五、春雨

 幾日も春雨が続くある日、震える私をとうとう見かねてコンが言った。

「お雪さん、里へ降りよう」

「御免だよ。散々人間を殺しておいて、結局里の世話になるなんて……」

「そんなこと言わずにお願いだよ。このままじゃお雪さん死んじゃうよ」

 コンはパッと宙返りで着物に化けると、私の体に巻きついた。ポンも同時に雨笠になり、頭にかぶさった。嫌がる私に有無を言わさず、コンは私を里へと引っ張っていった。

「コン、お前の体はこんなに温かかったのかい」

「お雪さんの体も温かいよ」

「私の体が……?」


 ようやく里に降り立つ頃、体はほとんどままならなかった。

「ああ、なんだってこんなに寒さがこたえるんだろう」

「お雪さん、きっともう雪女じゃなくなってきているんだよ」

「そんな……あたしったらなんて間抜けなんだろうね」

 冷たく閉ざした氷の心が、いつの間に解け出してしまったというのか。

「ほら、しっかり。その先が巳之吉の家だよ」

 思わず顔を上げた。

 泥濘ぬかるんだ道の先、粗末な家がかすんで見えた。軒下に男がいる。丸太の枝払いをする手をとめ、男はこちらを振り向いたように見えた。

 朦朧もうろうと次の一歩を踏み出したそのとき、突然すれ違いざまの馬が泥水を跳ねた。

「ぎゃっ」「何しやがる!」

 ポンとコンが思わず叫ぶと、口取りの侍がそれを怒鳴りつけた。

「無礼者め! 左様な物言い許さんぞ、そこへ直れ!」

 侍は刀に手をかけた。笠の下からそっと覗くと、馬上では意地の悪そうなじじいが私の顔を見て薄ら笑いを浮かべている。

「娘、見かけぬ面じゃ。笠をとれ」

 私は黙ってうつむいた。息が切れて、立っているだけで精一杯だった。耳元でポンがささやいた。

「お雪さん、これ以上雨に当たると熱が……」

 そこまで聞いたとき、私はとうとう立っていられずにその場に膝をついた。コンの化けた着物に冷たい泥水が沁みた。

「誰がひざまずけと申した、笠を取らんか!」

 侍がいきなり刀を振り下ろした。笠の前つばがバサリと斬られた。

「うっ!」

 ポンが叫び声を押し殺した。笠に滴る雨粒が薄い朱色に染まった。

 ——その瞬間、私の心が再び氷のように凍てついていくのがわかった。体の震えが止んだ。呼吸がしずまり、吐息といきは白く変わった。

「もういいよ、ポン。……私も人間のふりをするのはもうそう」

 ポンは必死に痛みに耐え、雨笠に化け続けている。

「お雪さん……、お雪さんは、物の怪なんかじゃ……」

 雨に注がれた血がうっすらと着物を染めた。辺りは次第に真冬のような冷気に包まれた。雨は雪へと変わり、泥濘ぬかるみからパキパキと霜柱が立った。

「お雪さん、駄目だよ! もうすぐ巳之吉のところだよ!」

 コンが小さく叫んだが、私は耳を貸さなかった。所詮、私は人間を恨み続ける物の怪なのだ。私はそこにひざまずいたまま、斬られた笠の隙間から侍を見据えた。妖しく光る青白い瞳に侍はひるんだ。

「おのれ、物の怪か!」

 二の太刀の瞬間、目の前に人影が立ちはだかった。刀はその胸元を袈裟斬りに切り払った。

 泥濘ぬかるみに血の塊がボトボトとこぼれ落ちた。

 侍は青ざめた顔で吐き捨てた。

「馬鹿め、むざむざ間合いに飛び込むとは……」

 斬られた男は、仁王立ちのまま言った。

「お侍さま……御無礼は承知の上、どうか……この傷に免じて……」

 男はそのまま泥水に崩れ落ちた。

「巳之吉!」

 苦痛に顔を歪めているのは、紛れもなくあの晩出会った巳之吉だった。私はその顔を胸に抱きしめた。「ああ、なんと無茶な真似を……!」

「……冷えてきた。参るぞ」

 降ってきた雪に気づき、馬上の老侍おいざむらいがつまらなそうに言った。侍たちがその場を立ち去ると、雪は再び雨に変わった。


 巳之吉の傷口から体温が少しずつ流れ出ていくのをどうすることもできなかった。ああ、私が雪女でなければせめて温かい腕で抱いてやれたものを。

「死ぬな、巳之吉」

 私は震える体で巳之吉を包み、そっと顔を近づけた。

「そなた、なぜ私の名を……」

 巳之吉は乱れる呼吸を抑えながら、私の顔を一目見るなりその瞳を大きく見開いた。

「そなたは……!」

 私は黙ったまま、瞳で尋ねた。

 ——巳之吉よ、私を覚えているか?

 それが通じたかのように、巳之吉も黙ったままゆっくり首を横に振って見せた。

 そして、独り言のようにこう言った。

「そなたのように美しい人を、一度見たら忘れるわけはない」

 あの日から私の心にわだかまっていたものが熱く解け、頬を伝った。この男の側でなら、人間でいても構わないと思った。

 冷たくけぶる春雨が、まるで不都合なものでも隠すように、折り重なって倒れる二人の姿をいつかかき消してしまった。

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