二、雪鬼

 ポンは私を山向こうの切り立った崖まで案内した。

 その辺りはよく陽が当たり、ほとんど雪も積もらずにいた。崖の先は絶景で、里の景色が一望できた。あの里のどこかに、きっとあのときの若い木こりがいるのだろう。

「そこの穴蔵だよ」

 ポンはぽっかりと崖に空いた横穴を指差した。訪れる者を威嚇いかくするように、凍てつく風が飄々ひょうひょうと音を立てていた。

五月蝿うるさい根城だ」

 私は洞窟へと入った。ポンとコンも恐る恐る後に続いた。

 陽の光が届くのはほんの入り口までで、辺りはたちまち闇に包まれた。空気が凍りつくように冷たい。ポンとコンのガチガチと鳴らす歯の隙間から白い息が流れた。

「お前たち、外で待っていなさい」

 私がそう言ったとき、闇の奥から低い声がした。

「お雪、きたか」

 目玉がふたつ、ぎょろりと光った。私の顔ほどもある大きな目玉だ。

 雪鬼が、ゆっくりと這い出してきた。

 耳まで裂けた口から石槍のような牙が上へ下へと剥き出して、血をしたたらせている。足元には首のないカモシカが転がっていた。よく見ると、蛇にねずみ蝙蝠こうもりまで……。

「ひゃっ!」

 ポンが小さく叫んで洞窟の外へすっ飛んでいった。

「お前に聞きたいことがある」雪鬼は一歩、私に詰め寄った。

「この山に入った人間を生きて帰したと噂に聞いたが誠か?」

 私は雪鬼を真っ直ぐに見上げて答えた。

「噂は誠じゃ。相手はほんの子どもに過ぎぬ。殺すほどもない」

 雪鬼の目の色が変わった。

れ者めが! 立ち入った人間はすべて殺すのがこの山の掟じゃ!」

「ふん、掟など聞いたこともない。生かすも殺すも私の勝手よ」

「勝手じゃと? いままでの人間はみな殺してきたはずじゃ! なぜその餓鬼がきを逃した!」

 なぜ……?

 あのとき以来、私が考えていたのはそのことだ。なぜ私はあの若者を生かして帰したのか。冷たく閉ざした雪の化身であるこの私が、なぜ——。

「お雪、お前その餓鬼に惚れたのではあるまいな?」

 雪鬼の怒りの形相に、一瞬下卑げびた好奇の色が差したのを私は見逃さなかった。如何物いかもの食いの獣物けだものに何がわかる。

「惚れたらどうだというのだ」

 雪鬼の顔からにやけた笑いが消え失せた。

「そ、そんなことは許さぬ! 物の怪のお前が人間などと共になれると思うのか!」

「はははは、余計な世話じゃ。いちいちお前の許しなど要らぬわい」

 今度は私の方から雪鬼に詰め寄った。

「ひとつ尋ねたい。セッキ、私の姿をどう思う?」

 鼻息を荒げた雪鬼は再び口元を緩めた。

「ひひ……わしと同じ、二目ふためと見られぬ恐ろしい顔よ。その冷たい眼差し、生きたものの目ではない。背筋まで凍りつきそうじゃ。この雪山にお前ほどおぞましい者はおらぬ。このわしを置いてはな。ひひひ……」

「ふっ、我らが似合いとでも言いたいか」

 私が息を吹きかけると、雪鬼はみるみるうちに白く凍てつき、やがて一塊いっかいの醜い氷像となった。


「帰ろう、いい気晴らしになったよ」

 コンとポンはしばし氷像に見とれていたが、慌てて後からついてきた。

「お雪さん、あんた大変なことをしちまったんじゃ……」

 可哀想に、気の小さいポンはまるで自分のしたことのように青ざめている。

「あれくらいで死にはしないよ。何日か陽に当たっていればそのうち元に戻るだろう」

「そうだよ」コンの方は落ち着いたものだ。「あの馬鹿鬼、いつもいばり散らして。いつかお雪さんにやっつけてほしいと思ってたんだ。ああ、すっきりした」

「そうかい、ふふ」

「あの馬鹿、あれでお雪さんを口説くどいたつもりなんだよ」

 その言葉に私はかなり驚いた。

「セッキが、いつ私を口説いてたって?」

 いつもはお喋りなコンが遠慮がちに聞かせてくれた。

「気を悪くしないでおくれよ。前から言おうと思ってたんだけど、お雪さん、にぶいったらないよ。セッキのやつ、ずっとお雪さんのこと気にしてたんだよ。今日だって例の人間のことを口実に探りなんか入れて。ありゃ焼餅だよ」

 呆れた。口説く方も口説く方なら、口説かれる方も口説かれる方だ。馬鹿と愚鈍では話にならない。

「ははははは……!」

 思い出すと可笑おかしくてたまらなかった。

「お雪さんがそんなふうに大笑いするなんて……」

 ポンとコンは、普段と少し違う私にいささか困惑しているようだった。

 ふと、私はふたりに聞いてみた。

「お前たちには、私が恐ろしい物の怪に見えるかい?」

 ポンもコンもさぞ面食らっただろう。こんなことを誰かに聞くのは初めてだった。しかし、だからこそ知りたいとも思った。

 もじもじしながらポンが答えてくれた。

「おいら、お雪さんのこと、恐ろしいだなんて思ったことないよ」

 コンは真剣な目をして言った。

「お雪さんは綺麗だよ。国中のお姫様を並べたってかなうもんか」

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