黒紋付
増田朋美
黒紋付
寒い日であった。やっと本格的に寒くなったなと思われる日だった。ある意味普通に寒いのがほっとするようになってきた。それでは、行けないというか、最近は冬なのに春のような風が吹いてきたり、そうして暖かくなったり、どうも予想がつかないおかしな気候が続いている。本当にどうなってしまうんだろうなと思われる気候である。なんでそんな気候が続いているのかわからないくらいだ。
そんなわけだから、水穂さんもなかなか食欲がわかないようで、ご飯を食べさせようにも、なかなか食べようとしてくれないのだった。ああもうどうしたらいいのかな!と杉ちゃんが頭をかじったのと同時に。
「杉ちゃん、右城くん、また相談があるの。今日は、この人の着物についてなんだけど。」
とサザエさんの花沢さんによくにた声が聞こえてきて、浜島咲の来たことがわかった。
「ああはまじさんか。また来たんだね。いいよ。中に入れ。」
杉ちゃんがそう言うと、咲が、
「じゃあ、入らせてもらうわね。ほら、戸塚さんも入って。ここだったら、着物のことはちゃんと説明してくれるから。」
と言っている声がした。
「はあ、また誰か連れてきたのか。よく最近着物のことで相談に来るんだよな。それだけ着物の事を教えてくれる人がいなくなったということかな?」
「確かに、呉服屋さんでも、着物の決まりについてはどうでもいいという呉服屋が多くなりましたからね。呉服屋がちゃんと説明しないというのも、行けないところだと思うんですけど。」
と、杉ちゃんと水穂さんは、そう言い合っていると、
「彼女は、うちのお琴教室に入ってくれた戸塚弥生さん。お琴に触るのも、生まれて初めてだし、楽器を始めたのも、生まれて初めてなんですって。体験入門のときは、洋服で来たんだけど、正式に入門するのなら、着物を着ることが条件だったので、着物で来てくれたんだけどね。苑子さんたら、人を馬鹿にしているのもいい加減にしろと言って怒り出したのよ。」
咲は、一緒に入ってきた女性を紹介した。それを見て、杉ちゃんたちもびっくりしてしまった。その戸塚弥生さんと言う女性は、身長160センチくらいの平凡な女性であったが、黒の何も柄のない着物を着て、金の半幅帯をつけている。杉ちゃんは思わず笑いだしてしまった。
「あら、何がおかしかったのかしら。」
と、咲が言うと、
「いやあねえ、今度ばかりは、苑子さんが怒っても仕方ないと思う。これは黒紋付じゃないか。黒紋付とは、葬式に着ていく着物だぜ。いくら金の帯をつけているからって、それをお琴教室に着ていくのは、怒られても当然だよ。」
と、杉ちゃんは言った。
「まあ、銘仙の着物着て、叱られるよりいいのではありませんか。」
水穂さんは杉ちゃんに言うのだが、
「だけど、まあ僕らは笑い事で済んだからいいかもしれないけど、着物を馬鹿にしていると思われても仕方ないよ。これでは。他に着物はなかったのかな?例えばほら、小紋とか、色無地とか。」
と、杉ちゃんは笑いが止まらない顔で言った。
「ごめんなさい、その、小紋とか、色無地ってなんでしょうか?」
戸塚弥生さんは、申し訳無さそうに言った。
「何!そんな事も知らないでお琴教室にいったの?」
「杉ちゃん、仕方ないじゃないですか。単にお琴を習いたくて、お琴教室に来る人はたくさんいますよ。それに、お琴教室の講師だって今は着物の事をあまり知らない講師がたくさんいますよ。」
水穂さんが杉ちゃんを制するが、
「でも、苑子さんは、着物についてうんと厳しい人だから。それでは確かに怒るだろう。お前さんの家に着物はなかったのかよ。見つからなかったら、親戚とかそういう人から貸してもらうとか、そういう事してでも着物を用意すべきだったんだよ。」
と杉ちゃんは言った。
「そうですけど、着物は持ってないんです。その黒紋付という黒の着物だけがうちにあったんですよ。それであれば将来使うかもしれないから、絶対捨てちゃいけないって、親に言われて、それだけ仕方なく持っていたんです。」
「はあ、おめでたい人だ。」
杉ちゃんは戸塚弥生さんに言った。
「日本人なら、一生着物を着ないで終わるということは、まず無いね。まず成人式だったり、結婚式だったり、そういうことで着物を着ることはあるんだ。それなのに、黒紋付だけ持って、それ以外の着物を持ってないとは、お馬鹿さんだな。まるで、着物を必要ないみたい。それはある意味、幸せな人生を送ってきて、おめでたい人だな。はははは。」
「そうかも知れませんが、今の日本人であれば、着物を着ない人もいます。だから、お馬鹿さんなんて言わないであげてください。それより、彼女は、それで着物を着たいと思ってくれたんだから、それを評価して、それでも、着物について教えてあげないと。」
水穂さんが心配そうに言った。
「そうか。じゃあ、それでは、ちゃんと教えてやる。まず初めに、色無地というのは、柄を入れないで黒あるいは白以外の一色で染めた着物のことだ。黒は、先程言った通り、葬式で使う。白は、死者の経帷子でしか使わない。それ以外の色、赤や青、ピンクなんかの一色で染めた着物だよ。だけど、地紋と呼ばれる布を織ったときの柄は発生する。それがどのように入るかで格という着物の順位が決まってくる。どういうことかというとね、地紋の多くびっしり入れられている色無地のほうが格が高くなり、隙間を開けて大きな柄を入れてあるほうが低くなる。格が高ければ、礼装として、稽古やコンサートなどに利用できるが、低いものは、カジュアルで、ちょっと気のはるレストランなどで食事するときみたいなそういうところで使う。わかった?」
戸塚弥生さんは、それをぽかんとした顔で聞いていた。
「やっぱり、実物を見て、しっかり教えてもらったほうがいいのではありませんか?いくら写真を見ても、わからないことだってありますし。その地紋のこととかは、着物実物を見ないと、わからないですよ。それに、正絹とか化繊とか、生地の違いなどもあるでしょう。お琴を教えてもらうのなら化繊の着物はどうしても避けなければなりませんし。その違いなんかも教えなければならないでしょう。」
水穂さんは、杉ちゃんに言った。
「そうだよなあ。着物なんて、今では数百円で買える時代だからな。そういうことなら、今からカールさんの店に行って、正絹と化繊の違いをちゃんと見て比べて、勉強しよ。」
「そうですね。そのほうがわかると思います。着物はやっぱり見てみないとわからないですからね。違いがわからないと、そのあたりが難しいですからね。もちろん、通信販売でも買うことはできますけど、、、。」
水穂さんがそう言うと、戸塚弥生さんは、タブレットを取り出した。
「なかなか呉服屋さんへ行くのは勇気が要るので、こちらのサイトでどれが正絹でどれが化繊か教えてくれませんか。前に母が、呉服屋さんへ行くと、囲み商法みたいなことをされて、とても怖かったと言ってましたから。」
「そうか。じゃあリサイクル着物販売とかで検索して見てくれる?」
杉ちゃんはでかい声で言った。
「わかりました。」
戸塚弥生さんはその通りにした。すると、リサイクル着物と書かれて、着物の写真がずらずらと出てきた。杉ちゃんがその中から色無地に絞ってみろというと、戸塚さんはその通りにした。
「確かに、柄を入れないで、一色だけの着物ってあるんですね。てっきりその着物で黒なのかと思ってました。そうじゃないんですね。赤とか青とか、いろんな色がありますね。それで、どれがお琴教室に使えるのか教えてもらえませんか?」
「うん、だから、、、着物の拡大画像を見て見るんだ。そのときに一色で染めた着物とは言えども、細かい模様が、一色で入っているのが見えるかな?それが地紋だ。その地紋がびっしりと全体に入っている方が礼装用。」
杉ちゃんが言うと、
「じゃあ、私の好きな色は、ピンクなんですけど、それでは、こちらは礼装で使えますか?」
と、戸塚さんはピンクの着物を指さした。薄い桜色のようなピンクで、とても可愛らしい感じの色無地であった。
「値段も安いんですね。なんで、880円で着物が買えるんだろう。着物って、何十万もするものだと思うのに。もしかしたらこれは、欠陥品なんじゃありませんか?」
「いや、それが大丈夫だよ。だいたいリサイクル品はめちゃめちゃ安いんだけど、ちゃんと着られるから安心して。このピンクは、たしかに写真で見る限り地紋もあるし、着物としては大丈夫だと思うんだけど、もう一つ、見分けるにはコツが有る。地紋の内容だよな。それが、お稽古にふさわしい柄であるかどうか。例えば椿なんかは、花ごと落ちるんで、縁起が悪いとされて、礼装にはしない事もある。それを踏まえると、松とか、梅とかなどの演技のいい柄というのが、礼装としてふさわしいと考える。それも、しっかり考えることだ。」
杉ちゃんが解説すると、
「じゃあ、これはなんの花の柄なんでしょうか?」
戸塚弥生さんは言った。
「これは、菊とオミナエシの柄ですね。だから、礼装として使える柄だと思いますよ。」
水穂さんがそういうと、
「わかりました。じゃあこの着物を買ってみます。それであれば、礼装として、使うこともできるんですよね?あたし、楽器の経験も何もありませんが、お琴を習い始めたのは、半端な気持ちではありません。今だから、お琴を習えるって気持ちになれたんです。今まで趣味も何もなかったあたしがやっとお琴を習おうって思ったんです。」
と、彼女は真剣に言った。
「はあ、お前さんは趣味も何もなかったの?」
杉ちゃんが聞くと、
「はい。あたしは何もなかったんです。ずっと、仕事ばっかりやってきたのに、それでは鬱になってしまって、趣味を持とうってお医者さんに言われたばかりなんです。だから、こうしてお琴を習おうと思ったんじゃないですか。」
弥生さんは答えた。
「そうなんだ。それなら鬱になれてかえってよかったじゃないか。そうすることによってお前さんは仕事ばかりやっているのではなくて、着物を着るとか、お琴を習うとか、そういうことができるようになったんだからな。そういうことでは、鬱になったというのは悪いことばっかりじゃないぜ。」
杉ちゃんがカラカラと笑った。
「そうですか。鬱になったというのは悪いことばかりじゃない、か。こんなにつらくて、悲しい気持ちが続いているということで、あたしはもうどうしようかと思ったんですけど、でも、それで着物やお琴を習うきっかけになったと言うんだから確かに、そう悪いわけでは無いのかもしれませんね。そういうふうに考えることができるなんて、そちらこそほんとに幸せな人ですね。」
弥生さんはちょっと苦笑いというか、なにか混乱したようなそんな感じで言った。
「だって僕は幸せだもん。不幸だと思ったことは一度もないね。今まで和裁屋としてやってきて、いろんな着物を見させてもらって、ホント人生楽しかった。だから、幸せなんだ。みんなが幸せだから。」
と、杉ちゃんはカラカラと笑った。
「そうなんですか。そういう事考えられるのであれば、鬱になんてならないですね。いいなあ。あたしは、今までずっと仕事ばっかりやってて、それだけしか生きてこれなかったので、もうなにか始めるのも遅すぎるかなと、、、。」
弥生さんは、申し訳無さそうに言った。
「うーんそうだねえ。それは始めない罰で、お前さんが鬱になったかもしれないよねえ。それは、関係ないとは言わせないよ。何か好きなことがあって、それに打ち込んでやれることが、一番の楽しみでもあるんだよ。」
と、杉ちゃんは言った。
「そうなんですね。始めない罰か、、、。ありがとうございます。ちゃんと趣味を持って、仕事ばかりしている人間にならないように、気をつけます。」
弥生さんは、にこやかに言った。そして、タブレットを動かして、着物を注文手続きを始めた。その顔はとても楽しそうであった。咲が、どうせなら、このやすさだし、帯も買っちゃってください、なんてちょっかいを出している。
「まあ今回はうまく行ったことだ。これからは、お琴教室と着物とを楽しんでください。」
杉ちゃんが、にこやかに笑った。
それから、数日後のことである。杉ちゃんはいつもと変わらず着物を縫っていて、水穂さんのほうは、ピアノを弾いたりして、製鉄所はいつもと変わらず、のんびりした日々を過ごしていたのかと思われたが、いつの間にか、思いがけない客がやって来るものだ。
「はじめまして。今日は見学にこさせていただきました。富士市在住の増尾奈美子です。」
製鉄所の玄関先で声がした。杉ちゃんがすぐに、
「ああ、そういえば、今日はここで見学をさせてくれというやつが居るんだったな。なんでも、これから支援施設をやりたいとかで。」
と言ってすぐに玄関先に向かって引き戸を開けた。そこには女性が一人いた。
「はじめまして。増尾です。よろしくお願いします。」
そういう奈美子さんは、なんだか単調な感じがしていて、支援施設とかそういうものを本当にやりたいという感じなのか不詳だった。
「それなら、今日来るのは一時半だと思うけど?まだ12時半だぜ。」
杉ちゃんが言うと、
「ああ、すみません。あたし、一時間間違えてしまいました。ごめんなさい。ここで待たせて頂いてもよろしいですか?」
と、彼女、奈美子さんは言うのであった。
「まあまだ、管理人さんは帰ってこないけどね。それでもいいなら、ここで待ってて。」
杉ちゃんはそう言って、彼女を部屋に案内した。
「なんでも支援施設をやりたいそうだな。お前さんがやりたい施設とは、どんなものなんだ?」
彼女にお茶を出しながら杉ちゃんは聞いた。
「ええ。なんでも、軽作業を通して、精神疾患がある人達を社会復帰させられるように向ける施設です。」
そう、奈美子さんは答えた。
「具体的にはどんな作業をさせるつもりなんだよ。」
「もちろん、簡単な作業です。彼らはおそらく、ティッシュの箱詰めとか、そういうことしかできないでしょうから、それで疲れてしまうことも多いと思いますので、それではそういう簡単な作業から始めて。」
そう答える奈美子さんに、
「じゃあ、従業員も、雇うのかな。そういう奴らは、どっから集めてくるんだ?」
杉ちゃんはすぐいった。
「今の時代、人手不足で、ネットで求人を出せばすぐに集まりますよ。そして、利用者さんたちだってこれだけ精神疾患患者が多いということでは、すぐに集まるんじゃないかしら。それだけ社会的に弱い人が多いと言うことだと思うけど。それでは行けないのよね。もっと厳しく教育しなくちゃ。」
という奈美子さんに、杉ちゃんは変な顔をした。
「何?その目は。あたしは正しい事をやってるのよ。今の時代、いらないものばかり蔓延していて、本当にひつようなものは手に入らないでしょ。だから、それがだいじなんだってことを教えなくちゃ。それが、いちばん大事なのに、誰もそんな事教えてくださらないから、精神疾患が増えるんでしょう。それでは、もう一度社会を建て直さなくちゃね。」
「そうだけどねえ。そういう考えの人は、支援施設には向かないと思うよ。教えるとか、教化するとか、そういうことは、まずその人達に、人格者だと、受け入れてもらわなくちゃね。ただ、自立だとか、お金だとか、正しいことだとか、そういう事を叩き込もうとしても、それでは、従わないで反発ばかりになるだろう。」
と、杉ちゃんは言った。
「そうなってもはじめは仕方ないと思うわ。でも私達のほうが正しいんだって分かれば、すぐに従ってくれるはずよ。そして、愛してくれているのが私達だけで、それで、利用者たちは社会から必要のない存在だってことが分かれば、従ってくれるのではないかしら。それではいけない、働いてちゃんと生活できるようにならなければ行けないって分からせることがまず大事だと思うの。それが、いちばん大事なことだから。」
得意そうに言う奈美子さんに、
「へえ、そうだねえ。まあ確かにそうかも知れないが、でもね、人間は、ちゃんと自分の事を、認めてくれたとか、必要としてくれたとか、そういう事を感じない限り動いてくれないんだよね。僕もこの施設をやって居るからそこらへんはよく分かるんだけどね。だからまずはそっちを考えることからじゃないの?」
と、杉ちゃんはわざと明るく言った。
「そうなのね。支援施設をやってる方が、そういう事言うなんて、なんか変な人ね。それより上の人に従うとか、ちゃんと働くとか、そういう事を教え込むべきだと思うけど。それをしないと、ただ時間を過ごすだけで、何も意味がないと思いますけどね。私達がすることは、利用者が社会に再び出ることでしょ。だからそのためには一番必要なものがなにか、それを教えることでは無いかしら?」
奈美子さんは自分の言うことは間違ってないというような顔をして言った。
「でもねえ。そういうことが分からないで、一生だめにする人も居るんだよね。そういう人って、だいたい職場の上司とか、家族とかで、愛情が不足している。だから、本当に愛されていたとか、そういう事を、しっかり考えて支援施設をやらないとね。そういう軽い気持ちで簡単になんとかできるだろうと言うことは、やめたほうがいいよ。だって、相手はものじゃないんだぜ。人間だからな。」
杉ちゃんがそう言うと、
「だったら、今変な演奏でピアノを弾いている人に、すぐに辞めるように言うべきじゃないかしら。ピアノなんて、なんにも役に経つものじゃないのよ。それより仕事をして、大事なことを教え込むべきだと思うけど。」
と奈美子さんが言うので、
「はあ。ほんならお前さんがやってみな。僕、できないから。どうせ、車椅子の人間に、何を言われたって信じてもらえないよ。」
と杉ちゃんはカラカラといった。奈美子さんは苛立った顔で四畳半にいってみる。
「あの、すみません。あなたはこちらの利用者さんですか?ピアノなんて何も役に経つものではないし、すぐに辞めて他の事を始めたほうがいいのではないのかしら?」
と、奈美子さんはすぐ言った。水穂さんは、ピアノを引く手を止めて、
「ごめんなさい。」
と、言った。奈美子さんは思わず、
「まあ!銘仙の着物着てる!」
と言って持っていたカバンを落としてしまった。驚いて、顔の表情が止まってしまった奈美子さんに、
「お前さんはお口が無いんかいな?」
と杉ちゃんは言った。
黒紋付 増田朋美 @masubuchi4996
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