御子柴くんを助けることはできません」

 その宣告に驚嘆の声を上げたのは自分だけでなく二階堂もだった。目の前がぐるぐるとして動揺しているのが分かった。

 絶句している僕の代わりに二階堂が詳細を訊ねていた。

「上人様、それはいったい」

「私の力不足です。『自動人形』との経路を切り離す術はありません。それは御子柴くんを一目見て分かりました」

「他に方法はないんですか?」

「『自動人形』そのものを破壊することができれば良いのですが。それも難しいでしょう」

「それじゃあ、俺は」

 掠れる喉からなんとか絞り出せたのはそれぐらいだった。とても小さい声だったが、上人様は優しくそれを拾って握り潰すように結論を繰り返した。

「はい。御子柴くんは助からないでしょう」

 正直ここに来ればなんとかなると楽観していた。そんな甘い希望はその担い手によって粉々に壊されてしまった。それじゃあ自分は一体どうすれば良いのだろう。そんな自棄っぱちになりそうな僕の心を見透かすように上人様は続けた。

「そこで私からの提案なのですが、そのときが来るまでここで心安らかに暮らすのはどうでしょうか。幸いにもこの幻道院では根治はできずともその進行を緩やかにすることはできます。この結界の中では御子柴くんと『自動人形』の経路はとてもか細いものになり、魂の消費も抑えられます。ここの外の何倍も長く生きられるでしょう。山の中ですが、衣食住は揃っています。湯で心身を癒し、食を愉しみ、そして眠りに就く。そうやって穏やかに過ごすのです」

「……死ぬまでここで過ごせと?」

「いかがでしょうか?」

 直接的な僕の問いに上人様は明示的には答えず、ただ一言そう聞き返してきた。

 混乱していた僕の頭、いや心がだんだんと一つの方向性を持っていく。それは怒りだ。ふざけるな。一方的にそんなことを言われて受け入れられるはずがない。

「さっきからヤブ医者みたいにできませんできませんの挙句の果てには終末期医療の説明か?」

 近くで二階堂が僕に抑えるように言っていた気もしたが、頭に血が上って入ってこない。身体も熱くなってもう止められない。

「ふざけるな! とんだ無能じゃねえか! ハイそうですかとはならないだろう!」

「呪いというのは理不尽なものです」

「だったら大物ぶってるんじゃねえ! この生臭坊主ゥ」

 それはもうただの八つ当たりであった。自分の方がよほど理不尽だ。だけど人間納得できないものはどうしようもない。それが自分の命とあっては簡単に頷けない。

「汗もかかずにふんぞり返ってからに。そうだ。だったら無理かどうか試してやる!」

 僕はその場で立ち上がって胸の裡で強く強く念じる。ここに『自動人形』を呼びつけて目の前の坊主にけしかけてやる。もし坊主が『人形』をどうにかできればそれで良いし無理なら無理でこちらの気も晴れるというもの。

 すぐに本堂の中にあの機巧音が聞こえてくる。走ってこちらに向かって来る。二階堂が僕の肩を掴んで止めようとしているがもう遅い。

 一瞬のうちに僕らの真上を飛び越えて『自動人形』は坊主へと襲いかかっていた。拳を握りしめてそいつの顎を打ち砕こうと腕を振るう。まともに当たればしばらくは流暢に喋ることもできないだろう。

 しかしながら、その拳は届かなかった。空中で何かに弾かれて『自動人形』はのけ反って無様にその場で落下する。

そして、坊主は座ったままの姿勢でふわっと飛び上がって『自動人形』の上に圧しかかった。『人形』はじたばたと足掻いているが、坊主を押しのけられずにいる。

 一体何が起こったのか。あの『自動人形』を圧倒してしまうこの坊主はやはり只者ではないらしい。目の前の光景が信じられずに目が泳ぐ。すると、自分の足元に何かが転がってきているのに気が付いた。何気なくそれを拾ってみるとそれは何の変哲もない小石だった。まさかこの坊主がこの小石を飛ばして『自動人形』を撃ち落としたとでもいうのか。

「なんとか抑えられましたね。良かったです」

「や、やるじゃないですか。その調子でその『人形』を壊してもらってもいいんですよ?」

「それはできませんね。いくら経路を細くして力を弱めても頑丈さは変わりませんから。こうしてやり込めるのが精一杯です」

 坊主も超人的ではあるが、それ以上に『自動人形』の力が抑えられているらしかった。そうでなければこんなふうに歯が立たないはずもない。

「分かりました。分かりましたよ! ここで暮らせばいいんだろう」

 そんな気はさらさらないが、ここは面従腹背だ。一旦大人しくしておいて機を見て抜け出すなりすればいい。

「それはありがとうございます」

「ははは、流石は上人様。人間ができていらっしゃる」

「しかしですね。こういう行動を取られてしまうとこちらとしても対応を考えないといけませんね。それに『自動人形』もきちんと押さえておかないといけません。そうですね。御子柴くんには一度気を失ってもらいましょうか」

「へ?」

 坊主がそう言うや否や自分の頭部に強い衝撃が走った。何かが飛んできてぶつかった。あぁ、あの野郎。また小石か何かを飛ばしてきやがったのか――。

 意識はそこでぷつりと途切れて次に気が付いたときには僕は布団で寝かされていた。身体を起こすとまだ頭がずきずきと痛む。どれくらい気を失っていたのだろうか。

 幻道院に着いて寝食をした部屋と造りは似ているが、大きく違うのは周囲を檻で囲まれていて座敷牢のようになっているところだ。

 心の中で念じても『自動人形』はやって来ない。本当に何かしらの力で抑えられているらしい。こうなると脱出するのも難しい。本当に死ぬまでここに閉じ込められるのだろうか。そう実感すると途端に恐ろしくなる。いつまで生きられるのかも分からない。これじゃあまるで死刑囚だ。参ってしまいそうな気を誤魔化すために大声を上げたり、檻を素手で叩きつけたりしてもびくともしない。ここには自分独りだけだ。そういえば二階堂はどうなったのだろうか。彼女はここに僕を連れてきたところでお役御免なのだろうか。疑問は尽きないが、今の僕には何一つとして分からない。

 ひとしきり暴れてから諦めて布団の中にすごすごと戻る。こんなことなら最初から坊主の提案を受け入れておけば良かった。刃向かうにしてもあの場でキレてしまわないでまずは押し留めておけば良かった。

 何の気力も涌かなくなってただ天井を眺めているだけになった。一度少年が食事を運んできたが、外部からの刺激はそれぐらいのものだった。握り飯が二つだけになっていて食事のグレードが明らかに下がっているのが腹立たしい。

 部屋の照明は一定で今が何時なのかも分からない。さっきは激情のままに喚き散らしてみたが、今は少しずつ精神が削られていってる気がする。何日もこのままにされたら本当に気が変になってしまいそうだ。

 照明から逃れるように布団を頭からかぶる。ついこの間まではとってもハッピーに生きていたのに今はなんて様だ。何も知らないままに『自動人形』をたっぷり使ってある日突然何が起きたかも分からずぽっくり逝った方が良かったか。いや、それもどうか。結局のところ『人形』を手にした時点で駄目だったんだ。

 いや、それよりももっと前か。祖父の家に行かなければ。東京に残らなければ。家族ともっと上手くやっていれば……。分岐点を探るように思考はどんどんと昔に遡る。いっそ生まれてこなければ、とそこまで考えて打ち止めにした。よそう。いくら何でも惨めすぎる。布団の中で寝返りを打った。

 することがないと意識は濁ってうつらうつらとする。だからはじめは耳に入っても通り過ぎていた。

 聞き覚えのある声だったが、呼ばれ方には馴染みがない。ただの音の波形が自分の中でだんだんと意味を持ち始める。僕の名前を呼ぶ声だ。一体誰が呼んでいるんだろう。布団の中で寝返りを打って瞼を開くとそこには二階堂が立っていた。

「二階堂!」

 急に頭が明瞭になる。檻の外には彼女が立っていた。なんとなくもう幻道院にはいないと思っていたからちょっと意外だった。

「なんだまだいたのか」

 感想をそのまま口に出すと二階堂は眉をひそめた。

「なによ。それ」

「いや。もう役目を果たしたのかと」

「そうなんだけど、そうじゃないのよ」

 二階堂は大きく溜息を吐いた。彼女は彼女で何やら事情があるらしいが、その真意は掴めない。

「帰る前に最後の挨拶にでも来てくれたのか?」

 幻道院の着物ではなく、自前の黒衣を纏っていたのでこの場から去っていく雰囲気を感じていた。置いて行かれてしまう焦りもあってそんな言葉を口走ってしまった。

「卑屈ねぇ。私だってあの上人様が呪いを外せなかったのは予想外だったんだから」

 そう言って彼女は軽く爪を噛んだ。そして、少し間を置いてから小声で呟いた。

「……ここから出してあげるって言ったらどうする?」

「えっ。良いのか⁉」

 そんなのは勿論出たいに決まっている。願ったり叶ったりだ。それだけでは問題は解決しないが、まずはここから出ないと何も始まらない。

「ただし」

「ただし、ね。来ると思ったよ。なんだ?」

「私に協力してほしい」

「二階堂に? 自分が?」

「えぇ。『自動人形』を私が回収できないとなると君の協力が必要になるのよ」

「何をすればいいんだ」

「それは……後で話すわ。とにかく今はここから出るのが先よ」

 話の全体像が見えないのはもやもやするし、足元を見られている気もするが、それでも今の自分に選択肢はない。

「分かった。協力するよ」

「よし」

 協定が成立すると彼女はどこから持ち出したのか座敷牢の鍵を取り出して開錠する。背の低い扉が開いてそこを潜り抜けて脱出する。さっきぶりの外だが、檻に閉じ込められるというのは思ったよりストレスだったらしく随分と晴れやかな気分になった。

「急ぎましょ。ここを開けたらもうすぐ気付かれると思った方が良いわ」

「それでどうするんだ? 自分は何をすれば」

「まずは『自動人形』を解放するわ」

「やっぱり何かされているんだ」

「えぇ。幻道院の庭に押さえつけられているわ。解放したら後は逃げる。それだけよ」

 そんな会話を交わしているうちに僕らは座敷牢があった建物から庭に出ていた。すっかり夜は深くなっていたが、満点の星明かりで辺りが見えないということはなかった。これまで歩いてきた山の中ではそこまで星空を感じなかったので幻道院が特別に思えた。空気が澄んでいるのが関係しているのかもしれない。

 とにかく彼女の後ろをついて行った。よく見えるとその背中には僕のリュックサックが背負われている。代わりに持ち出してくれたのだろう。こんなときでも金が無事だと思うと嬉しくなってしまう。

 小走りで駆けて行くと程なくして地面に大きな盛り上がりのある場所が見えてくる。近付くとそれが不自然に大きい岩だと分かり、もっとよく見るとその下には『自動人形』が押しつぶされているのが分かった。『人形』は力なく手足を蠢かせている。状況からして僕を気絶させた後にこの大岩の下敷きにしたのだろう。

 衝動的に岩に向かって身体を押しつけてみるがビクともしない。そうなるとどうやってこの岩を運んで来たのかという疑問も出てくるが、今はそんなことはどうでもいい。さっきから念じてみても『自動人形』は動かない。そもそものパワーも足りない気もするが、自分の意思が届いていないようにも感じられた。

「オイこれどかせられないぞ」

「そうね。岩自体の重量に加えてまじないもかけられている。おそらく経路が封じられてるんだと思う」

「それって繋がりが切れてるのか⁉」

 ちょっとした希望が萌芽するが、彼女は冷静にそれを摘み取った。

「いいえ。そうじゃないわ。たとえるなら、ホースの上に重りをのっけて水を通らなくしてるみたいな感じかしら」

「分かりやすいお話ありがとう。それで何か手は考えてあるんだよな?」

「一応ね」

 そう言って二階堂は懐から紐を取り出す。大岩を一回りできるほどの長さであり、それを巻き付けていった。

「これからこの岩のまじないの力を弱めるからその隙に『人形』を出して」

 二階堂が巻き付けた紐をきゅっと締めて、握り拳に力を込めると青白い火花が散り始める。焦げた匂いもしてくる。岩にかけられたまじないと二階堂のまじないがぶつかり合って紐がすり減っていっているみたいだった。

「早く!」

 言われなくても分かっていたが、急かされると集中を保つのがちょっと難しい。雑念を取り払って強く念じる。僕と『自動人形』の経路は幻道院の結界内と大岩のまじないで極細になっている。そう思うといささか不安にもなるが、自分の念はちゃんと届いているようだった。

 大岩に下敷きにされていた『自動人形』の姿が薄くなってそのまま消える。霊体化した『人形』は物理的な障害をすり抜けて逃れることができた。大岩のまじないはきっとこの霊体化も阻害していたのだろう。

そして、すぐに自分の隣に形を成して『自動人形』は姿を現した。二階堂の意図を汲み取っての連携プレイだ。以心伝心が上手くいくと気分が良い。

「さぁ、後は三十六計よ」

「一応聞いておくけどアシはあるのか……?」

「そんなのないわよ」

「だよな。分かってた。じゃあ追っ手はどうする」

「死ぬ気で逃げるのよ」

 僕らのものではない足音が迫って来るのがさっきから聞こえて来ていた。あの坊主だろうか、あの少年らだろうか。ずしんずしんと重量感のある足音だ。振り返る余裕も勇気もない。幻道院の中では『自動人形』で迎え撃つのも無理だろう。ここは逃げの一手だ。とにかく走るしかない。門扉に向かって一目散だ。

 しかし、その途中で僕の足がもつれた。着慣れない着物が引っかかって転んでしまった。肝が冷える。血の気が引いていく。振り返ると僕らを追かけているのが何者か分かった。石像だ。二宮金次郎の銅像が夜中に動き回る怪談話のように仏の石像が走って僕を捕えようと手を伸ばしている。普段は穏やかな表情を浮かべて禅でも組んでいそうな仏の石像が鬼の形相で駆け寄ってくる。その手はもう寸でのところまで伸びていた。ごつごつとした石の指に掴まれてしまったら僕の手足は容易く折られるだろう。

「うわあああああああああああああ」

 殺される! 叫び声を上げながら、反射的に『自動人形』を石像に差し向けた。この状況下ではやはり『人形』に勝ち目はなく、簡単に捕まって目の前で地面に叩きつけられた。抵抗しようにも石像はびくともしていない。ただ、その頑丈さで壊されるということもない。

 その僅かな時間で僕は立ち上がってまた走り出すことができていた。『自動人形』の方も再び霊体化させて石像から解放させる。何があっても壊れないのであれば盾としては充分使える。

「急いで!」

 門扉のある出口の方で二階堂が叫んでいる。彼女もまたこの隙に扉を開いていたらしい。そうだとすれば転んだ甲斐もあったというもの。痛んだ足を一生懸命回転させる。心肺も苦しいが、もっと苦しい目に遭うくらいならと自分の中で何かを絞り出して走る。転がるように走る。

 石像はその重量からは考えられないくらいの俊足であり、何度も追いつかれそうになったが、その都度『自動人形』を盾にしてやった。こいつのせいでこんな目に遭っているんだ。これくらいは役に立ちやがれ。

 出口までの道のりは決して長いものではなかったが、とてつもなく遠くに思えた。命からがら敷居をまたいで外に出たときにまた盛大に転んでしまった。そのまま石像に追いつかれて肩口辺りを握りつぶされそうなものだったが、幻道院の外には出られないらしく門扉の向こう側で恨めしそうにこちらを睨みつけていた。

 身体を地面に投げやって大の字のまま乱れに乱れた呼吸を整える。大きく息をするたびに胸が大きく上下に動く。門を一枚隔てただけなのに星空はさっきまでより暗く感じられて夜らしい空を見上げていた。

「死ぬかと思った?」

 覗き込んでくる二階堂が僕の視界に現れた。どことなく半笑いなのが気になったが今は腹を立てる元気もない。

「そりゃあ、ね」

「でも命まで取られることはなかったと思うわよ」

「とてもそうは見えなかったけど」

 あんな石の化け物みたいなので襲ってくるのだから。今もまだ幻道院の中からそいつは覗いてきている。もし、枷がなくなってしまえば地べたに寝転んでいる僕なんかはひとたまりもないだろう。

「だって下手に君を殺しちゃったらその魂が『自動人形』の方に行って本来の力で暴れられるんだから」

「あっ、そうか」

「ただ、手足の一本か二本はもがれてたかもね」

「手足はそれぞれ二本ずつしかないんですよ」

 確かに僕の命を奪って解決するなら話はもっと単純だろう。それこそ二階堂だって出会った時点で僕を殺してしまえばいい。むしろ、僕の命を守らなければならないのだ。廃校の夢の中で身を挺してくれたのもそういう側面があったということになる。僕はそこに気が付くとちょっとだけ安心した。何を考えているかいまいち分からない二階堂にも打算な部分があって良かった。そっちの方が分かりやすい。

 ただ、仮に二階堂が夢の中に取り残されて自分だけが幻道院にのこのことやって来ていたとすると、二度とシャバの空気に触れることなく死ぬまで檻に閉じ込められていただろう。そうならないだけで充分だ。

「良かったのか。あの坊主を敵に回して」

「敵対ってほどじゃない。ただ見解に相違があっただけ。それに元々そこまで蜜な関係ってわけでもないわよ」

「なら良いんだが。今後追いかけられるってことも」

「ないわね。上人様はあの場所から出ないのよ」

「ふーん。それでどうするんだ。何かアテはあるんだよな」

 一番大事なのはそこである。僕らは呪いを解くのを期待して幻道院を訪れたが、それが空振りとなると事態は何も変わっていない。時間だけが過ぎて悪化しているまである。

「んー」

「どうなんだ」

「とにかく山を降りましょ。それで私の事務所まで行く。話はそれからね」

「ちょっと待て。降りるってまさか」

「そう。また歩きよ」

 ある種また別の絶望感が僕にのしかかってくる。あれだけ苦労して歩いてここまで来たのに、戻るにもまた同じようにしないといけないのか。考えただけで足腰が痛んでくる。

「朝になったらタクシー拾えばいいから」

「タクシーを拾えるところまでは歩いていかないといけないんだろう?」

「ご明察」

 僕はがっくりとうなだれる。『自動人形』のせいでまたトンネルで霊障にあったり、タクシーで事故りそうにならないかも聞いてみたが、深夜でないならそのリスクも低いらしい。だから、行きよりももっとゆるゆるとしたペースで山道を歩き下って行った。陽が昇ってからトンネルを通ったから何事も起きなかった。タクシーの事故現場だったところには警察が来ていた痕跡もあったし、麓まで着いた頃になると車の往来もそこそこにあった。そこで運良く走っていたタクシーを捕まえることができた。二階堂が運転手に行き先を告げているのを見届けてから僕はそのまま眠りに落ちてしまい、次に気が付いたときは目的地に着いたときだった。体感としては実に一瞬だったが、時計はその間にもちゃんと回っていてもうすぐ正午といった時間になっていた。幻道院に着いたときから考えると丸一日経っているということになる。

 金を支払って車から降りると夏の暑さに晒される。アスファルトからの照り返しがあるせいで山の中よりも厳しいものがある。気を抜いたらクラっときてそのまま倒れてしまいそうなくらいだ。空腹を感じるくらいには身体からカロリーが不足しているのもある。僕はその欲求を言葉に変換して二階堂に伝えた。

「腹減ってないか?」

「そうね。確かに食事は摂りましょうか」

「この辺で何かオススメは? 行きつけの店なんかがあればそこでも」

 無邪気な僕のそんな一言に二階堂は白い目を差し向けた。

「あら、随分と呑気なのね」

「へ?」

「私はコンビニくらいのつもりだったけど。それなら事務所で話しながら済むし」

 二階堂は相変わらず合理的だった。合理性だけが正しいというわけではないと思うが、この場合はそうすべきだ。これではオススメだの行きつけだのを聞いたこっちが恥ずかしくなってくる。僕は閉口して彼女の意向に追従する意を示す。二階堂もそれで伝わったらしくそのまま黙って最寄りのコンビニがあるらしき方向に歩き出した。

 コンビニに入るとまた暑さから逃れられる。一瞬のうちに冷やされて快くなるが、短い間に急激な温度の変化を食らっている身体にしてみればたまったものじゃないだろう。

 自分が何を食べようかと悩んで物色して回っているうちに二階堂は手早くサンドウィッチとミルクティーのペットボトルを手に取っていた。それでもう買い物が終わってしまいそうなぐらいだ。これだと置いていかれてしまう。

「時に二階堂」

「はい。なんでしょうか」

「事務所とやらには電子レンジはある?」

「んー、ないわね」

「じゃあ電気ポットか何かある?」

「この暑い中お湯なんか使うの……? ケトルはあったと思うわ」

「おっけ。じゃあこの海苔弁にしようかな」

「いや、なんでよ。今の流れだったらお湯を使うカップ麺か何かだったでしょう」

「なんとなく……気分?」

「電子レンジはないのよ?」

「それはコンビニで温めてもらえばいいじゃない」

「それはそうなのだけど」

 二階堂はなんだか釈然としない様子だったが、僕より先にレジへと並んでいった。海苔弁に加えてお茶を手に取って彼女の後ろへと並ぶ。本当はアイスでも一緒に買うか少し悩んだが、また二階堂に馬鹿にされそうだったのでそれはやめた。レジ打ちからの好奇の視線に気が付くと自分が幻道院から着物を着たままであったのを思い出す。

 コンビニから目的地まではものの二、三分程度の道のりだった。街中に乱立している雑居ビルの一つであり、お世辞にも新しいとは言えない建物だった。乗り込んだエレベーターも狭くって後二人も乗り込めばぎゅうぎゅうなほどだったが、定員には六人とあった。

 四階を押して当たり前に四階で開く。広いビルではないのでフロアには数部屋しかなくトイレや給湯室もそれらの部屋とは別で外にあった。彼女は迷いなく廊下を進み、そのうちの一室の前まで行って鍵を取り出して中に入る。廊下も蒸し暑かったが、ドアを開けて中に入るとまたむわっとした熱気があった。

 事務所とは言うものの作業部屋のような趣であった。物が少なくてこざっぱりしている印象だ。奥には事務机があってその横には本棚が置かれている。手前には背の低いテーブルがあってそれを挟んで二つのソファが配置されている。ソファのうち一つは一人用だが、もう一つは長さがあって横になれば寝ることもできそうだった。そして、そんなソファの近くにはホワイトボードが置いてあってそこには何やら書き込みがしてあったり、写真や資料が貼ってあったりした。

「適当に座って」

 二階堂はそう言いながらエアコンのリモコンを拾い上げて電源を入れていた。僕は勧められるままに一人用の方のソファに腰を下ろした。この場合それ以外の選択肢もないだろう。

 あまり深くは考えていなかったが、ここは何のための部屋なのだろうか。なんとなく占い師に関係するのだろうとは思っていたが、どうやらそんな雰囲気でもない。そもそもこのビルの表にも占いの『う』の字もなかった。もし、ここで占いをするのであれば看板くらいはあってもいいはずだ。思えばというか、やはりというか、僕は彼女についてまるで知らない。それも含めて話ができればと思った。

 二階堂もソファに座ってサンドイッチの包装を開け始めていた。それを見て自分も海苔弁の蓋を開けた。見知った馴染みのあるおかずたちと海苔ご飯が並んでいる。普通を象徴しているようでちょっとホッとする。昨日一昨日と普通じゃないことばかりだった。

 サンドイッチを一口食べてそれを飲み込んでから彼女はぽつりと呟いた。

「さて、何から話したものかしら」

「分からないこと聞きたいことはいくらでもあるけどまずは二階堂に任せるよ」

「そうね……」

 考え込むようにして二階堂は黙ってしまった。おそらくどう話をするのか考えを整理しているのだろう。時折サンドイッチにも口をつけていたので、自分も彼女の言葉を待ちながら箸を動かしていた。

 結局二階堂は二つ入っていたうちの一つを食べきってしまっていた。ただ、次のサンドイッチには手をつけず、ようやく彼女は口を開いた。

「君は数年前にあった事件のことを覚えているかい?」

 彼女がその事件について語る。東海地方のとある町であった連続強盗殺人事件。僅か十日の間に五軒もの民家に押し入って住人を襲っていったというのが事件の概要だ。ショッキングな内容ではあるが、彼女から話を聞くまですっかり忘れていた。実際のところ凶悪な事件であっても変な言い方にはなるが、ニュースの中ではありふれているようにも思える。それに一番大きいのは自分がその事件の当事者ではないということだ。だから、僕は「そういえばそんな事件もあったな」と彼女に答えてしまっていた。

「そうよね。結局犯人も捕まってなくて未解決のままっていうのは?」

「いや、それも……そうか。まだ捕まってないのか」

「今の話、何の関係があるんだってそう思ってるでしょ」

「いや、まぁ……それは」

 僕は曖昧に言葉を濁した。正直に言えば全く別の話題だと思ってしまうし、だからといって意味がない話をするとも思っていない。だから、今はまだ黙って聞いていようと考えていた。

「その事件の被害者について何か知っている?」

「いや……すまん。分からない」

「それはそうよね。だって報道されていないもの」

 さっきから二階堂と目が合わない。彼女の口ぶりにはどこか静かに揺らぐ炎みたいな強い意思が感じられた。

「その被害者の一人に私の姉がいたの」

「……そうか。そうだったのか」

 そう告げる二階堂に僕はあまり気の利いた言葉はかけられなかった。それになんとなく彼女には言葉を尽くしてどうにかなるとも思えなかった。

「そう。はじめはとても悲しくて悔しかった。姉は結婚して間もなかったし、生まれたばかりの子供もいた。それが全て奪われてしまって……」

 感情が昂ったのか声が震えて一旦話を止めた。呼吸を整えて少し間を置いてからまた話を再開する。彼女の口調は冷静さを取り戻していた。

「だから私も後になって知ったの。姉のパソコンの隠しフォルダにあった日記帳。姉もあまり良くはないと思いながらも不安からか書き残していたわ。自分の夫の仕事のことね。私も何度か会ったことはあるけどとても良い人だった。正義感に溢れてて地元の新聞社の記者をやっていた。……グリーン創世会について調べていたみたい」

「それって、あの」

「えぇ。そうね。それで分かったのよ。その事件はグリーン創世会が関与している可能性が高いって」

「じゃあなんだ。口封じか何かのために殺されたって、そういうことなのか」

 二階堂は声には出さず確かに頷いた。そして、ミルクティーの蓋を緩めてそれを口に含んだ。

「連中の肩を持つわけじゃないけど、何か証拠はあるのか?」

「あったら捕まっているでしょうね」

「それじゃあ、決め打ちってやつか?」

「最初は私も不審に思うくらいだった。でもこういうのはどうかしら。これは報道はされていないことなのだけど。あの事件は十日もかかっていない。たった一日のうちに起こったものだとしたら」

 多分自分の口からは間の抜けた疑問符が出てしまっていたと思う。一日のうちに五軒の住人に対しての強盗殺人が起きていたとしたら事件の性質はがらっと変わる。

「……マジ、なのか」

「ありのままの情報は報道機関には伝えられなかった。それだけのことをしておきながらその犯人の足取りも凶器だってちゃんと分かっていない。怪奇な事件よね。町にいくつかあった監視カメラにも何も映ってないんだから」

 どこかで聞いたことがあってならない。胸の奥で引っかかりがあってならない。監視カメラにも映らなくて証拠が残らないだって? それじゃあまるで、と思いかけたところでそれが二階堂の話術なのではという可能性に思い至る。まるで答えを直接は教えず考え方を養うように導いてくれるよくできた講師だ。

「なるほどね。二階堂の言いたいことがだんだん分かってきたよ」

「へぇ、それは察しが良くて助かるわね」

「褒められてもね……。つまり、グリーン創世会も『自動人形』を持っているみたいな話なんだろ」

「えぇ、その可能性が極めて高いと考えているわ」

 今度はあっさりと自分の答え合わせに正解を出してくる。『自動人形』を殺意をもって起動させればきっとそれくらいの虐殺だって容易だろう。霊体化させれば被害者以外には誰にも見られることはない。それにもしかしたらそれだけの人数を殺るつもりはなくて勢い余ってしまっただけなのかもしれない。

 けれども、そんな連中のやり口の想像よりも別の疑問が残る。一番大事で根本で大きい部分だ。

「なぁ、二階堂。なんだってそんな報道されてもない話を知っているんだ? 事件の内部情報となったら調べるにしても限度がある。自分の部屋に来たときもそうだ。占い師でその手のオカルト情報が入るって言ってたけどそれもよく考えたらおかしな話だ。なぁ、二階堂。お前何者なんだ」

 彼女は大きく息を吐いた。溜め息のようにも見えたし、深呼吸で吐くときのような動作にも見えた。

「占い師っていうのじゃだめ?」

「それじゃ、納得できないね」

「ま、良いけどね。君に切り出されなくてもそろそろ話そうと思っていたから」

 僕は息を殺して二階堂の次の台詞を待っていた。彼女の秘密を前になんだか胸が弾んでいる自分もいた。この謎多き美女の正体が解き明かされるのにある種の期待をしているのかもしれない。

「実は私、政府機関の人間なのよね」

「警察、か?」

 ぽつりと自分の中で予想して浮かんだ組織名を零す。

「んー。当たらずといえども遠からずというか」

「じゃあなんなんだよ」

「おおっぴらにされてない組織だからね。国立神秘研究所の職員。それが私。占い師は仮の姿になるわね」

「あんまり占い師だとは思ってなかったけどね」

「結構それらしいと思ってたのに」

 変なところで残念がっている二階堂だったが、そんなよく分からない団体の名前を出されてもいまいちピンとこない。名前だけならその胡散臭さはグリーン創世会とだって引けを取らない。まぁ、そんなこと言ったら二階堂に怒られそうだから口にはしないが。

「その、なんとか研究所ってのはなんなんだ」

「最初に政府組織とは言ったけど厳密には半官半民で……とそんなのは別に良いわね。やってることは神秘案件の調査と対処。つまり、オカルト事件を調べてなんとかするってとこね」

 本当にざっくりした説明の後に「そうだ。名刺を渡すわね」と言って、事務机の引き出しから取り出した名刺を寄越してきた。国立神秘研究所という怪しい文字列の横に彼女の名前もしっかりと載っていた。こんな名刺他にどこで使うんだろうか。

「それで例の事件の内情も知っているってわけか」

「私も事件の後に入所したから全部後で知ったのよね。私についてはいいかしら?」

「まぁ……半信半疑ではあるけど、一旦信じてみることにするよ」

「えぇ。じゃあ話を戻すわね。グリーン創世会はカルトってことで公安も絡んでるってのもあるけど、簡単に手を出せない一番の理由が『自動人形』所持の可能性ね。大量破壊兵器を持ってるのと同義だから下手に刺激できないのよ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。こっちも話を戻すことになるかもしれないけど、二階堂はグリーン創世会をどうする気なんだ? まさか復讐を考えてたり……?」

 二階堂は真顔で頷いた。今までの話の流れからもしかしてとは思っていたが、振り切れたような様子がちょっとおっかない。

「私は姉を奪ったグリーン創世会を潰してやりたいと思ってるわ。そのために神秘研究所にも入った。もしかして君は復讐は何も生まないと思ってるタイプ?」

「そうとは言わないけどさ。あの廃校の夢の中で出てきたあいつらってのはトラウマでもあるんじゃないか」

「ふぅん、結構鋭いじゃないの。前に連中を探ってて逆に狙われたこともあるの。『人形』は持ち出されなかったのだけれどね。だから意趣返ししてやりたい相手と同時に私自身も乗り越えないといけない相手なのよ。それがあの夢の中で改めて思い知らされたわ」

 彼女の中で静かに揺らぐ炎の色はきっと青色なんだろうとそのとき思った。それぐらいの熱意と決意が確固たるものとしてあるのだろう。

「でもどうするんだ」

「幻道院でも言ったでしょ。協力してって」

「協力って言っても自分にできることなんて――」

 そこまで言いかけて気付く。確かに自分自身にできることはないだろうが、自分の持っているカードなら話は別だ。

「『自動人形』を使ってグリーン創世会を潰すのか?」

「ご明察。本拠地に乗り込んで『自動人形』で滅茶苦茶にしてもらう。それが私の目的だった。本当は君との経路を切った後で私に繋ぎ直して私だけでそれをやるつもりだったけど、状況が変わって君の協力が必要になったのよ。どうかしら。ちゃんと約束守ってもらえそうかしら?」

「断るって言ったら?」

「そうね。まずは君の強盗行為でも問題にしようかしら」

「おい、それは卑怯だぞ」

「あのね。そもそも断るなんて選択はないのよ。包み隠さず話すけど、私にも時間はない。他の職員が来たら安全な方法で君から『自動人形』を剥がしにくるはずよ」

「なんだ。そんな方法があるのか」

「君ももう幻道院で体験しているはずよ」

 なるほど。ご安全にというのは何も僕の身に対してではない。それは僕以外の公共のためにあるもので昨日みたいに僕を死ぬまでどこかに閉じ込めておけばそれが一番安全ってことだ。

「確かにそれはご免被るな」

「私としても『自動人形』が回収されて封印されたら機会を逃してしまう。それにこれは君が生き残るための唯一と言ってもいい方法なのよ」

「おい、それを先に言ってくれよ」

「あら、気が付いてなかったの。上人様も言ってたでしょ。君が助かるには『自動人形』を壊さないといけない」

「それができないから難儀してるんですが」

「もし、グリーン創世会が持っている『自動人形』に君の『自動人形』をぶつけたらどうかしら?」

「『人形』同士なら相打ちになるかもしれない……!」

 そうだ。なんですぐに気が付かなかったのだろう。『自動人形』であれば『自動人形』を壊せるかもしれない。それならばまだ自分も希望が持てる。

「私からの話はこれで全部よ」

 そう言ってから二階堂はソファから腰を上げて僕の方に手を差し向けてきた。彼女が描いた絵図は僕らにとってこれ以上ないものだ。随分前からただ手に持っていただけの箸を置いて、同じように立ち上がりその手を掴む寸でのところで止めた。

「自分からもいいか?」

「えぇ」

「きっと二階堂は連中を殺してやりたいくらいに思っているんだと思う。もし『自動人形』を使っていたとしたらきっとそうなってた」

「そう、かもね」

「自分もぶっ殺してやるって意気込むことはできても多分それは心の底から出てくるものじゃなくて、何が言いたいかって言うと相手は人ってのもあるし、自分の『自動人形』には殺意がこもらないかもしれない。……それでも良いか?」

「何を言うかと思ったら。それも織り込み済みよ」

「そうか。だったら」

 そこでやっと彼女の手を握ることができた。細くて綺麗な手をしているのもあって冷感な印象を抱いていたが、彼女の手はちゃんと人並みに温かくて体温が感じられた。

 当たり前だがこれで解決したわけじゃない。全てはこれからだ。僕は今やっと二階堂と同じ目線になっただけに過ぎない。

「よし、協力の握手ってことでもう少しだけよろしくね。それじゃランチの続きにでもしましょうか」

 さっきまでちまちま食べていたのにもう一つのサンドイッチには大きな一口でかぶりついていた。彼女は彼女で全てを話して胸のつっかえみたいなものが取れたということなんだろうと、僕は少しだけ冷めた米を口に運びながら勝手にそう思っていた。


 ◇


「やることはとってもシンプル。とにかく『自動人形』を暴れさせるだけ。そしたら向こうも『自動人形』を出してくるはずよ」

 事務所の近くで借りたレンタカーの中で二階堂はそう言った。グリーン創世会の本拠地は東京から二時間と少しの距離だった。ぽつりぽつりと背の低い建物が建ち並ぶのどかな風景の中にリゾートホテルがドンと建っていて異質に感じられる。

けれども、リゾートホテルの周辺を含めてここら一帯がすでに奴らのテリトリーだった。主に一般の信者が住んでいて、畑の面倒を見たり、手工業に従事しているらしい。

 リゾートホテルを利用して作った本部には熱心な信者と幹部や教祖が暮らしているとのことで、おそらく『自動人形』もそこにあるだろうというのが二階堂の見立てだった。

「ホテルの部屋で栽培なんかもしてるって噂よ」

「栽培って」

「そりゃあ、違法な葉っぱよ」

「うへえ。摘発されたりしないのか」

「そこは手を回してるんだと思う。お陰ですっかり治外法権ね。何が出てくるか分からないわよ」

 二階堂は手で拳銃のポーズを作って見せる。やれやれ、ここは本当に日本なのか。

「なぁ、本当に僕たちも行くのか。『自動人形』だけ行かせればいいんじゃ」

「すでに敵の本拠地のど真ん中にいるのよ。『人形』の近くにいた方が安全じゃない?」

「一理あるような、ないような」

「それに私も独断の行動を取るんだから教祖の身柄は確保したいのよ。『自動人形』が壊れたら人手がいるでしょ」

 元々は差し違えるぐらいのつもりだっただろうに、そうじゃなくなるとここから戻った後のプランまですでに二階堂は考えていた。教祖の身柄と引き換えに自分の進退の交渉をしようというのだろう。上手くやれば免責に、場合によっては手柄にだってなるかもしれない。

「長く車を止めてても怪しまれるだろうからそろそろ行きましょうか」

「いざってなるとドキドキするなぁ」

「とにかく上へ上へ進むのよ。偉ぶってる奴ほど高いところを好むんだから」

「分かったよ」

「でも教祖を確保する前に『自動人形』が壊れたらそのときはすぐに逃げるのよ」

「どうやって?」

「頑張って」

 彼女の作戦は雑なところもあったが、今に始まったことではないしそんなことを言っても仕方がない。最後の確認をしてから僕らは車を降りた。もう一分か二分歩けばそこには本部がある。見上げるとその大きさが実感できる。十数階ほどの高さだろうか。さっきから胸が高鳴っていたが、建物に入ってしまったら僕の心は開き直ったみたいに落ち着いていた。

 元々がリゾートホテルだけあって、中に入ってすぐのところはロビーのようになっている。受付らしき場所もあって一人の男が入ってきた僕らに気が付くとこちらに足を向けた。

「失礼ですがこちらは初めてですか? お見かけしたことのないお顔だったもので」

 笑顔を作って案内の男は懇切丁寧に応対する。その様子だけならホテルマンと言ってもいいくらいだが、しっかりと心の壁は感じられる。

「えぇ、私たち東京から来まして」

「そうですか。東京からわざわざそうですか。失礼ですが、アポイントメントは取っておられますか?」

「いいえ。それが取ってなくてそのまま来てしまって」

 二階堂がそう言うと案内の男は一瞬だけ訝しんで笑顔を失ったが、またすぐに表情を戻して対応を続けた。

「あぁ、そうでしたか。そうだ。失礼ですが、そもそもここがどういった場所かはご存じで?」

「えぇ、グリーン創世会の本部ですよね」

「あぁ、ご存じでしたか。失礼ながら用件はなんでしょうか? 見学でしょうか? それとも入会希望でしょうか? いずれにしても手続きがありますので。本当はいきなり本部に来られても困るのですが、今回は特別です」

 案内の男は半ば強引に話を進めて僕らを誘導しようとする。なるほど、自分の都合の良いように解釈するのはしっかり宗教に嵌った人らしい。それとも自覚はあったうえでわざとやっているのか。表面上だけは丁寧なもんでそれがまた厭らしい。受付らしき場所にいる女性に案内の男が目配せして何かの書類を用意させている。

「いや、こんなクソカルトに入る気は毛頭ないんで」

 もう話をする必要もないと思い、ぶっこんでみる。

「は?」

 真顔に戻る間もなく案内の男は笑顔が貼り付いたままだった。ただ、その声音には怒気がこもっている。

「だから、こんなクソカルトには入る気ないって」

「……失礼ですね。すみませんが、お引き取りください」

 案内の男の声はぷるぷると震えている。

「おーい。ここの教祖を出せ。教祖を!」

「誰か! 警備を呼んでください。この男を摘まみ出してください」

「あら、私はいいのかしら。私も彼と同じ意見なんだけど」

「こいつらを摘まみ出せぇ!」

 取り繕った口調はすっかり崩れて声を荒げる。すると、奥からガードマンらしき屈強な男が二人ばかり小走りでこちらへと向かってくる。

「ほら。こっちへ来い」

 ガードマンの男に肩を掴まれるその前に僕は心の中で強く念じる。ここにいるグリーン創世会の関係者を全員ぶちのめせ、と。死なない程度に痛めつけて無力化しろ、と。

 すると、霊体化させていた『自動人形』が姿を現して手始めにガードマンの男の腕を逆に捻ってやっていた。

「ぐわああああっ」

 ガードマンの男から苦悶の声が上がる。そして、腕を極めたまま床へと叩きつけて顔面を踏みつける。呆気に取られていたもう一人のガードマンの顔面にもストレートに拳を叩き込む。鼻血を噴き出しながら後方に倒れていった。

 案内の男はその光景を目の当たりにして言葉を失っていた。対照的に受付の女から悲鳴が上がる。

「な……えっ、人が急に現れ……えっ何」

 事態が飲み込めていない案内の男は突然現れた『自動人形』に酷く困惑していたが、少し遅れて恐ろしくなったのか大声を上げてその場から逃げ出そうとする。

「うっ、うわあああああ、あああっ」

 しかしながら、無様に逃げるその背中は狩人からすればただのカモでしかない。『自動人形』は軽くその場で飛び上がって案内の男に蹴りをくれてやった。中年のただの男にはその攻撃はいささか苛烈であり、そのまま床に打ち付けて倒れた。

「あーあ、かわいそう」

 二階堂は口ではそう言うがかなりの棒読みで、全く本心ではないのが伝わってくる。むしろ、このバイオレンスにある種の清々しささえ感じている気がする。かくいう自分がそうであった。

「この調子で上の階に進んでいこうか。あっ、そこのおねーちゃあん?」

 受付の女に僕がそう呼びかけると悲痛な叫び声を上げた。今度は自分が同じような目に遭うのではないかという恐れからすっかり青ざめている。

「上の階の人たちに通報していいから。侵入者だぁって」

「は、はひぃい」

 背筋をピンと伸ばして直立してそう答えると受付の女は必死に内線を回し始めていた。

「いいの?」

「向こうで連絡してもらった方がスムーズかなって」

「あぁ、そういう。女の子だったから手心加えたのかと思ったわ」

「まぁそりゃあ、女の子を積極的にぶん殴るのは多少は気が引けるよ」

「ふーん、お優しいのね」

 二階堂は皮肉っぽくそう言うが、もしかしたら内心では面白くなかったのかもしれない。彼女からしてみればここにいる連中は姉の仇で、本当ならこれぐらいでは収まらず、八つ裂きにしてやりたいくらいのもんだろう。だけど、ここに来る前にも言ったが自分が『自動人形』を扱う以上はどうしても自分の裁量になってしまう。

 ただ、そうは言ってもこれからもし襲いかかってくるとしたらそこに性別は関係ない。邪魔立てするなら暴力の限りを尽くすまでだ。

「それじゃあ、エレベーター探して行けるところまで行こうか」

「エレベーター? あぁ……そうね」

「ん……?」

 二階堂の応答に歯切れの悪さを感じながらも、エレベーターの乗り場を見つけて上のボタンを押す。すると、間もなくそのドアが開いた。中には入り込むと階数を表示するボタンのうち上層階のボタンが潰れているのに気付かされる。このエレベーターは上層階へ直通とはなっていないようだった。上層階がこの本部において重要だという予想はどうやら間違っていないらしい。

 機能している中で一番数字がデカい八階のボタンを押す。潰されているボタンを見るにこの建物の中ではちょうど中間辺りになる。エレベーターはゆっくりと動き出してしばらくすると止まった。そこはどの階でもなくて扉が開く気配もない。

 僕は焦って他のボタンを押したりしてみるが、まるで反応はない。自分とは対照的に落ち着いた様子で二階堂がぽつりと呟く。

「案の定閉じ込められたわね」

「案の定って……分かってたのか」

「なんとなくそんなこともあるかなって」

「いや、止めてくれよ」

「行けたらラッキーじゃない」

 そうこうしているうちに止まっていたエレベーターはこちらの操作を無視して勝手に下がり始めていた。どうやらこのエレベーターは遠隔で操作されているらしく、表示は二階になってそこで扉が開いた。その先には緑の作業着を着た男たちが数人待ち構えている。男たちはさすまたを握っていて、エレベーターが止まっている間に侵入者をとっ捕まえる準備をしっかりしてきたといったところだった。

 だが、こっちだって押し入られて取り押さえられるわけにはいかない。さすまたがこっちに向かってくる前に『自動人形』は前蹴りを繰り出す。男たちはその馬力に押しのけられて面白いくらいに弾き出されていった。ただの人間が数人がかりくらいでは何の問題もない。

 連中を撃退した後も『自動人形』は動かなくなるまで追撃を続ける。倒れ込んだら最後で立ち上がろうとするも顔面を蹴り上げたり、踏みつけたりしてその意識を刈り取る。一分もかからないうちにエレベーターホールの前には床に転がった男たちだけになり、僕らは悠々と外に出ることができた。

「『人形』様様ね」

「ただエレベーターが使えないとなると階段で行くしかないぞ」

「別にいいんじゃない? 今みたいに片っ端から倒していけば良いじゃないの」

「なんか……やけに好戦的じゃないか?」

「ふふふ。そうかしら」

 わざとらしく笑う二階堂だったが、彼女は彼女でやっぱりスカッとしているようだった。

「それに派手にやればやるほど君にとってもいいじゃない。向こうが『自動人形』を出してくるかもしれないんだから」

「それもそうか」

「だけど、ここらで一旦いいかしら」

 二階堂が指差す方に目をやると、エレベーターホールの上方に付いている監視カメラがあった。

「あれとあれを壊してもらってもいい?」

 次に彼女の指はエレベーターホールに置いてある観葉植物を差した。その言葉に従って『自動人形』にも指示を出してみる。ちゃんと動いてくれるかはそのとき次第ではあるが、すんなりと動いて監視カメラを破壊していく。観葉植物の中にも仕掛けられていてそれを見抜いた二階堂には舌を巻く。

「一旦別行動にしましょう。私がエレベーターの制御を奪って逃げ道を確保しておくわ」

「逃げるときは気合じゃなかったのか」

「気合とは言ってないわ。頑張ってとは言ったけど。ということで私が頑張るから君はこのまま教祖を目指して向こうの『自動人形』を待つのよ」

「でも大丈夫なのか。こっちの『自動人形』から離れて危険じゃないか」

「この作業着を奪って変装するから」

 そう言って床に転がっている男たちに視線を落とした。偶然にも二階堂とそう体格の変わらない小柄な男もいる。それも抜け目なく見つけたうえで彼女はこの話をしているのだと思うとなかなかやるものだ。作戦は雑でもアドリブが効くから今までやって来れたという気風を感じる。オカルト相手だと予想外なことだらけだろうからこうなるのも当然なのかもしれない。

 その場を後にして階段に向かう。自然と駆け足になっていた。なんせ上らなければいけない階数はまだまだある。結局エレベーターでは一階から二階に上がっただけなのだ。

 階を上がるたびにグリーン創世会の信者たちが待ち構えているかと思ったらそういうわけでもなかった。たとえ誰かいたとしても『自動人形』がいれば相手にならないので、慎重さもなくなってひたすら階段を上がっていく。はじめは軽快だった足取りもだんだんと重たくなってくる。太ももやふくらはぎが張ってきてペースもダウン。日常生活でここまで階段を上り続けることもそうないだろう。こうなると厄介なのは信者たちよりも疲労の方かもしれない、とそんなふうにさえ思い始めていた。

 やっとのことで八階まで辿り着くが、順調にエレベーターが稼働していればすんなり来れたというのあり、マイナスがゼロになった感覚で達成感はない。それにまだ半分も残っていると思うとげんなりする。ここまで誰にも遭遇していないこともあって階段を上る方に意識が向いてしまっていた。

 九階に足を踏み入れるとこれまでの階層とは景色が変わっていた。今まではリゾートホテルをほぼそのまま転用しているようだったが、この階からは部屋をぶち抜いたりしていて内装が大きく変わり、広々とした空間になっている。ただ、そんなことより気にかけないといけないのは緑の迷彩柄を身に纏った奴らの存在だ。人数は三人でこちらはを取り囲んで立っている。今までの信者たちと明らかに違うのは武装だ。ショットガンを構えてその銃口はこちらに向けられている。人数差に加えて一定の距離もあるから無闇に『自動人形』を突っ込ませられない。そんな心のブレーキが効いているのか『自動人形』も僕の傍から離れない。体勢としては守りの格好だが、果たしてその性能はどれほどのものかは分かっていない。たとえば一斉に放たれる散弾から自分の身を守り切ってもらえるのだろうか。

「仲間はどうした?」

 迷彩柄の一人が低い声で訊ねてくる。すぐに撃ってこなかったのはそのためか。

「さぁ、なんのことか。それよりその銃って本物?」

「安心しろ。ゴム弾だ。うっかり死んじまったらコトだからな」

「ゴム弾って言ったって当たり所が悪いと死んじゃうんだぞ」

 二階堂の話からすると殺人だって厭わない連中のはずだ。それにも関わらず非殺傷の用意をしているとなると自分が死んでしまうのはまずいと分かっているということになる。目の前の男がその辺の仕組みを知っているかは分からないが、少なくともそんな指示は受けているってことだ。

 膠着状態が続く。こっちも動けないが、向こうも動けないのだ。一回ぶっ放してしまえば次の装填の隙が生まれる。それを嫌ってのことだろう。

 これは、どうするのが正解なんだ。

 なんとなくだがこのままでいるのは良くない気がする。一方向からの射撃なら防げると思うが、それが三方向からとなると分からない。一人にでも撃たせるように誘導した方が良いのか。でもどうやって?

階段を上りづめで乳酸の溜まった足がよろける。それを見た男たちの一人は自分に動きがあったと見て咎めるように声を張り上げた。

「おい。そのまま動くなよ。そこで釘付けになっていればいいんだ」

「余計なことは言わなくていい」

 自分から見て左の男に対し、最初に言葉を発した中央の男ががそう低く言った。左の迷彩柄は異を唱えることなく閉口した。この中央の迷彩柄がこの中だとリーダー格と見ていいだろう。そして、もう一人は……目線を横に流す。右の迷彩柄の男はさっきから黙ったままである。表情は固くて唇も乾いている。この中では一番緊張しているように見受けられる。

 ただ、今のやり取りでこのままでいるのは不利なんだというのに気付かされる。それもそうだ。ここは相手のホームでこっちはアウェー。

 今は前方に三人いるだけだが、背後から忍び寄られたらまずい。しかも、そいつがまた飛び道具を持っていたらかなり良くない状況になる。

 それに、だ。連中は自分に仲間がいることを知っている。変装をしていたとしてもそれがいつ見破られてもおかしくない。二階堂自身も多少は護身術なりまじないなりで身を守れるのかもしれないが、多勢に無勢となると長い時間はやはり厳しいだろう。

 だから、やっぱりこっちから攻めていかないとならない。そうだ。何を恐れているんだ。こっちには『自動人形』がいる。恐れるのは向こうの方がふさわしい。武装していようが人間なんて崩すのはそんなに難しいことじゃない。

 短く息を吐き出す。よし、行こう。ホラーショーの始まりだ。

 にやりと不敵に笑って見せる。目を泳がせて過敏に反応したのは左の男だ。真ん中の迷彩はポーカーフェイスを保っていて、右の男は変わらず身体を強張られたままだ。

 そして、胸の中で念じてやって、僕は『自動人形』の姿を消してみせた。

 動揺を見せたのは左右の迷彩服だった。それを見るや否や中央の男が他の二人を戒める。

「うろたえるな!」

 誰か一人くらいは釣られて発砲してくるかとも思ったが、そうはならなかった。そうはならなかったのだ。だったら――僕の勝ちだ。

 ぬぅっと『自動人形』が中央の男の背後に姿を現す。そして、後頭部を掴んでそのまま男の身体を折りたたむかのように顔面を床に叩きつけた。

「ぶふっ」

 ろくな悲鳴も上げることもできずに潰された顔は床に血だまりを作る。

「うわあああああああ」

 その凄惨な光景を目の当たりにして左の迷彩服の男は銃口を『自動人形』に向けて引き金を引いた。放射された弾丸が『自動人形』に当たるも何の損傷にもならない。その男の行動はただのパニックでしかなく何の意味ももたらさなかった。

 遅れて右の男が自分に向かってショットガンを放つが、その間に『自動人形』が立ち塞がってその弾丸は僕には届かない。

 統率を失ってただの個々になってしまえばもう脆いものだった。それぞれが闇雲に攻撃してきてもそれを防ぐのは容易い。後は『自動人形』が各個撃破していくだけだった。まずは右の寡黙な迷彩服の銃身を掴んでへし折ってやると、そいつは情けない声を上げてその場にへたり込んだ。ちょうど蹴りやすい位置に来た顔に膝を入れてやると、折れた歯を何本か飛ばしながら後方へとのけ反り倒れた。

 左に居た男はとにかく銃口を『自動人形』に向けて乱射していた。自分の方を狙って無力化してやるという考えはすっかりなくなっていてただ恐怖の対象を排除しようと躍起になっている。狙いもブレていたし、当たったところで倒れるわけでもない。弾を撃ち尽くすと銃を放り投げて錯乱しながらその場から逃げ出そうとした。しかし、そんな無防備な背中を見逃すはずもなく『自動人形』は折ってやったショットガンを投げつけてすっ転ばせる。

 かしゃん、かしゃんと音を立てて『自動人形』は男に近付く。

「やめろっ、やめてくれええっ」

 へっぴり腰で後ずさりながら懇願するも無駄だった。とにかく無意味なことばかりする男だ。『自動人形』はその胸倉を鷲掴みにして身体ごと片手で持ち上げる。そして、その高さから急転直下とばかりに叩きつける。すごい音がした。どこかしらの骨が何本かいかれたのだろう。

 失神しているこいつらも信者たちの中では兵隊の立ち位置なのだろうが、今までは武器を持ったうえで自分たちより弱い存在を狩っていただけだ。だから、それよりも強大な存在にこの三人はやられてしまったのだ。

 それにこっちにも危ない目はあった。『自動人形』を霊体化させたその瞬間に三人がかりで撃ってこられればそれは避けようがなかった。だから、向こうの三人が勝つにはそうするしかなかったのだが、膠着という有利な状況を即座に捨てるという判断もまた難しいはずだ。今回はそっちに賭けてそれが当たった。自分にしては珍しく悪くない運だった。

 なんてすべてが読み通りになったみたいに振り返ってみても、銃口を突き付けられるというのは結構なストレスであった。その負担から解放されてすっかり安堵しきっていた。

 チーン、とそれから程なくして音が鳴る。

 気が緩んでいたのもあって何の音かすぐには分からなかったが、ふと目をやるとエレベーターが到着していた。扉が開いて誰かが出てきている。作業着を着たグリーン創世会の信者だ。すぐに自分に喝を入れて『自動人形』をその人物に差し向けようとするが、

「ちょっ、ちょっと待て。私よ、私!」

 彼女の焦った声を聞いてぎりぎりのところで押し留まれた。

「なんだー。二階堂かぁ」

 ジェットコースターみたいに情緒が上下に波打っておかしくなりそうだ。

「無事だったんだな」

「今この瞬間が一番危なかったわね。すごい殺気を感じたわ」

「こっちも気が立っててさ」

 エレベーターから降りた二階堂はこのフロアの惨状をひとしきり眺めた。

「へぇ。随分とやったじゃない」

「必死になんとかね」

「でもこれ君の残虐性が反映されてるのよ? あぁ、こわいこわい」

 半分冗談っぽく、でも半分は真に迫って二階堂は話す。だけど、これに関しては反論もしたくなる。今まで生きてきて自分はそこまで暴力的な人間ではないという自負もあった。

「いやっ、そのなんだ、暴力シーンを見て、こっちも……本能というか野生が揺さぶられているというか」 

「ふぅん。卵が先か、鶏が先かみたいな話ね」

「そんなことより! エレベーターで上って来たってことは上手くやったんだな」

「えぇ。とりあえず制御室に行って遠隔操作のコントロールパネルは破壊してきたわ。だからしばらく通常通りに動くと思う」

「それじゃあ……!」

 自分の心が弾む。この三人を殴り倒したときよりも純粋な喜びがあった。もう階段を上らなくていいってことだ。

「そう。もう後はこのエレベーターで上まで行ける。教祖がいると思われる最上階までノンストップで」

「そうだ。まだ向こうの『自動人形』も出てきていない」

「そうね。向こうにしてみても制御が難しいでしょうし、何よりなるべく人の目にも晒したくないっていうのもあるんでしょうね」

 二階堂とそんなやり取りをしながらエレベーターの箱の中に乗り込んでその一番上の階のボタンを押した。ゆっくりと上へと動いているのが分かる。今度は邪魔されない。いよいよだと思うとまた興奮なのか緊張なのか、またはそれらが入り混じった感情になる。大きく深呼吸をして逸る気持ちを落ち着けようと努める。

 そして、エレベーターは最上階で止まった。

 おもむろに扉が開くと『自動人形』を盾にして慎重に外に出る。何事もなく最上階に足を踏み入れることができた。

 右に左にちょっと見やっただけでもこれまでで一番広い空間だと分かった。まるで美術館のような絢爛さで、かつ落ち着きのある雰囲気でもあった。こんな贅を尽くした場所に住めるとは教祖とやらは一体どれほどの金を信者から搾り取っているのか。真っ当な金持ちには悪いが、明らかに悪事でも働かなければこんなふうにはならないだろう。

 大理石の床をちょっとずつ歩き進めていると隣で二階堂が小声で何かを言っていたが、フロアの奥にいる人の気配に気が付いてそっちに意識が向いた。

 大仰な王様が座るような椅子に太った男が座している。エメラルドグリーンの法衣を纏っていて、その醜い体を飾るように黄金のネックレスやブレスレットを付けている。そして、その周囲には四人の初老の男女が並び立っていた。その四人はきっちりとしたスーツを着用しており、皆一様に鮮やかな緑のポケットチーフをしている。おそらくこいつらがグリーン創世会の教祖と幹部であろう。ふさわしいかは別にしてこの場にいてもおかしくはない人物たちだ。

 だが、この連中と比べれば明らかに異質な存在が一名そこにいた。

 白い肌に碧色の瞳の外国人。何より目を引くのはその巨体であった。身長は二メートルはありそうでその身体というフレームには筋肉がこれでもかと詰め込まれている。差し詰めお偉方の用心棒といったところか。

「突然乗り込んでこられてもいい迷惑なのだよ」

 教祖の男がにわかに口を開いた。妙に甲高い声音が耳に触る。

「これは暴行事件だよ。暴行事件。本当なら警察を呼びたいところだ」

「警察を呼ばれたら困るのはそっちなんだろう」

 そう返答してやると教祖は大きく溜息を吐いた。

「何を言っているのか。君たちは一体何が目的なんだ」

「何って。カルト宗教の壊滅とか?」

「本当に。本当に困るよ。変な思い違いでこんなことをしでかすなんて。許されることではない。許されることではない、が、その『人形』をわざわざここまで運んできてくれたことには感謝しよう」

「本性を現したか」

 その発言からもグリーン創世会が『自動人形』に関与しているのがはっきりと分かった。そして、この業突く張りは僕の『自動人形』さえも欲しがっている。

「それでどうするんだ? 僕を殺すのか?」

「あぁ、是非そうさせてもらいたいね」

 口ではそうは言っているが、すぐに自分を殺るなんてのはできないはずだ。殺ってしまえばその瞬間自分の魂が全部『自動人形』の方に行って制御不能に陥る。この場にいる人間たちも確実に巻き添えを食うことになる。

「ただ、私たちが手を下さずとも君は死ぬことになる。だからその様を檻にでも入れて眺めるとするよ。なぁ? それが良かろう」

 取り巻きの幹部たちに教祖がそう投げかけると彼らは気味の悪い笑い声を立てた。わざとらしく媚びるように同意と称賛の言葉を述べていたが、薄っぺらくて自分の耳には入ってこない。

「僕に勝てる気か? この『自動人形』に」

 本当のところ何パーセントかは驕りの気持ちの自覚もあったが、この発言は僕からの挑発でもあった。この場にはまだ奴らの『自動人形』も出てきていない。それを引っ張り出して相討ちに持っていかなければならない。

「アレキサンダー」

 そう教祖から呼ばれると用心棒らしき大男が無言のまま何歩か前へと出てくる。

「そいつに戦わせる気かよ」

「あぁ。アレキサンダーはかつて外国でレスラーをやっていてね。まぁ、その、事故! 事故を起こしてしまって捕まりかけていたところを私が引き取ったのだ。それからというもの我々の会で働いてもらっている」

 粘ついた笑みを浮かべながら教祖はそんなことを宣う。事故だなんだと言っているが、そのアレキサンダーなる男の目は明らかに堅気じゃない。人殺しだって厭わない目だ。

 それに何を余裕ぶっているのか。まぁ、いいさ。こいつらだって他の奴らと同じようにぶちのめしてしまえばいい。そうやって『自動人形』に念を飛ばしていると僕からのそんな殺気に勘付いたのか、アレキサンダーはにわかに低い姿勢で突進を仕掛けてくる。

 思いのほか機敏な動きだったので吃驚したが、『自動人形』であれば問題ない。アレキサンダーを迎え撃つように『人形』も素早く床を蹴って飛び出し、双方の身体が激しくぶつかり合った。

そして、お互いが組み合った格好になると、その数秒後には『自動人形』が力負けしてねじ伏せられていた。

「えっ?」

 信じられない光景だった。あの大男の太い腕に力づくで『自動人形』が組み敷かれている。この男はどんな化け物なのか。自分の想像とは全く逆の出来事にただ呆然としていた。

 空っぽになっていた僕の頭に二階堂の小声が入って来る。

「ここ……やっぱり結界が張ってあるわ」

「結……界?」

「えぇ、あの幻道院に類するものね……」

 幻道院だって? 今彼女はそれに類すると言ったのか? だとすると、あのアレキサンダーなる大男というよりも『自動人形』の方がそれ以上に弱くなっているってことだ。僕と『人形』の経路が細くされているっていうやつだ。

「まさか、このレベルのまじないが使えるなんて。でも確かに『自動人形』を運用しているならその力を抑える方法も持っていておかしくはない、か」

 二階堂はぶつぶつとそう独り言を呟いていた。彼女は彼女でこの状況は予想外なのだろう。顔は青ざめていて余裕はない。

 つまり、だ。

 僕らは敵陣の真っ只中で『自動人形』という唯一の切り札を封じ込められてしまったんだ。それでも、あの巨漢は『自動人形』の相手をしているもんだから、そいつにくびり殺されるってのはない。

 でも、その他の奴らはどうだろう。教祖はふんぞり返って座っているだけかもしれないが、幹部自ら動いて僕らを確保しに来たとしたら。そう思っていた矢先に悪い予感というのは当たるもので、幹部連中は各々懐からエモノを取り出していた。拳銃だ。今度は本物かもしれない。『自動人形』がなければ対人において銃より強いものはないだろう。ペンなんてのはただ書きものだ。今からエレベーターに戻っても待っている間に蜂の巣にされる。

 自分はすぐに殺されないかもしれないが、二階堂はどうだろうか。あっさりとその引き金で彼女は弾かれてしまうかもしれない。

ならば、いっそ。

自分が間に入って死んでやろうか。そうすればここにいる奴らは全員巻き添えにできる。そう思って彼女の前に立つ。

「今なら命だけは助けてやってもいいぞ」

 無機質で高圧的な声がする。幹部の一人がそう言っていたが、そんなのは絶対に嘘だ。だから、沈黙で応じてやるしかない。

 投降しても僕は『自動人形』に命が吸いつくされるまで監禁されるだろうし、二階堂は殺されるだろう。今は僕が彼女の前に立っているから発砲はしてこないが、ただこうやって足止めするだけで向こうにとっては充分だ。背後のエレベーターが開いて増援が到着すればもう本当に詰みだ。背中を意識すると今にも誰かが来るのではないかと怖気が忍び寄って来る。

 これで終わってしまうんだろうか。

 多少は良い思いもしたが、人生と比べればとてもじゃないが釣り合いは取れない。割に合わない。

 二階堂は険しい顔のまま唇を固く閉じている。何か打開策を考えているのか。それとも諦めてしまっているのか。分からないが、この場で彼女に話しかけることもできない。

ただ、息苦しい時間が流れる。いや、息苦しいと思っているのはこちらだけだ。それが苦々しい。

 どうにか一泡だけでも吹かせてやりたい。そうだよ。向こうが撃ってこないならこっちから動けばいい。幻道院のときとはそこが違う。あぁ、今思い返してもあの坊主は厄介だった。腹が立ってくるが、その怒りもここに注ぎ込めばいい。

 いつも土壇場にならないと覚悟が決まらない。いつもそうだ。夏休みの宿題だって最後まで引き延ばしてぎりぎりにやっていた。……いや、それは違うか。追い詰められないと覚悟が決まらないなんてのは大体皆そうだ。だから、多くの人は追い詰められるまではいかないように生きている。

 だけど、自分はそういうふうには生きられない。二階堂も事情は異なるだろうけど僕と同じだ。少なくとも今この瞬間は普通じゃいられない。だってそうだろう。カルト教団に乗り込んでその親玉がいる前まで来ている。ここだって笑ってしまうくらいにいかにもな場所だ。まともに税金払ってちゃこんな豪勢なものにはならない。私的な理由の他にも社会的にもこいつらはやっぱりダメなんだ。

 理由をいくつか引っ付けて心を武装する。大きく深呼吸して目を閉じる。

 後は勇気を出して行けるかどうか。

 そして、僕自身が耐えきれるかどうか。

 やったことはないけどバンジージャンプで飛び降りる前なんかはこんな気持ちなんだろうか。ちくしょう、なんだか浮足立ってきている気がしてきた。こんなことをしてどうにかなるのか? だけどもうやるっきゃない。僕は被害者でとっても可哀想だけど、二階堂だって可哀想だ。死なせたくねー。

 よぉし。行くぞっ、行くぞっ、行くぞっ。

 覚悟は決まった。僕は自分の頭を大きく振り上げて、そいつをそのまま思いっきり大理石の床に叩きつけた。

 自分が一番近くで聞こえているからかもしれないが、吃驚するくらいすごい音がした。二階堂も突拍子もない僕の行動に驚いて声を上げた、気がする。

 目の前がちかちかする。頭が割れて、耳の奥がぐわんぐわんとしている。だから、周囲の音もどこか遠くに聞こえる。

 鮮やかに裂けたその傷から真っ赤な血がドバっと流れ出ていた。ちょっと大袈裟なくらいに思った。

 頭部へのダメージはやっぱり深刻らしくて、鈍痛が警鐘みたいに頭の中で鳴り響いている。

 みるみるうちに気分も悪くなってきて、楽になろうと身体が意識を遮断しにかかってくるが、そうはさせない。それじゃ意味がない。奥歯を噛みしめて意識を繋ぎ止める。

 どうだ。半殺しとまではいかないが、何割かは死んでいるような状態じゃないか? 危険な状態じゃないか?

 だから『自動人形』よ。

魂だが命だかなんだか知らないが、僕のエネルギーを持っていけ。経路が細くされていようが、これくらい突っ込んでやれば届くだろう。

 だから『自動人形』よ。

そこにいる奴らをぶちのめしてしまえ――。

「カカカッ、カカカカカカカカカッ」

 遠くなった耳でもはっきりと聞こえた。高笑いみたいな『自動人形』の声が不気味に鳴った。

 次の瞬間にはアレキサンダーの巨体が浮き上がっていた。息を吹き返した『自動人形』がぶち上げたんだろう。人の体が高い天井に届きそうなくらいにまで上がって、その光景はなんだか馬鹿みたいだった。

 重力には逆らえず高所から落下するとその衝撃でアレキサンダーは起き上がれずにいた。そこに追い討ちとばかりに『自動人形』は頭部を踏み抜いていく。だらんと手足からは力が抜けてアレキサンダーは倒れ込んだまま動かなくなった。

 足元を一瞥すると次の標的を見定めるように『自動人形』は教祖と幹部の方を向いた。

「ひっ、ひぃいいいいいいいっ」

 ほんの僅かな間の出来事だったので彼らにできることは少ない。教祖は椅子に座ったまま立ち上がる間もなくただ引き攣った悲鳴を上げていた。幹部たちは教祖と同じように喚き叫ぶ者、背中を晒して逃げ出そうとする者、無駄だと分かっていても発砲する者、とその行動は様々だったが、等しく『自動人形』に蹂躙されていった。

 『人形』が殴打すると身体が勢いよく床に叩きつけられていく。打ち所が悪ければ死んでもおかしくないほどだった。

 多分手が届きやすいだとかそんな理由で教祖よりも先に幹部連中が片づけられる。目の前でそんな暴行が繰り広げられるものだから教祖は憐れにも失禁していた。

 首が回って『自動人形』が視線を向けてやるとついに自分の番が来たかと悟って教祖は恐怖のあまり泡を吹いて失神した。何発か殴ってやりたいのは山々だったが、下手に殴り殺してしまうのもまずい。アレの身柄を確保するのも大事なことだ。後は二階堂に任せればいいだろう。

 良かった。なんとかなった。なんとかなったけど、大事な何かを忘れている気がする。頭がぐわんぐわんして考えが纏まらない。もうここまで出かけてきているのに。あぁ……そうだ。『自動人形』を壊すんだった。だけど、結局向こうは最後まで『自動人形』を出してこなかった。

 リスクを恐れたのだろうか。ただ、切羽詰まれば使って来るはずだ。こっちに『自動人形』がいると分かれば準備をしてしかるべきだ。生贄だってこの建物ならいくらでも用意できるはずだ。くそっ、頭も痛いし、腹立たしい。この場を切り抜けられたから良かったと普段ならそんなに思わないことも思っている。ヒロイックに気持ちよくなっている自分が気持ち悪い。気分も悪い。

 ふと、前を見ると『自動人形』が勝手に歩いている。

 どこに行くんだ? 無性に気になった。あぁ、出血が邪魔で見えにくい。腕で血を拭って、重くなった身体を引きずりながらその行方を追う。

 部屋の奥へと進んで行くとドアがあった。別の部屋に繋がっているんだろう。そのドアを『自動人形』は蹴破ったりせずに丁寧にノブを回して開く。その後に続いていくと中は小部屋だった。窓はなくてうっすらとした照明で一定の明るさが保たれている。壁には絵画がかかっていて洒落たアンティークなんかも置いてあった。この階を美術館だとたとえたが、この場所はまさに特別な展示の一室みたいだった。

 そして、何よりこの部屋で一番の存在感を放っているのは中央の椅子に座っている人形だった。これに比べると周りの美術品は霞んでしまう。

 人形は等身大で女性の姿をしていた。真っ黒なドレスを着ていて、貌にも黒のベネチアンマスクがかかっていた。貌の大部分が隠れるデザインのベネチアンマスクだったが、それでも美しい造形をしているのが分かった。

 強い既視感に刺激されてまた頭が痛む。こんなものは見ただけで分かる。直感した。これは『自動人形』だ。

 ペストマスクの方の『自動人形』は、ベネチアンマスクの『自動人形』に近付いていく。そして、その前に立つとゆっくりと膝を折り曲げて跪いた。その姿はかなり意外で痛みも忘れて見入っていた。どこか神秘的にさえ思える。

「オオ、オオ」

 唸るような声を上げながら下から腕を伸ばして彼女の頬に手を添える。震える指を這わせながら、恐る恐るベネチアンマスクを外しにかかっていた。

 彼の手で露わになっても目は閉じたままでその端整な貌は微動だにしない。

「オオオッ、オオオオオッ」

 外したベネチアンマスクを彼女の膝の上に置いてその手はまた頬を愛撫した。だが、やはり何の反応もない。

「オオオオオオン、オオオ、オオオオオオオオン」

 それは慟哭だった。その声色に哀しみが込められているのが何故か分かってしまう。これは経路で繋がっているからだろうか。自分のことのように胸がざわついた。

 彼女はもう動かないのだ。グリーン創世会も『自動人形』を使わなかったのではなくて使えなかったのだ。どうやって壊れてしまったのかその経緯は分からない。なんだ最初から僕は絶望の中にいたのか。

そして、『自動人形』は僕以上にこのことに嘆いている。

もう動くことはないと気付いてしまったから、ただの人形になってしまったから、そんな彼女を憐れんで彼は泣いているんだ。

 哀しみをぶちまける様を見つめていると、やがて彼はまたベネチアンマスクをつけ直して元に戻した。それはちょうど死者の瞼を閉じてやる仕草にも似ている。

 彼はもう啼くことはなかった。頭を垂れ下げて、彼女の下で跪いたまま動かない。その姿を見ていると奇妙だが、何とも言えない喪失感があった。もう彼から動く気配が感じられなくなる。

 彼もまたその機能を停止してただの人形になってしまったのか?

 ズキン、と頭に痛みが走る。

 そうだった。僕の頭はかち割れていたんだった。動かなくなってしまった『自動人形』を見ていたら急に途方もなく眠くなってきた。意識が遠くなって落ちていきそうになる感覚。瞼がすごく重い……。

 あぁ、目の前が真っ白になっていく。もしかしたらこのまま逝ってしまうかもなんて恐怖と悦楽を同居させながら僕はだんだん霞んでいく。もうそれには抗いようがない。遠くで女の叫び声が聞こえた気がした。

だけど、僕はそこで白い闇の中に飲み込まれていった――。


 ◇


 あれから二週間ぐらいが経っていた。

 グリーン創世会の本部で気を失ってから次に目を覚ますと僕は病院のベッドの上にいた。

 頭を強く打ったというのもあって念のため入院させられていたが、いくつか検査とやらをして特に異常も見つからず、思ったよりもすぐに帰された。

 そして、しばらくまたうだつの上がらない日々を過ごしてみちゃったりして今に至る。

 今日なんかは特に暑くって冷房の効いた部屋じゃないと耐えられない。ここまで来る間に身体は溶けそうになるくらいでソファに座って汗が引くのと彼女が来るのを待っていた。

「はい。どうぞ」

「お、麦茶か。良いね」

 二階堂が持ってきてくれたコップに口をつける。喉が渇いていたから身体に染み渡るようだ。

「それで、今日は何?」

「何って……そんな。つれないじゃないか」

「病院には連れてってあげたじゃない」

「だったら顔を出してくれても良かっただろ」

 そう。僕は結局のところ事の顛末がどうなったのかを知らずにいた。病院に二階堂が来ることはなかった。自分を運び込んだのも匿名だと説明されたし、頭部の損傷も事故扱いになっていた。狐か狸か何かに化かされたかのような気分にもなったが、あの強烈な記憶は忘れたくても忘れられるものじゃない。

 だから、僕は名刺を頼りに二階堂の事務所まで足を運んできたのだ。

「それに説明する義務はあると思うわけ」

「いいじゃない。解決したんだから。これ以上関わる必要はないわよ」

「だから、それもこっちはちゃんと分かってないんだって。解決ってことは、その、なんだ、『自動人形』との繋がりも」

「えぇ。切れてるわよ。上人様も確認済み」

 それを聞いてまずは大きく安堵した。

「そんなの私から言わなくても分かるでしょうに」

 確かにあれから『自動人形』が僕の周りに現れることもなく気配を感じることもなくなった。でも不安になるのはそんなにおかしなことではないだろう。

「どうなったのかは気になるよ」

「あら、愛着があったの?」

「そりゃあ、まるでないって言ったら嘘にはなるさ」

「良い思いもさせてもらったものね」

 彼女は意地悪っぽく言う。ATMから金を盗んだ件を言っているのだろう。それを掘り返されるとちょっと弱いが、お咎めを受けてないということは結局うやむやになったと見ていいだろう。話を聞かせろと押しかけはしたが、この件については自分から触れるのはやめておこう。いつの間にかなくなっていたあの金も諦めよう。

「……まぁ、それで『自動人形』はどうなったんだ?」

「『自動人形』は回収して今は幻道院で封印されてる。そこで確認もしたけど完全に停止していたわ。それで君との繋がりも切れたんでしょうね」

「そうか。やっぱり止まってたんだな」

「えぇ。あの奥の部屋でグリーン創世会の『自動人形』と一緒に」

「そうか……」

 元々は『自動人形』同士で戦わせて相討ちにさせるというのを想定していた。ただ、あの『自動人形』はすでに壊れて動かなくなっていたから予定はご破算。ほぼ諦めていたのだが、勝手に止まってくれたので結果的には帳尻が合ってしまう形になった。

「あれ、どうしてだと思う?」

 そう口には出してみたものの、一番近くで見ていた自分の中ではなんとなく理由が固まっていた。壊れてしまった『自動人形』を見てそれがショックで止まってしまったのだとそう思っている。つまり、後追い自殺だ。彼女の恋人だったのか、それとも信奉者だったのか。そこまで考えて人形同士に関係性があると捉えていることに気付く。おかしいな、なんでそんなふうに思ったんだろうか。自分でもよく分からなくなって自嘲気味に口元を釣り上げた。

「さぁ? 分からないわよ。私はそれどころじゃなかったもの」

「それどころじゃなかった?」

 そういえば自分もそうだが二階堂はどうやって本部から脱出したのだろうか。確かに教祖や幹部は意識を失っていたからそれを捕えて人質にするみたいなことはできたかもしれない。ただ、それだけで大丈夫だったのだろうか。いくら信者といっても相手が二階堂だけだったら人質を超えて逆にやられてしまうことだって考えられる。

「そうよ。だって公安の人たちに連絡するかどうかずっと迷ってたんだから」

「え?」

 その疑問は彼女の言葉が的確に処理していった。僕はというと間の抜けた反応になってしまっていた。

「あの……もうちょっと詳しく」

「あのとき本部の周辺に待機してもらっていて私の合図で突入する手筈になってたのよ。本当は教祖を確保したり『自動人形』を破壊したタイミングにしようと思ってたんだけど結界があったりしてそうもいかなくなってたでしょ。だから、一か八かで連絡をするかしないかでずっと迷ってて」

「おいおい、保険を打ってたってことか?」

「保険というか。事後処理をさせてやろうとしてたのよ」

 そう聞くと二階堂らしくしたたかな感じはする。教祖自身や『自動人形』を押さえてしまえば独断専行もトントンになるといった判断だ。実際この二週間の間でグリーン創世会に関する報道はなかった。公安による介入があったとなればもう壊滅状態だろうが、それも全て秘密裡に片づけられたと思っておこう。

「かなりまずい状況だったのよ。でもびっくりしたわ。君が急に頭を床に打ちつけるんだから」

「あぁ……自分もあのときは必死だったからな」

「だから、その、助かったわ。本当に。……ありがとう」

「あれ、あれあれあれ?」

 二階堂が急に殊勝でしおらしい態度になるものだからこっちだってつい絡んでしまう。

「そういうのって開口一番に言ってくれたりするものじゃないの」

「う……。それはごめんなさい。私もタイミングを逃してしまったというか」

 両の指をいじって目も泳いでいる。タイミングを窺っていたというのは本当らしい。

ちゃんと言ってくれたのであれば自分としてもまんざらではない。あまりあれこれ突っかかってやるのはやめておこう。

「それにもう関わり合いにならない方が良いかと思って」

 そう言われてみれば自分がこの事務所に訪れたときにも彼女は目を丸くさせていた気がする。あれはそういうことだったのか。

「そんな水臭いなぁ」

「だってそうでしょう。散々な目に遭ったのだから」

「確かに散々だった。一日二日で一生分の霊障にも遭った。それに『自動人形』にもかなり寿命を取られてしまった。だから、もうちまちま働いてても馬鹿らしい。どうせ老い先短いんだ。しっかり太く短く生きてやろうと思ってね」

「いや、そこはちゃんと働きなさいよ」

 元から定職にも就いていないし、今回の一件でよりこつこつ積み上げる気は失せてしまった。

だから、病室で寝転びながら、あるいは退院してぶらぶらしながら、色々と考えてついに名案を思いついたのだ。

 意気揚々と僕は一枚の名刺を取り出して二階堂へと手渡す。こっちこそこれを出すタイミングを窺っていた。

「えぇ、なにこれ。オカルト探偵事務所……?」

「そう。今回の件で自分も霊障の大変さに気付かされてさ。それに困ってる人もたくさんいると思うわけ。でもそんなオカルトを真面目に相談するのもきっと難しいだろうから自分がその窓口になって解決してやろうと」

「君にそんなことできるの? 『自動人形』ももうないのに」

「ふふふ、二階堂。その名刺の住所をよく見てくれたまえ」

 彼女は目を細めて名刺を注視した。そして、すぐにその名刺に書かれた違和感に気付いて声を上げた。

「んん? あっ! ちょっとこの住所、ここの事務所と同じじゃない!」

「場所を使わせてもらおうと思ってさ」

「私の事務所で、勝手に怪しげな商売を始めるな!」

「まぁまぁまぁ、僕はただクライアントに二階堂を紹介するだけだから。そりゃ、ちょっとは仲介紹介料抜かせてもらうけど」

「退院してからしばらく経つなとは思ってたけどこんなことを画策してたなんて」

 二階堂は深く溜息を吐いてついでに頭も抱えていた。

 僕が見つけてきたオカルト話を彼女に丸投げしてやるというのがこの商売のミソだ。それが神秘案件となれば国立神秘研究所の職員としては受けざるを得ないはずだ。結局仕事というのはコネ。これに尽きる。今回の一件で失った分はこの中抜きで取り戻してやらないと。

「というわけで合鍵とかもらえると助かるんだけど」

「あのね。やるわけないでしょう」

「えぇー」

「ただ! もし、君が神秘案件を見つけてきたのなら私に連絡はしてきてもいいわよ」

 もう少し抵抗があるかとも思っていたが、二階堂は思いのほか受け入れてくれた。想定外でちょっと面食らう。

「え、ほんとに良いのか」

「自分から言い出しておいてなによ。私の手柄が増える分には良いわ」

「あぁ、そういうことね」

「それに形はどうあれ私への協力を続けてくれるんでしょう」

 彼女は妖しく笑みを作って見せる。そうだった。この二階堂という女だって只者じゃないのだ。僕が彼女を利用しようとするのと同じように、彼女もまた僕を利用しようとしている。もしかしたらあまり踏み入れてはいけない深淵に足を突っ込んでしまったのかもしれない。

「も、勿論さ」

 だけど、僕はここで引き返したりはしない。商売の形を取ってはみたが、それよりも僕がこの世界にいたいと思ってしまった。それが数日間考えた末の答えでもあった。そりゃあ、恐ろしい目には遭った。寿命も失った。それでも、賭け事なんかよりもよっぽどスリリングでその普通じゃなさに知らず知らずのうちに惹かれている。

 その数奇な『自動人形』を見つけてしまったときからおかしくなってしまったんだ。

 すでにどこか壊れてしまっているかもしれないけれど、僕はまだもう少し止まれそうにない。

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その数奇な自動人形 爛耀 @runyo_

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