教えと旅するもの

大出春江

教えと旅するもの

 電車に揺られていた。


 窓の向こうには真夏の熱気が充満しているにもかかわらず、冷房の利いた車内はそんな事実を覆い隠すようにして平然と乗客を迎え入れる。

 深まる夏の色はかすかに残った海の香りと混ざり合って中毒的なノスタルジックを表現していた。


 なぜ私がこんな状態にあるのかというと話は今朝のことまで遡る。


『ここ二十年で一番の猛暑』


 テレビも新聞もそんな見出しで溢れかえっていた。

 正直、夏は苦手だ。なにも暑いことが嫌いなのではない。虫が苦手というわけでもない。まさか怪談話が——というわけでもない。


 私にとって、夏に沸くものと言えばただ一つ。阿呆共である。騒ぎ立て、周りに迷惑を振り回す輩が嫌いだ。夏に悪気はないだろうが見逃すこともできないので、遺憾ながら私の夏と言えば自宅で静かにというのが通例である。


 そこに猛暑の記事。


 ここまで囃し立てられると流石の私も気になってしまう。冷房の利いた楽園を捨ててでも、外に出るだけの意欲が沸き上がる。

 しかし、理由もなく外に出れる人間ではないことは自分自身、理解していた。夏といえば何だろうか。やはり海だろうか。だが海には人も多ければ阿呆も湧きやすい。


 あきらめかけたその時、ふと思い出した。

 二年前に訪れた、人の少ない苫小牧の海。




 そんな帰り道。


 猛暑は、海はどうだったかというと、何もどうということはなかった。


 熱風も日の照り方も想定通りだった。ただ、ここ数日降り続いた雨が湿度を上げて北海道らしい乾いた熱風ということはなく、もはや内地と変わらない気持ちの悪さがあった。

 予想外だったのは海の方。二年前に訪れた時はゴウゴウと音がして、表現しがたい圧力のようなものを感じたが、今回はそんなことはなかった。


 ただの海。それ以上も以下もなく、いたって素面な海が広がっていた。




 そんな帰り道。


 冷房の利いた鉄の箱に揺られて帰路を往く。

 外気との温度差は肉体を内側から蝕み、それに気が付いたときには意識はふわりと浮かんだ気がして、沼に沈み込むように眠りについた。




 目が覚める。


 寝過ごしたかと一瞬焦ったが、車内の電工掲示板には見覚えのある駅名が並んでいる。目的地まではまだ二十分はかかるだろうか。


 何とはなしに車内を見渡すと一人の老紳士に目が留まった。いや、正確には目が留まったというよりも『目を留めざるを得なかった』と表現する方が正しいだろう。

 どこかノスタルジックな雰囲気の空間に、見たところ一張羅だろうか、深い黒のスーツを着込んでいる。

 そしてなにより、車内は私とその紳士の二人しかいなかったのだから。


 紳士は大切そうに両手で茶封筒を持って窓を眺めている。


 なぜだろうか。どこか儚げともいえるその姿に私はどうにも興味が湧いてしまった。


「あの、すみません」


 気が付けば紳士の座る席までいって声をかけていた。

 紳士はこちらに気が付くと、ほんの一瞬だけ目を見開く。

 一方の私というと、不甲斐なく次の言葉が出てこない。


 そうしていると、紳士は微笑んだ。


「どうぞお座りください」


 私は苦笑いを返して向かいの席に座った。


「君は……何かの帰りかい?」


 いい声をしている。しゃがれている訳ではないが、良いコーヒーの渋みのような声。どんな経験を、人生を歩めばこれほどまでの深みのある声が出るようになるのだろうか。


 そして、もう一つ。


 目の前の紳士は男なのか女なのか、さっぱり分からない。

 中性的な顔立ち、スーツを着ているが性別までは分からない。


「苫小牧からの帰りなんです」

「あぁ、苫小牧か——。苫小牧と言えば……」


 紳士は軽く目を泳がせる。


「海、だろうか」


 私は思わず目を丸くした。


「どうやら、当たりのようだね」

「よくわかりましたね。苫小牧に『海』を見に行く、だなんて」

「ふふ—っ。まぁ年の功という言葉もあるからね。きっとそれだろう」


 そう言いながら、手に持った茶封筒を車窓の淵に置いた。


「——さて」


 紳士は静かに深呼吸をして私の瞳をじっと見つめる。


「君は、私に何か用でもあるようだが」

「え、ええ。そうなんですが——」


 やはり質問が見当たらない。この紳士のどこに気になる点があったのだろうか。


 言い淀んでいると、再び紳士が口を開く。


「——なぜだろうか。私と君は、どこか似ている気がするのだよ。……君は、私の何かに気になってここに来た……のだろう。そして、その詳細について、君自身は気が付いていない。ではどうすればいいか。——言葉にしてみるんだ、一つずつ」

「言葉に?」


 紳士はまたも微笑む。


「これは面接なんかじゃないんだ。ほんの些細なことでいい。具体的でなくていい。一つ、言葉にしてしまうんだ」




 一呼吸ついて、腕を組む。


「——良い服を、着てますね。一張羅ですか?」

「その通り。大切な時はいつもこれでね」


 疑問が見つかった。


「なるほど。でも、暑くはないですか?」

「暑くないといえば噓になるな。だが、北海道の夏は湿度も低いし、夜になれば涼しくもなる。日中、今だけの辛抱だな」

「——たしかに、それもそうですね」


 対話をするというのはやはり面白い。

 相手のことを知ることも、自身の思いを伝えることも。なにより、対話の中で自身の頭が活性化するのを感じる。目の前の紳士が言ったように、まずは言葉にしてみる。実際に口から発さずとも、一つ言葉にする。そうすれば、連鎖するように頭の中の靄が次々に晴れていく。


 澄み切った頭で再び疑問を見つめた時、底に残る異物感を実感することができる。


「一つ言葉にしてみるというのはいい考え方ですね。——気に入りました」


 紳士は腕を組み噛みしめるようにうなずいた。


「そうだろうそうだろう。疑問を言葉に起こすことは面白い。思考の整理にもなる。——そして。……気づいたようだね、違和感に」

「ええ、おかげさまで。——もう一つ、質問をしてもいいですか?」

「もちろんだ」


 私は呼吸を整える。


「あなたは何処から来たんですか?」




 気が付けば西日が差していた。

 窓の外、新緑の深みが、影がより一層濃く感じられる。


「——あの時みたい」


 口をついて出た言葉を止めることはできなかった。

 いや、それでよかったのだろう。


「あなたも、覚えてますよね」


 景色を眺める私につられて紳士の視線も窓に伸びる。

 一瞬、その瞳が輝いて見えた。


「……今日はね、苫小牧から来たんだ」


 紳士は続ける。


「苫小牧……、そう苫小牧だ。今日はそうだった」

「別の日は違ったんですか?」


 私が問うと、紳士はスーツの内ポケットから紙切れを取り出しじっと眺める。


「あぁ、旭川だったり札幌だったり、彼女との思い出の地に行くらしい」

「もしかして……記憶が?」


 複雑な感情が顔に出てしまったのだろうか、紳士は即座に切り返す。


「そんな顔をしなくてもいい。いや……まぁ、そうだな。君にとっては死活問題だろうが、記憶が時折曖昧になる程度だ。重度のそれじゃない」

「な、なるほど……。それで、今日は何をしに?」


 紳士は窓際の茶封筒を手に取る。


「特に何も。——ただ、彼女との思い出の地を、この手紙を持って旅をするんだ。若いころは半年に一度ほどだったが、最近はすっかり老け込んでしまったな」

「思い出、ですか……」


 会話が途切れる。




 ほんの一瞬だったのかもしれない。しかし、なぜだかそうは思えない。途端に空気が重たく感じ、心なしか電車の揺れも大きく思える。


 気づいたときには、どうしようもない気持ちの悪さに首根っこを掴まれていた。


「これは、私の感覚だが——。こうやって君と話すのはそろそろ限界のようだ」

「そう……みたいですね」


 紳士も何となく気が付いているようだった。これ以上の対話は良くない。何かしらの力が働きかけているのは明白だった。

 挨拶をしてその場を立ち去ろうと席を立つ。




 できない。


 足がこわばっているのか身動きが取れない。

 脈拍が速くなる。


「落ち着け」


 紳士が喝を入れる


「いいか。君が動けない理由は他の誰でもない、君自身の問題だ。——落ち着いて、呼吸を整えて」


 大きく息を吸う。吸ったら少し止めてみて鼓動をよく理解する。そうしてゆっくり吐く。

 動けない理由が自身にあるのだとしたら、それは何なのだろうか。


 もう一度空気を吸い込む。頭に酸素が回る感覚がした。


 瞬間、理解した。

 ——自身がどれだけ面倒くさい人間なのかを


 席にどっしりと構えてこれでもかと作り笑いを浮かべて紳士を見る。


「聞き忘れていたんですよ。最後に一つ、いいですか」




 紳士は真剣な面持ちで静かにうなずく。


「あなたは、どうして苫小牧に行ったんですか」

「言ったろう。思い出の場所だからだ」

「カラスアゲハが、海鳴りがそうだというんですか」

「……」


「では、その封筒は?」


 車内がぐらりと揺れる。一瞬の静寂が私を襲った。


「やはり……嘘は吐けないな」


 紳士は封筒から手紙を取り出すとじっと眺めてから目を瞑り、ようやく口を開く。


「君の雰囲気を見る限り、苫小牧に行ったのは今回で二度目だろう。だからこそ、カラスアゲハや海鳴りに意識が向いているわけだ。だが……、それだけじゃない。苫小牧の町には何かがある。……私の人生を、大きく変えるだけの何かが」


 手紙を私に突きつける。


「私は覚えていないんだ。でも、きっと大切な出来事だったように思える。君なら、……私自身なら、そこに向かうべきだと……そう思う」


 紳士は指をさす。示した先は私の手元、手紙に間違いなかった。

 意を決し、それを開く。


 紙はヨレ。どこか色あせた雰囲気を感じる。


 それでも見間違えることはない。


 書かれた文字も連ねた心からの文章も、その温かみも消えることなく、彼女の、新橋桜の残した遺書であることは考えるまでもなく明らかだった。


 瞬間、意識が飛ぶ。


 電車の音が頭の中にこだまするように響いて、どこかむなしそうにして消えていく。

 ——残響よりもはるかに薄く。




 むせ返るような暑さで目が覚める。


 車内には僅かではあるが人が乗っている。

 太陽は自己を中心として疑わず、白くかすむような日光が世界を照らしていた。


『次は~札幌、札幌です』


 車内アナウンスが頭に重たく響き渡る。

 荷物をまとめて席を立つ。

 先程まで紳士と話していた席まで赴き覗いてみるも、まるでそれが当然だとでも言いたげに、紳士も、古びた茶封筒の姿もなかった。


 きっと考えるだけ無駄なのだろうとそう思った。




 今は十二月の初めなのだから。

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