薄曇り、春疾風

大出春江

薄曇り、春疾風

 三月の終わり頃。


 例年に比べて雪が少ないと言っていたのは誰だったか。湿った雪が降り続いて、雪解けの時期になっても足元の雪は解け切らず、ようやく流れ出そうかといった頃合いに氷点下を下回るのだから救いがない。何気ないロードヒーティングの偉大さを再確認する毎日である。


 薄曇りの下、薄手のコートにマフラーを纏って、向かっているのは彼女の実家である。

 いや、どうだろう。

 この場合、元彼女というべきなのだろうか。

 

 どんな顔をして両親と話せばいいのか、何を話すべきなのかわからない。こうなってしまっては、彼女の両親というのは完全な赤の他人のはずなのだが、論理と倫理の間をさまよう感覚は、この時ばかりは、どうにも気持ちが悪い。




 そうこう考えているうちに家に着いた。

 これ以上悩んでいても仕方がない。

 深呼吸をしてインターホンを押す。


 少し待つと彼女の母親の声がする。

 名乗ると「少々お待ちください」と返ってきた。


 扉が開く。


「どうぞ入ってください」


 母親は微笑んでいた。その表情に少しだけほっとした。


「失礼します」


 玄関に入り、持ってきた手土産を渡す。


「ありがとうね。さ、入って」


 案内されたのは階段を登った二階の一番奥の部屋。扉が開くと懐かしい香りがする。既に「懐かしい」と感じている自分に嫌気が差す。

 家具や小物の趣味、置かれている本の並びが、ここが彼女の部屋であるということを如実に表していた。


 母親が口を開く。


「あの子の……桜ちゃんの部屋なんだけどね、あなたには入ってもらいたかったの。あの子の、わたしたち親にはわからない足跡が、あるかもしれないから」


 一歩踏み込む。

 何の変哲もない白い壁紙に、落ち着いた色味のフローリング。六畳の部屋に大きくスペースをとる本棚、ややアンバランスに映る簡素なベッド。ゲーム機はおろか、テレビも時計も無く、電化製品と言えばパソコンくらいだろう。


 悲しく見えるようなモノクロの部屋。


「いろいろと触ってもいいですか?」

「もちろん。その方があの子も喜ぶと思うわ。——わたしは一階にいるから何かあったら遠慮せず声をかけてね」


 そういって会釈すると一階へと降りて行った。


 何から触るべきだろう。机からが自然だろうか。少なくとも衣類から手を出すのはあまりにも違和感があるだろう。

 いや、そんなくだらない考えはどうでもいいのだ。


 手始めに——本棚を見てみることにした。


 本棚に並んでいるのは哲学書や参考書、図鑑や辞典など、ある意味遊びのない本たちだった。

 もっとも、それが実に彼女らしい気もするが。

 だが、だからこそ思う。


 彼女はこれでよかったのだろうか。

 これで幸せなのだろうか。




 ——新橋桜。

 彼女とは高校の入学時に知り合い、三年の夏に付き合うことになった。

 中学時代に不登校を経験していた私がここまで他人と接することができるようになったのは、彼女が話しかけてくれて、生徒会に誘ってくれて、一人の友人として、恋人として接してくれて、人生の彩を教えてくれたからだと思う。

 今の私を形作る要素の八割は彼女から貰ったものだといって決して過言ではない。


 しかし、彼女はどうだろうか。

 初めの頃は、彼女という存在があまりにも天才的で美しく見えて、こんな超人が世界にはいるものなのかと、そう思った。だが、彼女が、新橋桜がここまでの超人に進化を遂げたのは、ひとえに復讐心を飼いならし続けていたためである。


 実の家族をすべて失い、原因となった私の父に復讐するために、自身の全てを使い、それ以上の能力を手にしたのだ。

 今が幸せならそれでいいとはよく聞くが、そんなわけはないだろう。


 彼女の心の底はどうだったのだろうか。

 私はそれを救うことができたのだろうか。




 椅子に座る。周りを眺める。

 ——こんな景色を見ていたのか。


 目を閉じて深く息を整える。

 机の引き出しを開ける。筆記用具、付箋、メモ帳など変わったものはない。メモ帳を開く。これも変わった様子はない。単語がいくつか書いてあったり、計算式が書いてあったり、本当にただのメモ帳。

 

 そう思って引き出しに戻そうとした時、違和感を覚えた。メモ帳の最終頁だけ深く開いたような跡がある。恐る恐る開く。


 走り書きというにはあまりにも整った文字でそれは綴られていた。


『もしも私に何かあれば、君は『ソクラテスの弁明』を手に取れ。二つだけ手紙を残すから』


 私はすぐさま立ち上がり、本棚を探し始めた。棚の最下段、右から二冊目にそれはあった。

 初めの頁と最後の頁に一つずつ、封筒に入った手紙が挟まっていた。


 一つ目の手紙を手に取る。




『——愛する君へ

 この手紙を読んでいるということは、もしかしたら私はもうこの世にはいないのかもしれないね。だなんて、こんなテンプレートみたいな文章を書くことになるとは思わなかったな。


 ここ最近、少し体調が悪いんだ。急に視界が歪んで倒れそうになったり、少しふらついたりね。私のただの杞憂ならいいのだけど、もしそれで何かあったら、君はきっと悲しむだろうと思う。

 おそらく私のことだから、この体調不良を君に話してはいないんじゃないかと思う。

 だからこの手紙を残す。ほんとうにごめん。

 この手紙を遺書にしようだなんて、そんなこと考えてはいないのだけど。普段、君には話せていなかったことが沢山あるから、少し恥ずかしいけど、ここに綴らせてもらうよ。


 私は初め、君の御父上への復讐心で君へと近づいた。この身一つで君の情報を調べ上げ、進学先を合わせて、学内外の友人関係を把握して、復讐までの道筋を作り上げたのは我ながらなかなかに狂気的だと思う。

 当時の、私の復讐心は本物だったよ。正直なところ、慢心するほどに自信があった。計画が失敗してどんな結末に向かおうとも、君を殺してさえしまえばそれで問題なしのはずだから。

 しかし、君という存在がそのすべてを無に帰した。恋をしてしまったのだから。ただ、今にして思えば、計画を順調に進めて、高校三年の夏についに決行できたのは、君に恋をしたからだと、そう思う。


 普段の私は君に対して素っ気ない態度をとることもあるだろう。これでも頑張ってはいるのだけどね。君に対してよくボディータッチをするだろう。あれは私の父がよく手を握ったり頭を撫でてくれていたから、それを真似ているんだよ。少しでも君の近くにいたくて。

 君と共にいるおかげで毎日が楽しい。

 初めて話した入学した頃からずっと。本当に楽しい。あんな復讐心を持っていた人間がこんなにも幸せになっていいのだろうか。そうやって君に言うと、きっと優しく返してくれるのだろうね。

 だから、もしも私に何かあっても、たとえここにいなくとも、君はなにも思い悩むことはないよ。運命よりも大切な恋と、復讐よりも深い愛をくれたのだから。

 幸せに満ち足りているのだから。


 いつもありがとう。


——新橋桜より』




 息が詰まる。

 何も言えなかった。

 しかし、そこに苦しい感覚はなく、ただ優しく、心がふんわりと浮いた気がした。

 

 けれども、涙が止まらなかった。


 ひとしきり泣いた後、もう少しだけ部屋を眺めて、これ以上立ち止まっていると「私がいないだけでここまで沈み込むとは、嬉しいけど、ちょっと女々しいよ?」なんて言われそうな気がして、部屋を後にした。




「そろそろ帰ろうと思います」


 母親に声をかける。


「そう、今日はありがとうねぇ。あの子もきっと喜ぶわ」

「こちらこそ、ありがとうございました。随分と気持ちが晴れました。——あと、これなんですが」


 そういって彼女の封筒を差し出す。


「彼女が……、桜さんが私に残した手紙です。お読みになりますか?」


 封筒を受け取り、手紙を取り出そうとした時。ピタッと手が止まる。封筒をじっと見つめ、一瞬考え込んだような顔をしたかと思うと、軽く微笑んで封筒を返した。


「きっと、私が読むべきじゃないわ。ありがとうね、気を使ってくれて」


 私も微笑んで返す。


「最後に、彼女に挨拶をしてもいいですか?」


 母親はうなずくと奥の部屋へ案内してくれた。


 家についてから真っ先にするはずだった挨拶。

 その時の私は、気が落ち込んで、どこか動揺していて、やっぱり挨拶なんてできなかった。


 しかし、今は違う。


 彼女の手紙を読んだことで、ようやく亡くなった実感と、悲しみとの決別ができたのだ。


 頭の中の霧が晴れたような感覚で、視界が広く明るく感じられて。

 あの日、彼女に告白した時のような初々しさをもってして、仏壇の前に座り込む。

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