ぼんやりと浮かぶ月を眺めていると、家を出発する時間になった。午前7時10分。今日も同じ時間に家を出る。約20分の通学路を終えれば大体7時半に学校へ着くこととなる。始業のチャイムよりも1時間は早い。しかし、こうでもしないと優柔不断な私は学校へ行けない気がしてならないのだ。もし、途中で自転車が壊れたら。もし、事故が起きたら。手がかじかむような寒さの中、起こるはずもない不安に寝起きの脳みそを酷使する。脳が回る感覚とともに自転車のペダルも回す。

 昨日と同じ風景。街路樹たちは葉を落とし、その身をさらけ出している。寒さを避けるように上着を羽織る私とは真逆の存在。忙しく道を歩く会社員。時計を気にしながら目的地まで向かっていく。通りがかる飲食店からは様々な料理の匂いがする。やけにガタついた歩道から車道へと移り、朝練に向かっている中学生を避ける。

 そうすると見慣れた人影が見える。国語科の先生、大宮先生である。去年までは直接教えを受けていたが、進級してからはあまり関わりがない。

「おはようございます。」

聞こえた声は生徒の規範となるように意識して放ったであろう挨拶。恥ずかしげや気だるさを感じさせない凛とした挨拶。

その声に対して会釈を済ませて校門を通過する。駐輪場に自転車を停めて鍵をかけると先程の先生が校門をまたぐところだった。少し遠くから挨拶をする。

「おはようございます。」

 弱々しく捻り出した声は、挨拶と読んでいいものか怪しいほどに奇妙なものだ。

「おはよう。毎朝早いね。」

良かった。どうやら今日も挨拶として伝わったようだ。それとも毎朝の繰り返しが呼んだ推測だろうか。どうでもいい疑問を胸にしまい込み先程の言葉に応える。

「今日は英単語のテストがあるので。」

 言い訳だけは流暢に出てくるもので、まるで本心かのように会話する。しかし、どことなく会話は噛み合っていない。

「そう。頑張ってね。」

 そんなこともお構い無しに返事が返ってくる。この人は本当に楽しそうに生徒と会話をする。なるべくして教師になったのだろう。

 そんな他愛ない会話を交わして下駄箱へと向かう。

 昇降口の扉を開けようとすると突然風が吹く。心を冷ますその風は頬を撫でる。

扉の取っ手を握った指に力を入れ直して開ける。春に変えたばかりの上履きは他の生徒のものよりも状態がいい。そんな上履きを履き、2階の教室に向かう。

 前から誰かが来る。理科の先生、吉原先生である。この時間からは学校周りの花壇の整理をするのが常である。

「お!今日も参加する?」

 何度か手伝ったことがあるため顔を覚えられているらしく、毎朝確認される。朝に30分ほどの花壇整理は通学と合わせると朝の適度な運動になっている気がして意外と悪くは無い。暇を潰すにはもってこいである。今回のテストの範囲を頭に思い浮かべる。受験対策で散々読んできた長文に多くでてきた単語が多かったことを思い出す。心配なのは単語を使った英文作成とスペルだけだと自分に言い訳をする。そうして声を絞り出す。

「いいですよ。」

「助かるよ。こんな時間に参加してくれる子って少なくてさ、結局同じメンバーばっかなんだよね。精鋭部隊っていうか。まぁやることわかってるだろうから指示出さなくていいし、楽だけどね。」

「そうですね。でも、もっと増えたら楽ですけどね。」

「みんなやりたがらないんだよね。」

「地道にやるしかないですね。じゃあ、ちょっと荷物を置いてきますね。」

 そういって足早に自分の教室へ向かう。少々強引に話を終わらせた気もする。いつからか会話が苦手になっていた。それがいつかはわからない。思い出せないきっかけがあるのかもしれない。どうでもよかった。どうでもいいと思いたかった。信じたかった。この吐き気を自分に対する嫌悪感を感じないために。

 そんなことを考えているうちに、教室へとたどり着く。扉を開けるが誰が居るわけでもなく、私に孤独感を与える。自分の座席に荷物を置く。ブレザーを椅子の背もたれにかけたら体操服のジャージを引っ張り出し、ワイシャツの上から着る。そうしてすぐさま花壇整理の道具が入っているロッカーへ移動する。見覚えのある人たちはもうそろっている。

「おそいって。」

知り合いの小山がそう呼びかけてきた。一年生の頃に同じクラスだっただけなのに親しくしてくれるのには感謝しかない。

「間に合ったからセーフ。」

「もっと早く来てよ。男子二人だけなんだから。」

あたりには、丸川、同じ部活の渡会さん、丸川と渡会さんの知り合いの女生徒二人がいるだけ。合わせて五人の精鋭部隊。いつも通りなメンバーに安心する。

「おはよう。月村君。」

「どうも。毎朝えらいっすね。」

渡会さんからの挨拶に返答する。三年間同じ軽音楽部だったのだ。このくらいの軽口は許されるだろう。

「丸さんに誘われてね。」

「梨花も乗り気だったじゃん。」

「毎朝早く来てる月村くんほどじゃないかな。」

「別に俺もやる気はないんだけどなぁ。」

道具を用意しながら交わすただの会話。周りの状況を判断し、適切な回答をするだけ。日本語で返せる分英語のテストより簡単だ。簡単なはずなのだ。

 カーーン

 スコップを落とした。手のひらはやけに濡れている。手汗。幼少期より私を苦しめてきた手汗。緊張するとあふれ出てくる忌々しき手汗。自らの体質を呪いながら手のひらを拭う。スコップを拾おうと目線を下に向ける。落ちたスコップを誰かの手が拾った。

「月村君、寝不足?昨日キャラメ様が配信してたもんね。」

 渡会さんがスコップを手渡してくれた。

「ちょっとね。」

緊張を悟られぬよう呼吸を整えて返答する。ばれてはいないらしい。

「昨日は雑談配信だっけ?ゲームじゃないやつ久々だよね。」

「姿を拝見できただけで幸せだからね。どっちでも構わない。」

「月村君らしいね。」

優しく微笑んだであろう渡会さんの顔はまだ見れないでいた。改めて強く握ったスコップに映る自分の顔は歪に見えた。





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有明の月 阿慈谷月蝕 @Agesshoku

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