四、巳之吉

 ポンとコンの仲間には、人里近くで暮らすものも多かった。里の噂はいつでも私の耳に届いた。あの晩私が逃がしてやった若い木こりは、名を巳之吉みのきちというそうだ。

 遭難したあくる日、巳之吉は里の者に見つけられ山を降りた。年寄りの木こりは既に死んでいた。巳之吉もそれから長い間寝込んだ。

「なんとものだ、人間というのは」

 今までに生きて帰したのはお前一人だというのに、呆気あっけなく死なれたのでは甲斐がない。私は彼奴あいつの回復を密かに願った。若盛りのたくましい男だ。風邪をこじらせたくらいで死ぬことはあるまい。そう思ったが、病はなかなかよくならなかった。


 巳之吉は美しい青年だった。雪山にはときどき欲深な人間どもが踏み入れる。だが巳之吉はそんな連中とはまるで違って見えた。汚れのない瞳はむしろ、人間よりもポンやコンたちと親しく馴染むような気さえした。私がつい気まぐれを起こしたのはそのせいかも知れない。一度くらいは人間に情をかけてやっても構わないと思った。

 ただし、私はひとつ約束を押し付けた。

「今夜のことを決して口にしてはいけない。もし誰かに話せば、そのときは殺す」

 私はこの雪山で静かに暮らしたかった。つまらぬ怪談話に仕立てられ噂されるのはぴらだった。あの晩のことなど忘れてしまうのがお互いのためだ。

 だがその約束は、後に私自身を苦しめた。


「あの晩、小屋で何を見た?」

 村の者たちは、年老いた木こりの死体を見て雪女の仕業に違いないとささやき合っていた。回復した巳之吉を取り囲み、代わる代わるに村人が尋ねたが、巳之吉は何も覚えていないと答えたそうだ。賢明な答えだ。やがてつまらぬ詮索をする者もいなくなり、ひと月も経つ頃には、私の思惑通り事件のことは次第に里から忘れ去られようとしていた。

 それでよかったはずだ。

 ところが、私の胸の中には理不尽な不満が募っていた。

 ——まさか彼奴、本当に私のことを忘れてしまったのではあるまいか。

 私との約束のために忘れたをしているのではなく、長い高熱に浮かされるうちに、本当にあの晩の記憶を溶かしてしまったのではないか。

 おお、巳之吉よ!「美しい」と言ったお前の言葉は、解けない氷のように私の胸に刺さったままだ。当のお前に忘れたとは言わせない。だが、もはやそれを確かめる術はなかった。

 私は苦しかった。まるで自縄自縛そのものだ。お前があの晩のことを「覚えている」と口にしたとき、私はお前を殺さねばならぬ。だが、忘れられぬのは私の方だ。

 胸の内の苦しさは、いつしか身体中へと広がっていた。雪色の腕が、頬が、首筋が、桜色に染まっていった。胸の内が火照ほてり、凍てつく吐息といきはいつの間にか熱を帯びていた。

 降ってきた雪を冷たいと感じたのは、初めてのことだった。

 その日から私の体は日に日に弱っていった。雪山の寒さにこごえるようになった。

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