一、お雪

 あの晩のことを、私は毎日のように思い出す。

 あの若者は私のことを「美しい」と言った。そんな人間は初めてだった。この恐ろしい雪女の姿を見れば、大抵は「化物」とか「物の怪」といって恐れおののく。そして誰もがガタガタと震えだし、命乞いをする。しかし、あの若者は命乞いどころか身震いひとつしなかった。吸い込まれるように私の凍てつく瞳を真っ直ぐに見つめていた。


 山の動物たちの間では、私があの若者を生きて返したことが噂になっているようだ。確かに今までにそんなことはなかった。

 私は人間を恨んでいた。

 遠い遠い昔、私は人間だった。その頃の記憶はもうほとんどない。ただ人間への深い憎しみだけが心に刻まれている。大方、生きている時分に里を追われてこの雪山で行き倒れにでもなったのだろう。そんな哀れな女の話はいくらでも聞いた。きっと、そのうちのどれかひとつが化けて出たのが自分だろう。いや、もしかしたらそのどれもが——つまり、女たちの怨念が寄せ集まって生まれたものが自分なのかもしれない。

 私はこの山に人間が踏み入ることは許さなかった。人間への復讐というつもりはない。ただ愚かな人間たちを寄せ付けたくなかったのだ。私はこの山の雪のように、冷たく静かに閉ざしていたかった。

 山の動物たちは、私のことを守り神のようにありがたかった。私がいる限り、この山が人間どもに荒らされることはないからだ。


「お雪さん」

 いつの間にか、そこに狸のポンが立っていた。ポンは少々鈍間のろまなところもあるが、人懐っこくて忠実まめなやつだ。

「おいら、お雪さんを呼んでこいって言われてるんだけど……」

「誰に?」

 ポンは困った顔で呟いた。

「セッキ……」

「セッキ……あの破落戸ならずものの雪鬼が?」

 セッキは、私と同じくこの雪山の物の怪だ。ただし、私のように山の守り神などと呼ばれたりはしない。手のつけられない荒くれ者で、ときどき里へ降りて人を喰った。人間ばかりか山のものたちにまで手にかけるので、みなに嫌われ恐れられていた。

「まったく、ろくでもない奴の使い走りになっちまって」

 そう言って口を挟んだのは、女狐めぎつねのコンだった。

「あんなのに近づくんじゃないよ。お前愚図ぐずなんだから、うかうかしてると喰われちまうよ」

 コンは口達者で小生意気だが、賢くて気立てがいい。山で困ったものはみな、コンのところへ相談にくる。

「セッキが私に来いというんだね?」

 そう聞くと、ポンは申し訳なさそうに頷いた。

「行くこたないよ、お雪さん。あいつ馬鹿なんだから、放っときゃ忘れちまうよ」

 コンの言うことは正しい。礼儀知らずの雪鬼ごときがこの私を呼びつけるとは笑わせる。わざわざ出向く義理などない。

 しかし、私は行くことにした。なに、ほんの気晴らしに過ぎぬ。あの日からこの胸の内にじっとわだかまっているものがある。それを束の間でも紛らわせたかったのだ。

「行くよ。ポン、案内しておくれ」

「こ、こっちだよ」

 ポンは私の意外な返事に驚いたようだが、すぐに振り向いて雪の上をもこもこと歩き出した。

「セッキのやつ、何の用だろうねえ」

 コンは本心では私が行くのを止めたいはずだが、一緒についてきてくれた。

「きっと、私が帰した木こりのことだろう」

 私がそれを口にすると思っていなかったのだろう。コンは少し驚いた顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。

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