三、氷面鏡

 日一日と春が近づいていた。まだたっぷりと積もったままの雪に明るい陽が差し、山は真っ白に輝いた。

 私は木立の生い茂る森深くへ逃れていた。眩しい光は好かなかった。

 森はしんと静かで、鳥のさえずりひとつない。そこに、ほんの小さな湖があった。ほとんど一年中凍りついているような湖だが、夏の僅かな間だけ美しい翡翠ひすい色の水底を見せた。もちろんいまは凍っている。

 私はその湖面の真ん中へ立った。考えてみれば、いままでに自分の顔を気に留めたことなどなかった。もとより人への怨念から生まれた物の怪だ。さぞやみにくい顔つきに違いない。そう思うと、とても自分の姿を見てみる気になどならなかったのだ。

 私はひとつ呼吸をおいて、足元に映るものをそっと覗き込んだ。ぼかしのかかった氷の向こうに、白い女の顔が曖昧に映った。しゃがみこんで顔にかかる髪を両手で分けると、細くつり上がった瞳と真っ赤な唇がなおもおぼろげにこちらを見返している。

「ええい、じれれったい」

 私は湖の淵の大きな岩の前へ立った。吹き付けた雪に覆われたその岩は、一面が立て板のように真っ直ぐ平らで、正面から見るとまるで雪の中に分厚いふすまを突き立てたように見えた。私はそのふすまに向かって、ゆっくり息を吹きかけた。

 細かな雪の粉がきらめきながら舞い散った。柔らかな白い色を剥ぎ取られ、雪の板は滑らかに磨かれていった。

 やがて、そこに一枚の氷面鏡ひもかがみが現れた。歪みひとつない完璧な鏡だ。瞳を縁取る睫毛まつげの一本一本までくっきりと映った。

 私は初めて自分の顔をまじまじと見つめた。

 蒼白の亡霊は、闇のような黒髪の間からひび割れそうに冷めた瞳を覗かせ、唇は剃刀かみそりで引いたように真っ赤だった。我ながら異様な恐ろしさがあった。血を滴らせたような口の端で少し笑ってみせると、その迫力は何倍にも増した。

 私は再びあの若者の言葉を思い出した。

「美しい——」

 あれは命惜しさに口をついて出た出鱈目でたらめだったのだろうか。いや、違う。いままで私に命乞いをした者はいくらでもあった。みな恐怖に顔を歪め、私の顔から目を背けた。だがあの男は、恐怖に取りかれながらも目を背けはしなかった。まるで神聖なものへの畏怖いふにも似た眼差しは、私の瞳に惹き込まれるように——。

 そのとき、鏡の中で二人の眼差しが重なって見えた。私の青く光る瞳の中に、同じ光を映すあの男の瞳が蘇った。

 ふいに、私は自分の頰に僅かな血の気の差しているのに気がついた。

「馬鹿な……!」

 思わず狼狽して鏡から離れた。白く冷えた手で、頬の赤らみを拭い去るように何度も擦った。

「おおお、雪の物の怪のこの私が……」

 ちょうどそのとき、森の入り口からポンとコンがやってきた。

「お雪さん、どうかしたの?」

 私はすぐに動揺を雪のように鎮め、涼しい顔で答えた。

「いいや、何でも。お前たちこそどうしたね?」

「いい知らせだよ。お雪さんが帰した木こり、ようやく元気になったって」

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