容疑者天使の殺人禁止

佐伯僚佑

容疑者天使の殺人禁止

 三日前、彼女と別れた。今日、俺は殺されている。包丁を逆手に持った元彼女が俺に馬乗りになって、さっきから何度も俺の体に突き刺しては抜いている。間違えた、もう、元々彼女だ。

 元彼女のことは大好きだったけれど、俺に対する積もり積もった不満が爆発し、とうとう別れを告げられた。それはいい。仕方ない。だがどうして、俺はとっくの昔に別れた元々彼女に殺されているのだろう。胸からドバドバ血が噴き出して、もう痛みも感じない。俺の首は横を向いていて、右手に刺さった一本目の包丁だけにずっと目の焦点が合っている。今刺されているのは二本目、我が家の包丁だ。

 できることもなく死ぬまで暇なので、あの包丁が刺さった経緯でも振り返ることにしよう。


 十二月二十日。

 恋人がいなくなった俺は、喪失感と解放感が同時にやってきて、隙間風吹き抜ける心を持て余して帰宅した。連絡先だけは残っているが、もうどんなメッセージを送っても返事は返ってこない。二度と連絡するなと言われているので、ブロックされているかもしれない。電話は、着信拒否されていてもおかしくない。

 すぐに次の恋人を探すつもりもなくて、俺はコンビニで買ってきた夕飯を温めて一人寂しく食べた。年末が近いこの季節、人肌恋しいとはよく言ったものだ。数年ぶりの独り身の冬。段々と独りであることを痛感し始めている。静かだ。

 だから、つい気を緩ませてしまったのだ。三日前までの彼女、中本マイコと付き合っていれば、こんな迂闊なことはしなかった。

 インターホンが鳴った。時刻は夜九時を過ぎている。非常識な時刻ではあるが、今の俺には時間と人恋しさがあった。

「はい、どちら様」

「キョウヘイ君、久しぶり」

 ドアモニターに映っていた姿は、一瞬誰かわからなかった。シックなスーツに身を包み、肩までの真っ黒な髪を緩く巻いて微笑む女性。

 記憶を探れば、辛うじて検索結果が引っ掛かり、同時に変貌ぶりに驚く。

「……トモエか?」

「うん、覚えていてくれたんだね。嬉しい」

 俺の元彼女、違う違う、元々彼女の天草トモエだった。

「見違えたな」

「そうかな」

 照れ臭そうに髪をいじるトモエの姿は、俺と付き合っていた頃とは全く違っていた。当時は明るい茶髪をストレートに伸ばし、着ているものも「可愛い」を追求した装飾華美な服が多かった。今のトモエは、余計なパーツを取り外し、残った素の姿、という印象を受ける。正直、当時よりも数段綺麗だ。

「入れてもらえないかな。少しだけ話したいの」

「ああ」

 別れてからの時を数えながらロックを外した。後から思えば、ここが致命的なミスだった。

「お邪魔します」

 入ってきたトモエは丁寧に靴を脱いで上がってきた。履いているものも、黒いパンプス。

 俺が先導し、キッチンの前を通ってリビングルームに招き入れる。

「ひょっとして、葬式の帰りか」

 トモエは俺の言葉にキョトンとし、吹き出して笑いだした。

「やだなあ。仕事帰りだよ。カッチリした仕事だから、スーツ必須なの。でも、キョウヘイ君からすればそうだよね。昔の私、こんな服着なかったもん。もう、五年も経つんだよね」

 そう、俺たちが付き合っていたのは五年前までだった。俺から別れを切り出した。

 トモエは束縛が強い女で、とにかくずっと連絡を取りたがった。毎日会いたがったし、実際会わされた。俺は自分の時間を失いたくなくて別れることを決めた。

 そうだった。あの頃のトモエはヒステリーで、俺が別れ話をすると金切り声で泣いて喚いて拒絶したものだった。

「なんで、俺がここに住んでいることを知っているんだ」

「リカちゃんとマイコちゃんから聞いたから」

 リカというのは、マイコとトモエの共通の知り合いである。彼女らの友達、と呼ぶにはいささか距離がある関係のようなのだが、俺がトモエと別れる際は非常に助けてもらった。トモエはリカに一目置いているらしく、俺との別れを決めるときもリカに諭されたらしい。俺からすれば頭が上がらない。

 ただ、マイコとトモエが話をする間柄だとは知らなかった。俺は所詮男だ。女同士の友情はよくわからない。

 ローテーブルを挟んで、俺とトモエは腰を下ろした。

「こんな夜分に来るなんてさ、何の用? 言っちゃなんだが、俺は明日も仕事だからそろそろ寝るんだけど」

「あ、そうだね、ごめんね」

 おお、真っ先にごめんが言えるとは、大人になったなあ。

 昔なら、「私との時間をもっと大切にしてよ!」と叫ばれただろう場面だ。

 妙な感慨を得つつ、にっこりと笑ったトモエに向き直る。

「ええとね、キョウヘイ君、マイコちゃんと別れたんだよね」

「え、ああ。耳が早いな」

「私と結婚して」

「ん、ええと、耳が遠くなったかな」

 とぼけてみたが通じることもなく、ずいっとローテーブルを回り込むようにトモエが近づいてきた。

「私と、結婚、して、くだ、さい」

 体温が数度下がった気がした。間近で見たトモエの目は笑っていない。見開かれ、髪と同じ漆黒の瞳が瞬きもせず俺の目を捉えている。

 何が大人になった、だ。こいつ、本質は何も変わっていないぞ。

「おいおい、知っているぞ。お前はオオガキ君とやら婚約者がいるんだろうが」

 俺が別れた後も、トモエの動向はリカ伝いに聞いていた。主に警戒する意味で。トモエの家柄はなかなか良く、そしてオオガキ君の家も金持ちらしい。親同士が話し合い、二人は引き合わされ、近く結婚するという情報が届いている。

「親同士が決めたことだもん。私が結婚したいのはキョウヘイ君」

 熱烈な愛の告白を受けているのに、背筋はどんどん冷たくなる。座ったまま、じり、と身を引いた。

「私ね、本当は諦めていたの。入籍して披露宴まで開いてしまったら、キョウヘイ君のことは思い出にしようと思っていた。それ以上は、両家の顔に泥を塗ることになるかもしれないから」

 コクコクと頷く。そうそう、そのまま思い出にしてくれれば良い。

「でもね、キョウヘイ君はマイコちゃんと別れたんだもん。私が入籍するまであと少しってときにフリーになった。これって運命だよね。私に最後のチャンスが巡ってきたってことだよね。そのためにキョウヘイ君は別れてくれたんだよね」

 違う、全然違う。俺はマイコと別れたくなかったし、お前の入籍時期なんて知らない。

 そういう意図を込めて首を横に振るが、トモエの漆黒の瞳はますます近づいてくる。

「キョウヘイ君、結婚して」

「断る。俺たちはもう終わったんだ」

「終わっていないよ。私はまだ好きだもん」

「俺は好きじゃない」

「好きにしてみせるよ」

 思い出した。むしろなぜ忘れていた。こいつとは決定的に話が通じないのだ。他のことは割とまともな人間であるくせに、恋愛に関しては自分が正しいと思うこと以外受け入れない。俺や周りがどう言おうと、自分が決めた道を進むか、周りを壊すかしか選べない。

 こいつと別れるために俺がどれほど苦労したことか。なぜ、不覚にも家に上げてしまったんだ、俺は。

 押し問答が続くことを覚悟した俺の予想に反して、トモエは俯いて押し黙った。急な沈黙もまた、他人と正しいコミュニケーションをとらない行為であるため安心はできないが、喚かれるよりもマシである。近所迷惑で警察を呼ばれかねない。

 ……呼ばれた方がいいかもしれない。

がばりと、トモエは顔を上げた。その目には涙が浮かんでいる。

「私もね、キョウヘイ君と別れてからいろいろ考えたの。人の心はその人のもので、私が努力しても変えられるとは限らないって。だから、キョウヘイ君の心はきっと、私のものにはならないんだね」

 俺は大きく息をして、ゆっくり諭す。

「そうだ。俺には俺の人生と気持ちがあって、それは付き合っていた頃には戻れないんだ。もう、あの頃とは違う。俺はお前を愛せない。そして、お前には愛してくれる人がいるんだろ。一緒に幸せになるべき相手がいるんだろ。そいつを大切にしろ」

 本当に。トモエと結婚できる男なんてそうはいないと思うから。

「私は、キョウヘイ君が一番好き。誰よりも、世界の誰よりも好き。でも、でもね、五年と五十七日前もそうだったように、キョウヘイ君の心は私を好きになってくれない」

「ごめん」

「知っていた。本当は、知っていたの」

「うん」

「だから、せめて他の女のものにはさせないね」

 え?

 トモエが突如振りかぶった手には、逆手に包丁が握られていた。咄嗟に庇った右手に深々と突き刺さる。

 戦慄し、両手を振り回した。遅れて右手に激痛が走る。立ち上がろうと床についた手に力が入らず、仰向けに倒れてしまった。

 トモエの手にはもう一本の包丁が控えていた。キッチンに置いていた、俺の包丁。

 俺の胸のど真ん中に刺さり、すぐに抜かれた。溢れる血とともに体から急激に感覚が失われていく。

「   」

 トモエは何か言い続けていたが、もう俺の耳には届かなかった。

 思考だけがゆっくりと動く。どうしてか、寒気だけはやけにはっきりしていた。

 マイコ、どうしてこうなったんだろうな。お前と別れずにいたら、死なずに済んだのかな。

 視界が霞み、とうとう自分の手も見えなくなった。

 

「心臓を刺されて即死とは、えげつないな、まったく」

 気付くと俺は木造の建物の中にいた。ワックスがけされていない体育館のような、広い場所にポツンと椅子が置いてあり、俺はそこに座っていた。目の前には長机があり、髪が薄くなった中年男が机に腰掛けてこっちを見ている。

「誰?」

「バンバンと呼んでくれ」

「はあ?」

「お前は植木キョウヘイだな?」

「はい」

 俺はキョロキョロと周りを見るが、だだっ広い空間に俺たち二人しかいない。さっきまでトモエに殺されていたはずなのだが。それに、胸の傷もない。腕に刺さった包丁も無い。

「説明しよう。君は死んだ」

 バンバンは淡々と、手元のバインダーに挟んだ資料を見ながら言う。

「天草トモエに殺された。ここは地獄の手前で、私はいわゆる死神だ」

「死神……。閻魔様に舌でも抜かれるんですか、俺は」

「そこだよ。まさしく、問題はそこだ」

 やれやれ、とバンバンは薄い髪を掻く。

「この先は地獄で、君は地獄に堕ちる。そりゃあもう死んだ方がマシな責め苦を、死ぬことも許されず、発狂してもなお受け続け、精神を殺し尽くして罪を贖い生まれ変わる」

 話しているうちに意識がはっきりしてきた。ここが本当にあの世なのか、それとも死ぬ間際に見ている夢なのかわからない。あの世に来たのなら、ずいぶんあっさり来たものだ。思っていたより苦しくなかった。

「地獄に堕ちるほど悪いことをしましたか、俺は」

 なぜか心は凪いでいて、この男の会話に付き合ってやろうという気になった。他にできることがありそうにもない。たとえこれが夢でも、目を覚ませば穴だらけの自分の体と対面だ。そんな痛そうな現実よりも、夢を見ながら死んだ方が楽だろう。

「ああ、やっちゃったんだよ、君は」

「何をですか。マイコとはちゃんと話し合って別れましたよ」

「そんな好いた惚れたで地獄に落とすかバカ野郎。その程度で地獄に堕としていたらあっという間に定員オーバーだ」

 バンバンはバインダーをテーブルに放りだした。

「君の罪は、天使に人殺しをさせた罪だ」

「天使?」

 一体何のことだ。

 バンバンは反応に困った俺を一瞥した。

「今から説明する」


 死んだ人間は天国か地獄に送られる。やがて転生し、現世で生まれ変わる。だが稀に、天使や地獄の役人、私たちみたいな死神なんかが人間として転生してしまうことがある。原因はよくわかっていない。転生システムが非常に古くから使われていて、しかも複雑になりすぎていて、全容を知るものが誰もいないんだ。

 人間界的に言うと、み〇〇銀行のシステムみたいなものだな。作った担当者が引退したり、雑な仕様の増改築をしたりして迷宮化したんだよ。

 天使が転生しても人間は人間。やがて寿命で天国に帰ってくるから、天使に復帰できる。そこは問題じゃないんだが、現世にいる間に人殺しという大罪を犯してしまうと、天国的には非常に問題なんだ。天使が人を殺していいのは、弱き者を守るためだけと定められている。違反することはできない。天使はそういうふうに生まれついている。

 だが、天使が転生した人間は私利私欲のために人を殺せる。天使なのにな。矛盾するわな。だから辻褄を合わせるため、殺された人間が、その大罪を背負わされることになってしまった。

 それが、君が地獄に堕ちた罪だよ。


「ちょっと待て!」

 俺は思わず立ち上がり、声を上げてしまった。

「それ、俺、全く悪くないだろうが」

 殺した罪ならわかるが、殺した罪を被害者に肩代わりさせるなんて聞いたことがない。

 理不尽すぎて笑えてきた。

 一方、バンバンは溜息をついて項垂れた。

「そうだな」

 俺は鼻で笑って追い詰める。

「あんたらの落ち度だろうが」

「広い意味ではそうだ」

「身に覚えが無いどころか、自分を殺した犯人の罪を背負って地獄堕ちなんて納得できるか。こっちは被害者なんだぞ」

「そうだよなあ」

 転生システムだかなんだか知らないが、不具合があるなら直せ。直すのが間に合わなくても、損失を補填しろ。

「貴様じゃ話にならん、閻魔を出せ」

「閻魔様は通常業務で手一杯なんだ。下っ端の私が対応する」

 その言葉に無性に苛ついた。これじゃあまるで、役所であしらわれているクレーマーじゃないか。

「だったらお前がなんとかしろよ!」

 最後は叫び声だったのだが、広い空間にはよく響き、思いのほかすっきりした。

 一通り叫んだ後、俺は椅子にがっくりと座り込んだ。

「すいません。死んだことに動揺してしまいまして」

「気にするな、よくあることだ」

 開き直られても困るのだが。

不思議なことだが、俺は自分が死んだことを認め始めていた。体の感覚が全く違うし、死ぬまでの記憶もはっきりしている。生きているときは自分が生きていることを疑わないように、死んだら自分が死んでいることを疑わないものなのかもしれない。

それを自覚すると同時に、急激に気持ちが萎えてきた。俺の人生は終わった。天国行きも地獄行きも大差ない。もう何もできない。文字通り、地獄の窯で煮るなり焼くなり好きにしろ。

「まあな、我々だって申し訳ないと思っているし、あまりにアンフェアだとはわかっているんだ。だから、このケースにはチャンスが与えられることになっている」

「チャンス?」

「一回きり、君が殺されるより前の時間に生き返らせる。今度は天草トモエに殺されるな。生を全うしろ」

「……マジで?」

 バンバンはバインダーを俺に手渡した。

「右下の四角い欄に指を押し付けろ。それで生き返れる。その契約書の内容は、次に天草トモエに殺されたら問答無用で地獄行きを認める、って内容だ」

 萎えていた心に火が灯った。まだ死にたくない。地獄になんか、絶対に堕ちてやらない。結婚もしていない。子供だって育てたい。飲みたい酒だって、食べたいものだってある。まだまだやりたいことが、俺の人生には残っているんだ。

 俺は迷わず親指の腹を紙面に押し付けた。


 ピピピ、ピピピ。

 聴き慣れた目覚まし時計のアラームを止めた。跳ね起きる。

 何の変哲もない自分の部屋だった。

 床をまじまじと見るが、血痕一つ無い。キッチンに行けば、包丁もいつも通りラックに差さっていた。

「夢だったのか?」

 トモエに殺されたこと、地獄の手前に行ったこと、そして生き返る契約を交わしたこと。

 やれやれ、嫌な夢を見たものだ。マイコと別れたせいかな、などと、寝起きにしてはやけにすっきりとした頭で充電が終わったスマートフォンをとったとき、俺は画面から目が離せなくなった。

「十二月一日だと」

 急いでテレビを点けた。流れるニュースは見覚えがある。SNSを開くと既視感のあるタイムラインが表示されていた。

「待て、待て。いやいや、本当に?」

 夢の内容がやけにはっきりと思い出せる

夢の中で俺がトモエに殺されたのが十二月二十日の夜だった。

「……約三週間巻き戻っている?」

 こめかみに指を当てる。この三週間の記憶は鮮明に思い出せた。マイコから別れを切り出され、何度か話し合った。そのときの言葉も、マイコの表情もはっきり思い出せる。そして、トモエに殺されたときの痛み、刃が体に入ってくる感触だって覚えている。

 もちろん、地獄の手前で死神と交わした会話も。

 ふらつき、壁に手をついた。夢じゃない。直感がそう告げている。でも理性はありえないと言っている。

 俺はなんとか顔を上げた。

 何はともあれ、起床した以上やらねばならないことがある。

 そう、出勤だ。

 急いで身支度を整え、アパートを出る。俺の仕事はコンピュータに関する雇われ講師で、初心者教室からプログラミングの授業まで受け持っている。集団を相手にする場合もあるし、個人指導するプランもある。マイコと知り合ったのはそこだった。

 駅に向かって歩いていると、隣にぬっと男が現れた。

「復活おめでとう」

 体感的にはついさっき会った、中年男がそこにいた。

「お前……」

「改めて自己紹介した方がいいか。死神のバンバンだ。普段は現世を漂っているが、今回は君のサポート役として当てがわれた。一応、地獄としてもできるだけ正常な罪状で死者を迎えたいんだよ。そのための手助けをさせてもらう」

 声を出せず口をパクパクさせる俺に、バンバンは片眉を上げた。

「夢だったと思ったろ。残念、君は一度地獄に堕ちた」

 驚きながらも、俺はもはやあの世での記憶を気のせいだとは思っていなかった。バンバンとやらの両肩を掴んで揺する。

「やっぱり俺は殺されたのか。記憶があるんだ。この三週間の記憶が」

「そうだろうな。時間が戻ったんだから」

 バンバンは揺られながらも淡々と答える。

「良かった。良かった、お前が現れてくれて。全部思い込みや妄想だと言われる方が怖かった」

「安心しろ。これは現実だ。だからそろそろ、私を揺するのをやめてくれないか。おっさん二人がじゃれ合っていてもいい画にはならないぞ」

「むしろ抱きしめたいくらいだ」

「会って二度目の関係で抱きしめられたいと思うほど、私は博愛じゃない。私はシャイな死神なんだ」

 つまらないやり取りをしていると、目覚めてから大きく鳴りっぱなしだった心臓がようやく収まってきた。

 死んだ実感もなければ、生き返った喜びもない。あるのは、はっきりした思考だけ。俺はチャンスを与えられた。

 陽の光の下で見るバンバンは、定年間近のくたびれた男にしか見えなかった。下腹が出て、顔の皮膚はたるんでいる。

 だが今の俺にとって、誰より頼もしい味方であることは事実だ。

「この件、誰にも相談できないだろう。だから私が協力する」

 嬉しくて、ちょっと涙が出て来た。

「本当に助かる。トモエを止めるには一人じゃ心もとない」

「ただし、こちらも掟がある。死神は生きている人間に直接危害を加えることができない。つまり、天草トモエを取り押さえる、というような力業は無理だ」

「あ?」

 顔をしかめて睨んでやった。

「使えねえ奴だな」

 そうしてもらおうと思っていたのに。

「大変申し訳ないがそう言うな。本来こうして肉を纏って顕現することだけでも大ごとなんだ。死神は死者をあの世へ連れていくことが普段の仕事で、生きている人間は基本的に管轄外なんだから」

 乱暴な口調で、アンバランスにへこへこと頭を下げるバンバンを見ていると、怒りよりも哀れみが浮かんできた。

 貧乏くじを引かされたのはお互い様だというわけか。

 駅に着くとバンバンは「また夜に」と言い残して俺と逆方向の電車に乗って消えていった。俺は出社し、仕事をこなしていく。

 一度死んだことで世界が輝いて見えるかと思ったが、案外そうでもなかった。集団教室は適度にテンション高く、個人指導は和やかに、美人が来れば頑張るし、男にはドライに接する。

 ただ、このいつも通りの灰色の日常こそ、俺の生活のベースなのだ。気を抜いて今日を過ごし、明日を迎える。そんな当たり前を来月以降も俺は過ごしたい。

 マイコと付き合えた日を思い出す。マイコのプログラミング指導コースが修了し、彼女が俺の生徒でなくなった日、俺は交際を申し込んだ。俺たちは恋人になり。世界は色づき、マイコは新しい仕事をスタートさせた。

 エンジニアとしての経験で言えばマイコはまだまだ駆け出しで、俺はたまにマイコをサポートしながら仲を深めていった。

 結婚まで考えていたんだけどな。

 帰宅途中、自宅最寄り駅で降りると、改札口にバンバンがいた。

「待っていてくれたのか」

「作戦会議が必要だと思ってな」

 俺は頷き、ファミレスに誘う。

 そう、作戦が必要だ。日中仕事をしながら気づいたときには胸が熱くなった。この時間軸では、俺とマイコはまだ付き合っている。ここから急激に雰囲気が悪くなり別れ話が進んでいくのだが、もしかしたら、それだって変えられるかもしれない。

 俺は生き残り、マイコとも別れない、そんな一石二鳥の作戦が必要だった。


「今日一日仕事をして、俺は本当に時間を戻ったと確信した」

 たしかに提出した記憶がある書類、生徒と交わした会話、ネットニュースで流れてくる最新情報。全て知っている内容だった。

「疑って当然だな。だがそれが事実だ。納得してもらえてよかったよ」

 バンバンは人間界の食べ物を堪能した後、満足そうな顔で水を飲んでいる。

「ああ。そこで、俺が生き残る方法を考えた」

「ほう。妙案は浮かんだか」

 今度はメニュー表を開き出した。真面目に聞けよ。締まりがない顔にフォークを刺してやりたい。

「まずは情報収集だな。トモエは、入籍と披露宴の前に俺とマイコが別れたから、俺の家に来たと言った。ならば逆説、オオガキとトモエが結婚披露宴を終えるまで、俺がマイコと別れなければいい」

「なるほど。せめて入籍までしていれば、天草トモエは簡単には殺人を犯せなくなるな」

「世間体がなければ簡単に人を殺す女であることにまずは常識的な突っ込みを入れたいけどよ」

「まったくだ」

 バンバンは爪楊枝でシーハーやっている。俺もできればそれくらいの余裕が欲しいのだが、トモエの性格とマイコがこれから取る態度を知っていると、とても楽観視できない。

「リカという女がいる。マイコ、トモエ、俺、全員のことを知っていて、トモエの手綱をある程度握れる。昼間のうちに、リカにトモエの入籍と披露宴の日取りを訊いておいた」

「その女は信用できるのか」

「できる」

 五年前、リカのお陰でトモエと別れることができたと言っていい。あれから毎年お中元とお歳暮を欠かしていないし、年賀状だって書いている。感謝のあまり、「何でも言うことを聞く券」を作って渡したほどだ。

「君が天草トモエと結婚するという手段もあるぞ。自分を殺した相手と結婚するなんて、究極の最終手段だが」

「本当に究極だな」

 バンバンが言うことは正しい。トモエの望みを叶えれば、殺人を犯すことはない。だが、それはあり得ない。

「名案だが、俺はそれを選ばない。あいつと結婚したら、それは地獄だ。生きて地獄を味わうくらいなら、1%の可能性にでも縋って天国を目指すぞ、俺は」

「それほどか」

 バンバンは呆れていたが、俺にとっては迷う余地もないことだった。

 トモエの独占欲は半端じゃない。俺の意識がある時間は全てトモエに拘束されていた。学業もプライベートも関係なく、十分に一回連絡しないと浮気を疑われ、スマートフォンには監視アプリを仕込まれ、休日は物理的に軟禁された。手錠の冷たさを自宅で味わうなんてさすがに想像しなかった。

 極めつけは、俺の下腹部にトモエの名前を入れ墨しようとしたのだ。絶対に浮気させないために。

「死神様は知っているか。互いの性器にお揃いのピアスを着けようと提案される気持ち。それを鎖でつないで寝ようなんて言うんだぞ」

「……人間でなくてよかったな、と思うよ」

 さすがの死神も顔が青ざめていた。

 俺の責任も、実のところないわけではない。一目見て、落としやすそうな子だと思った。誰かに依存したくてたまらない、という気持ちが全身から出ていて、毎日のように男と遊んでいた。

 顔は可愛いので寄ってくる男は多く、そしてほぼ全ての男が関係を持つ前にトモエの異常さに気付いて撤退した。何人か、実際に付き合い、そこそこ深い関係まで進んだそうだが、彼らは夜逃げ同然で姿を消した。そうでもしないと逃げられないのだ、トモエからは。

 当時の俺は無根拠に自信があって、トモエを制御できると自惚れていた。別れるにしても、きっぱり断れば済むだろうと甘く見積もった。

 そして、初めてのデートの後、一夜の関係を持った翌日の正午には、俺とトモエが付き合っていると友人のほぼ全員に広まっていた。さすがに異常なスピードで事態が進行しており、そこでようやく身の危険を感じた。

 後日リカに言われたことは、

「あんたの顔がトモエの好みど真ん中だったからだね。あの子はあんたを徹底的に孤立させるよ。近づく人は男も女も関係なく攻撃して、あんたはトモエ以外と人間関係を維持できなくなる。トモエと二人で生きるか、トモエを捨てて完全に独りになるか、その選択をいずれ迫られるよ」

 後にも先にも、あれほど誠意を込めた土下座をしたことはない。なりふり構わずリカに助けを求めた。大した額は入っていなかったが、預金通帳だって差し出そうとした。

 一年後、俺はトモエと恋人関係を解消する同意を得た。そのときばかりは冗談ではなく涙が出た。そして、二度と女で遊ばないことを誓った。

 俺は友人たちの間で、生きながらにしてトモエから脱出した偉人だと称えられた。

そんなアリジゴクに戻るくらいなら、本物の地獄の業火に焼かれてやろう。男としての誇りを胸に、俺は死ぬ。

「とにかく、俺がトモエと結婚することは無い」

「わかったよ。私も今の話を聞いて勧めはしない」

 バンバンはアイスクリームを、俺はビールを追加で注文した。

「仮に、俺がトモエを殺したらどうなる」

「地獄行きだな。日本の刑法と地獄、両方で裁かれる」

「意味無いな」

 罪が増えているじゃないか。

「私はそれでも辻褄が合うので構わないがな。天草トモエが早く死ぬことは、天国にとって悪くない」

 何だか、妙な気分になってきた。プログラマ的に、どうにも対応が間違っている気がする。

「なあ。システムに問題があるなら、その根本解決に取り組むべきじゃないか。でないと、永遠にこの問題は繰り返すだろう」

 システムが巨大になりすぎて対応が難しいとは聞いたが、それは放置していいという意味にはならない。時間と人員が必要なら、それを割くべきだ。長期的にはその方が効率的になる。

「それと、天国の問題にどうして死神が駆り出されているんだ。天使が来いよ。何というか、天国の問題を地獄が押し付けられているような気がするんだよな」

 バンバンは指を鳴らした。アイスクリームを呑み込み、もう一度指を鳴らす。

「その通りだ。キョウヘイ、君はよくわかっている」

 右手を差し出されたので、何となく握手した。どうしたんだよ。

「天国と地獄の関係は、官僚と県庁みたいなものだ」

「ああん?」

「地獄は、実は天国の一部門にすぎない。閻魔様は県知事ってとこだな」

「マジかよ。仮にも地獄を司る神だろ」

「天使様は、俺たち下っ端が動いて収拾つくならそれでいいと思っているのさ。そもそも、転生システムの不具合について直す気がない。今さら非を認めると、これまで見過ごして放置してきたことの責めを負わなくてはならなくなるからな。上の連中はいつだって保身第一なのさ」

 あまりに身に覚えがありすぎて、思わず窓の外を眺めてしまった。遠い目で行き交う雑踏に思いを馳せる。

「キョウヘイもサラリーマンなら、わかるんじゃないか」

「わかるよ」

 それどころか感情移入しすぎて泣きそうだ。

 いつだって下っ端は上の論理に振り回される。締め切りに胃を痛めるエンジニアを辞めて、のんびりとした雇われ講師になったのも、だいたいそういう理由だ。

「時折、人間が羨ましくなる。君らは死ねば休める。天国にいる間は、文字通り極楽だ。私たちは死んで終わりってわけにいかないからな。すぐに復活して役目に戻される」

 たまにはのんびり死んでいたいよ、とバンバンはアイスクリームの最後の一口を放り込んだ。

 それと同時に、リカから返信があった。

『トモエの入籍は来年の一月一日』

 この一か月が、俺にとっての蜘蛛の糸。俺はカンダタにはならない。


   ◇


 十二月三日。

 俺は未来で振られた――時制がおかしなことになっているが――恋人のマイコと喫茶店で会っていた。

 マイコは沈んだ目で俯き、長い黒髪が顔を覆い尽くしそうになっている。

 何を言われるのか、当然俺は知っている。

「キョウヘイ君、私たち別れよう」

 この日を境に、俺たちは別れ話を始める。そして十二月十七日に互いの部屋から私物を持ち出し、「さようなら」と言い合った。さらにその三日後が運命の日だ。

 一回目の十二月三日では、俺は「そうか。ちょっと頭を冷やしてまた話そう」とその場を濁した。

 今回は違う。

「待ってくれ。早まるな。三年も付き合ったんだ、気に食わないことが見つかるのはわかる。だけど、それを直す努力をさせてくれ。頼む」

 言いながら、俺がマイコに「頼む」だなんて心から言ったことがないことに気付いた。それだけでも振られて仕方ないと思う。

 仕方ないが、仕方ないで済ませられない事情がある。

「そうじゃない。もう、無理なの」

 マイコは俺と目を合わせようとしない。わかっていたことではあるが、心が決まっている。マイコはヒステリックに物を言うタイプではない。今回のことだって、彼女なりに考えた末の提案のはずだ。

 踏みとどまれ、俺。ここが最初の未来の分岐点。

「例えば、何がいけなかったかな。何回もデートに遅刻したこと? マイコが眠いときに無理やり起こして映画鑑賞に付き合わせたこと? パクチーが苦手なのがいけないなら、好きになるよう努力する」

 自分でわかっているが、俺は日常生活で細かいことに気が回るタイプではない。失敗なんて数えきれない。でも、それが人間だ。許し合い、認め合うことだってできるはずなのだ。

「使ったコップを出しっぱなしにして、私に洗わせること」

「……ああ」

 そういえば、付き合い始めの頃に何度か言われた気がする。いつの間にか言われなくなったから、諦めてもらえたのかと思っていた。

 いや違う。忘れていただけだ。意識し続けることが面倒になっただけだ。

「何度キョウヘイ君の部屋を私が掃除したと思う?」

「……わかりません」

 数えていない。俺がゲームに興じている間にマイコが綺麗にしてくれていた。それが当たり前になっていた。

 これも言い訳だ。自分に都合よく、当たり前を定義した。見ていない振りをしていた。

「キョウヘイ君が私の部屋を掃除したことは何回あった?」

「一回か、二回くらい」

「本当に?」

 胃が痛くなってきた。

「すいません。ありません」

 テーブルの上を拭いた程度のことしか、俺はしなかった。それを掃除と呼んで許されないことは、さすがに察しがつく。

「私がつくる中で好きな料理は何?」

「ハンバーグです」

「キョウヘイ君は私に何を作ってくれたかな」

「……申し訳ありません」

 何か作ったと思う。でも思い出せない。それだけ頻度が少なかったということをマイコは言いたいのだ。

「ねえ、キョウヘイ君」

 マイコが顔を上げ、俺と目を合わせた。そこに浮かぶ悲しみは、誰のためのものだろう。

「私は家政婦じゃないんだよ。キョウヘイ君と一緒にいて、私は何を得られるのかな」

 俺は答えられなかった。

「少し、時間をくれ」

 絞り出すように言い、マイコが店を出て行く後ろ姿をぼやけた目で見るのが精一杯だった。

 不甲斐なさに悔し涙を流す権利すら、俺にはなかった。


「コーヒーってのは苦いな」

「他人の金で飲んでおいて」

「仕方ないだろう。私は人間界のお金を持っていない」

 マイコが帰った後、どこからともなくバンバンが現れ、マイコが座っていた席に着いた。勝手にコーヒーとケーキを注文し、寛ぎ始める。

「しかしあれだな。一回目のときより別れ話が早く進みそうじゃないか」

 盛大に溜息を吐いた。そうなのだ。前回、俺とマイコはまともに言い合うこともなく別れた。ゆっくりと、穏やかに。

 前回の反省を生かし、今回の俺は正面から話し合うことを選んだ。関係は修復しようと思えばできるのだと高を括っていた。結果的に、俺は逃げ場と時間を失っている。何も返答を用意できなければ、次に会うときが別れの日かもしれない。あまりに待たせれば、文面で一方的に別れを告げられることもあり得る。マイコの方に、関係を引き延ばす理由はない。

 もしも別れてしまえば、正確にはマイコが別れたと認識してその情報が流れれば、トモエが襲撃してくる。そうなれば前回の再現だ。俺も男なので喧嘩ができないわけではないが、包丁を振り回してかつての恋人をあっさり滅多刺しにする化け物のような女に勝てる気はしない。

「なんとかしないと」

「関係を修復しないという手もあるんじゃないか。全力で天草トモエとの戦いに備える、という選択肢だ。リカとやらに協力してもらって、君を襲撃させないように根回しすることだってできそうに思うぞ」

 考え方を変えるのはアリだが、バンバンが出した案は不採用だ。

「リカちゃんだって、トモエを完全にコントロールできるわけじゃない」

「誰なら止められるんだ、天草トモエを」

「さあ。少なくとも俺は知らん」

 最終的には戦うこともあり得るが、今はまだ戦いにならない道を模索したい。刃傷沙汰になったらオオガキの人生まで狂うことになる。一番平和に、誰も傷つかずに済む道を諦めたくない。

「だいたい、天使の生まれ変わりだから、あんなアナーキーな人間が誕生したんじゃないのか。お前らのせいじゃないのか」

「否定できんな」

 そう言いながらも、バンバンは幸せそうな顔でケーキを突いていく。他人事だと思いやがって。

「それはともかく、君もマイコとなかなか良くない付き合い方をしていたみたいじゃないか」

 やっぱり聞いていやがったか。それを言われると何も言い返せない。完全論破された直後の男の傷に塩を擦り込むな。

「だってよお、実家じゃ母さんが全部やってくれていたし、自分でやる習慣がないんだよ」

「その心構えこそが自立していない証拠だな」

 ぐうの音も出ない。

「自分がやるのが面倒なら、せめて代わりにやってくれる人には感謝を伝えるのが礼儀というものだろう。そして、できる範囲で代わりの何がしかを提供するのが公平な大人の付き合いだ。無償で何かを貰えるのは親と子だけだよ」

「そうだな。反省している」

「その反省を態度と行動で示すしか、ないのだろうよ」

 この喫茶店に来てから何度目かわからない溜息が出た。死神に人付き合いを指南されるとは。偏見がないからこそ公平な目で見られるのかもしれない。バンバンが言うことは正しい。

「私はもう一つ気になっていることがある。天草トモエが君の住所を知ることになる経緯だ」

「あん? たしか、マイコとリカから聞いたって」

「それは本当なのか」

「どういう意味だよ」

「二人には、君の住所を天草トモエに教える理由がないではないか」

「そりゃ……」

 言いかけたが、よく考えればたしかに不思議な話だった。リカは俺とマイコの過去を知っているし、今さら俺の住所を教えるような迂闊な女ではない。だったらマイコか。あいつこそ、顔見知り程度ではあるはずだが、トモエのことは嫌っている。自分から関わろうとはしないはずだ。

「だしかに。なんか、釈然としないな」

「そうだろう」

 トモエが嘘をついていた可能性は、理論的にはある。だが、それをする理由もまた不明だ。俺と結婚するか殺すか、という極限の二択を迫るために訪問しておいて、情報に小細工を混ぜる意味もわからない。

「誰かが教えた、それは間違いない。結果的にそれが襲撃の引き金となっている」

 バンバンは顎に手を当て、俺に視線をやりながら考えるポーズをとる。俺も一緒になって考えてみたが、良くない想像だけが育ってしまう。

「俺さ、他の可能性思いついちゃったわ」

「何だ」

 疑問を解消できる嫌な仮説を思いついたが、検証が難しい。かなり特殊な技能が必要になる。

 しかし幸いにも、うってつけの人材がいた。

「死神って、どこで寝ているんだ」


 思った通り、死神は現れたり消えたりを自在に制御できるらしい。実体化と神体化とバンバンは呼んでいるが、要するに俺と会話するとき以外は幽霊みたいになれる。その姿ならば暑さ寒さ、重力も眠気も関係なく過ごせるとのこと。

「どうしてこんなことをあっさり思いつけるかねえ」

「トモエと年単位で付き合うと、自然と発想が歪むんだ」

 俺の部屋、ローテーブルの上には小型の機械がジャラジャラ転がっていた。

「盗聴器に隠しカメラ。合計四台。トモエは最初からこの家の場所を知っていた」

 そして俺の様子をチェックしていた。立派なストーカーで、プライバシーの侵害である。

「婚約者がいるんだから、そっちを見ておけよなあ」

「私も死神になって長いが、こんな作業をさせられたのは初めてだ」

 バンバンに幽霊状態になってもらい、顔を家中に突っ込んで探してもらった。一応、秋葉原で買ってきた盗聴器探知機と、天下のグーグル先生に訊いた隠しカメラを見つける裏技を駆使して俺もサポートしている。

「初めてなのか。死神といえばこういう使い方ができるっていうのは、日本のある年代の男子にとっては常識なんだぜ」

「そんな恐ろしい常識、世界広しといっても日本くらいだ」

「そうかな。死神が出てくる有名な漫画で勉強したんだけど」

 ともあれ、俺のプライベートは監視されていた。トモエのことだ、おそらくマイコの部屋も同様の仕掛けがされている。はっきり言って良くない。

 前回マイコとした別れ話は喫茶店でしたから盗聴されていないが、マイコが自室から友人に「彼氏と別れようと思っているし、ほとんど別れたようなもの」とでも電話で相談しただけでアウトになりかねない。

「バンバン、マイコの部屋からも取り外さないといけない。早急に」

「よし、どうすればいい」

「俺がマイコを外に呼び出す。その間に、今やったように部屋を捜索するんだ」

「なるほど。だが無理だ」

「何?」

 バンバンが言うには、幽霊状態で部屋に入ることはできるという。しかし、工具が持ち込めないから取り外し作業ができない。さらに、外した機械を持ち出すためには実体化した状態で部屋を出なければならないが、そうなると外から鍵をかけられない。マイコに侵入したことを悟られる可能性がある。

「なるほど。……鍵は最悪、マイコがかけ忘れたと思ってもらえるが、工具を持ち込めないのは致命的だな」

 バンバンの姿は普通の男性のもので、指がドライバーに変身するような能力はないのだという。一応、普通の人間よりも身体能力は高いらしいが、それもアスリートの範疇にすぎないそうだ。

「中本マイコに知られてもいいのなら楽なのだが」

「駄目だろう。これ以上俺の評価を下げるわけにはいかない。地獄から生き返って元彼女に殺されないように頑張っていますって説明するのか? その時点で頭おかしい認定されて別れ確定だっつの」

 ただでさえ俺を振る口実に飛びつきたい心情だろうから、そこに餌を投げ込んではそもそも付き合い続けられない。

 頭をガシガシ掻きむしった。

 マイコの部屋の合鍵は渡されていないが、今はまだ俺はマイコの彼氏だ。部屋には入れてもらえる。

 要するに、マイコにばれないよう工具を持ち込んで、その後部屋が無人になればいいんだろう。なんとかしてみせる。俺は地獄から舞い戻った男なのだから。


   ◇


『ラブラブだからマイコに花束プレゼントしちゃうぜーーー』

『あっそ』

 リカに一通送ったメッセージ。これが吉と出るか無駄と出るかはわからない。

 十二月十日。

 俺は人生で初めて花屋に行き、人生で初めて三千円の花束を作ってもらった。思ったよりでかい。重いリュックを背負い直し、マイコのマンションに向かう。

 インターホンを鳴らすと、「何それ」と不機嫌そうな声がスピーカーから流れた。

「いや、付き合った記念日のプレゼントにね」

「一か月先だけど」

「いいだろ。それくらいさ」

 声に哀愁を滲ませる。これが最後の贈り物かもしれないから、と言外に含ませているが、本心ではそんな気はさらさらない。

 鍵が開き、俺は久しぶりにマイコの部屋に入った。ああ、よくわかる。整理と掃除が行き届いた部屋だ。同じ1Kなのに、こうも広く感じるとは。

「それ、本物の花?」

 マイコは花を飾るタイプではない。花束に戸惑っていた。

「本物だぞ」

「うち、花瓶無いんだけど」

「そうだろうと思って持って来ました」

 俺はリュックから花瓶を取り出し、水道を借りて花束を慎重に水に差した。

「花瓶、大きくない?」

 俺は苦笑を返す。そう、花瓶のサイズはよくわからなかったので適当に買ったら大きかった。

「まあ、小さすぎるよりはいいじゃん。綺麗だろ」

「まあね」

 マイコは、こんな見え見えのご機嫌取りで考え直したりしませんよ、と言わんばかりの目つきで俺を睨む。俺だって、花瓶込みで一万円にも満たない投資で人の心が動かせるとは思っていない。部屋に入れてもらう口実と、視線誘導が目的だ。

 本命の、工具をこの部屋に残していくために。

「散歩でもしないか」

「寒いんだけど」

「イチローが言っていた。大事なことは部屋の中じゃなく、太陽の下で決めろって」

 決める、という単語にマイコはピクリと反応した。無言でコートをクローゼットから出し、黙ったまま玄関に向かう。俺も続くと、マイコは部屋の中を指さした。

「キョウヘイ君の物を部屋に増やしたくない」

 心臓が一拍跳ねた。

「リュック、持って出て」

「……はい」

 俺は言われるがまま鞄を背負って部屋を出た。花瓶がなくなり、かなり軽い。


 マイコの家の近くに流れる川沿いの道を歩くのが、少し前までの俺たちの散歩コースだった。

 俺はマイコが抱える不満を、まずは全て受け止めることにした。脱いだ靴下をすぐに洗濯籠に入れないとか、デートプランを自分で考えないとか、お金の無駄遣いが多いとか、まあ、そういう色々を。

 正直、全て覚えているわけではないし、いきなり自分の生活スタイルを激変させられるわけはない。それにマイコが言っていることは物事の末端で、根本の部分、俺がマイコに甘え過ぎていたことこそ直すべきなのだと思う。

 明日の俺は今日より少しだけいい男になる、そうマイコに思ってもらえれば、きっと付き合いを継続できる。持つべき気持ちは新入社員。新しいことを貪欲に吸収し、先輩を敬い、礼を欠かさない。そう考えれば、俺がやるべきことが明確になる気がする。

 自分を戒めるために、そしてマイコの鬱憤を吐き出してもらうために、今日は真摯に聞いて謝罪する素直な男になると決めた。

 だが、マイコは話し出して三分もすると口が開かなくなった。具体的な不満点が思いつかなくなったのだ。黙ったままなんとなく歩く時間が過ぎる。マイコだってわかっている。一つひとつあげつらったって仕方ないことを。

 不意にマイコが立ち止まった。

「ここを二人で歩くのも、今日が最後かもね」

「俺は、そうしたくない」

「でも、私にその気がないよ」

 マイコの表情は穏やかで、それはただの他人を見る目だった。好かれると同時に怒ってもらえること、感情の起伏をそもそも起こしてもらえること、それは決して当たり前ではない。

「いろんな、くだらないことを話したな。あそこの鳥は何ていう種類なのかとか、あの橋を渡る車は一日何台くらいなのかとか。ほとんど覚えていないけど」

「どうでもいいことばっかり話したね」

 それこそが俺とマイコの付き合いの浅さを示しているようで、奥歯を噛みしめる。

「俺の、前の彼女のことを知っているか」

「知っているよ。大変な子だったんでしょ」

「ああ。だからなのか、俺はマイコに踏み込むのが怖かった。自分の考えていることや価値観を押し付けるようなことをしたくなくて。でも、結局それは自分の考えを譲らないことと大差ないんだ。もっと、マイコと深い話をするべきだったと思うよ。マイコの話をゆっくり聞いて、俺が直すべきところを受け止めて、一緒に暮らすために歩み寄ることが必要だった」

 トモエとの付き合いで、俺は女性との真面目な距離感を見失ってしまった。ふざけることはいくらでもできるが、真剣に哲学を擦り合わせるような議論をできなくなった。

「俺は、頑張るよ。マイコのことを理解したい。俺のことも話したい。それで、丁度いい関係を作りたい」

 俺はマイコが好きだ。トモエに殺されなくたって、本当は別れたくなかった。

 マイコは微笑んだ。

「寒いね。戻ろう」

 浅い付き合いだったけれど、その微笑みが仮面のようであることは、はっきりわかってしまった。


 マイコの後ろを歩きながら、俺は別のことにハラハラしていた。バンバンは上手くやったのか。真面目な話だから二十分くらいはかかると言っておいたが、実際のところ俺たちは五分で引き返している。往復で十分間ほど。作業は終わっているのだろうか。

 俺が持ち込んだ工具は背中のリュック、ではなく、花瓶の底に隠してある。水を入れることで、中には何もないとマイコに思わせた。実際は、ビニール袋に入れて二重底までして隠している。

 俺がマイコの家に入ると同時に、幽体のバンバンもマイコ宅に侵入。盗聴器と隠しカメラを探す。俺たちが出た後実体化して工具を回収し、機械を撤去。俺たちが戻る前に部屋を出て一丁上がりの手筈だ。

 マイコの部屋も狭い1K。隠し場所は多くない。コンセントや照明のような、電源が確保できる場所を探せば捜索はすぐに済む。なんなら、花瓶に花を活けている間に終わっていたかもしれない。だが、撤去作業自体は……。

 頼む、終わっていてくれ。

 俺たちはマイコの部屋に戻ってきた。マイコがドアを開ける。最悪のシナリオは、玄関にバンバンがいて、今、このタイミングで鉢合わせすることだ。

 僅かに開いたドアに滑り込むように割り込んだ。マイコが少し驚くが、トイレに行きたかったとでも言い訳すればいい。

 バンバンの姿は、無かった。キッチンスペースの奥にも人影はない。

 ほう、と息をつく。ありがとう、死神。いい仕事しているぜ、死神。

「どうしたの?」

 後ろからマイコが怪訝な声を出し、俺は曖昧に首を振って誤魔化した。俺は部屋奥の窓際に行き、さてどうしようかと頭を捻る。

 ひとまず、これで俺とマイコの不仲がトモエに伝わることはなくなった。リカにはラブラブ宣言をしておいたので、トモエまで人伝いに俺たちが別れそうだという情報が流れるリスクは低い。さすがに本当に別れてしまえば、マイコだって友人に言うだろうし俺が止めることもできない。だが、それまでの猶予は稼げた。一月一日。それまでトモエの目を誤魔化す。

 腰を据えて、マイコと向き合おう。そう思って振り返ると、バンバンがいた。

 天井の隅、壁に手をつくようにして張り付いていた。忍者みたいに。

 俺の脳内で一瞬にして計算が進む。バンバンは機材撤去までしたのだ。しかし部屋から出ようとしたとき、俺たちが帰ってきてしまった。咄嗟に、天井に身を隠した。工具と回収した機械を抱えるためには実体化を解けず、実体化している以上、マイコからも目視されるため、動けなくなっている。きっとそういうことだ。

 バンバンの目は真剣だ。真剣に、俺に助けを求めている。俺に続いてマイコが入ってくる。俺は視線を天井からマイコに戻した。視界の端では、不審な中年の男が天井と壁に手をついて張り付いている最悪の絵面が控えている。

「さっきからどうしたの」

 訝しんだマイコの目線が、俺から逸れる。まずい、振り返られたら、具体的にどうなるかわからないが、とにかくまずい。

 俺は叫んだ。

「マイコ!」

「はい⁉」

 視線はこちらに戻せた。俺は窓際ギリギリまで下がり、床に手をついた。

「本当に申し訳なかった! 俺は自分のことばっかりで、マイコの気持ちに全然気づいていなかった」

 日本が誇る伝統的な謝罪、土下座である。自分でも驚くことに、トモエと別れるためリカに頭を下げてから、俺は気楽に頭を地面に擦りつけられるようになった。俺の頭は安い。

「ちょっと、やめてよ」

 マイコが寄ってきたことが足音でわかる。これでバンバンが玄関まで通過するスペースが生まれた。

 ここは俺が引き付ける。行け!

 床に額をつけ、叫ぶ。

「俺が子供だった。だらしなかった。思いやりがなかったし甘えていた。チャンスをくれ、いや、ください。すぐに全て直すことはできないかもしれないが、一個ずつ努力する。今より絶対にマイコを助けられる人間になってみせる。好きだ、マイコ。その気持ちは本当なんだ」

 バンバンは無音で動けるわけじゃない。俺が出す声で足音を掻き消す。

 言葉はすらすら出てきた。なぜなら本心だから。謝罪の申し訳なさと、マイコを、本人のためでもあるとはいえ欺いている申し訳なさで、俺はそれこそ地獄にも堕ちそうなほどダウナーな気分で叫ぶ。

「申し訳ありませんでした。本当に、本当に申し訳ありませんでした。許してください。最後のチャンスをどうか、どうかお恵みください」

「顔、上げてよ。そんなに叫ばれると近所迷惑だし」

 マイコの言葉に、おそるおそる顔を上げる。その途中、玄関のサムターン錠が開錠の向きになっていることが見えた。

 バンバンは脱出できたのだ。内心ガッツポーズ。

「どんな方法で謝られてもさ、許せないことは許せないよ」

 一方で、こちらの状況は一向に良くならない。

 その後、ぶつぶつと苦言を呈されたり謝罪したりしながら、たどたどしく夕食をつくって振舞った。分かりやすい点数稼ぎだが、できることをなんでもやるしかない。マイコの調理器具とキッチンは手入れが行き届いていて、俺が使ったことで汚してしまったような気さえした。


   ◇


 俺にとって二度目の十二月二十日がやってきた。マイコが出入りしなくなってから我が家は荒廃の一途を辿っていたので、今日は片付けと掃除に取り掛かる。

 暇なのか、バンバンは俺のベッドの上に胡坐をかいて漫画を呼んでいる。

「手伝ってくれてもいいんだぞ」

「気が向いたらな」

 マイコの気持ちが少しわかった。ムカつく。でも、これに怒る資格は俺にない。

「随分余裕そうじゃないか。前回の命日だってのに」

 いつの間にか、バンバンは漫画を閉じていた。俺は溜まった洗濯物をまとめて洗濯機に放り込む。

「状況が違うからな。盗聴器とカメラを外した。俺とマイコはまだ別れていない。俺も態度を改めた。少しずつだけど」

 謙虚に、謙虚に。

「週一程度とはいえ、俺とマイコは定期的に会っている。これは誰がどう見ても、まだ付き合っているカップルだ。トモエだって運命を受け入れてオオガキと結ばれてくれるだろうよ。あと十二日、俺が粘り通せればトモエはオオガキと入籍する」

 俺がトモエに殺される未来は回避される算段だ。

 マイコとの関係を完全に修復できるとは、そろそろ思わなくなっていた。メッセージを送ってもほとんどが梨の礫で、俺がやっていることは延命措置の意味合いが強い。

「今夜、中本マイコと会うんだろ。振られないといいな」

「そうだな」

 今夜の作戦は、またも手料理だ。俺が今までマイコにさせていた分のお世話を、これからは俺がやりますという態度を見せる。肩を揉もう、掃除だってしよう。コンビニにお使いだって行こう。

 これほど他人に尽くそうと思ったことは人生で初めてだ。

「料理も練習したし、きっと大丈夫」

「私が毒見に付き合わされたあれか」

「そうだ」

 今日のメニューは肉じゃがを予定している。定番だが、だからこそいい。手間とお金を惜しまなければ美味しいものは作れるだろうが、俺はマイコから金を無駄遣いする部分を咎められている。安く、スタンダードにいくのが正着だと判断した。

「すごく美味しいとは思わなかったが」

「味は二の次なんだよ。こういうのは気持ちが大事なの」

「君が蔑ろにしていたことだな」

「……そうだよ!」

 午前中は家事に徹し、午後から出かけた。スーパーで食材を買ってマイコの家に向かうつもりだ。

 バンバンはスーパーにもついてきた。

「何か買ってやろうか」

「じゃあ、焼き芋」

「あいよ」

 俺たちはスーパーを出た。バンバンはハフハフと芋を食う。

「キョウヘイ、君が地獄に堕ちない方法は他にもいくつかあったよな」

「何だよ、今さら。トモエと結婚はしないぞ」

「そうではなく、例えば、誰かに天草トモエを殺させてもよかった」

 ぎょっとした。

「悪いことを考えるなあ」

「死神ですから」

 理屈の上では、それで俺は助かる。だが殺人の罪を背負う別の誰かが生まれる。

「姿を消して、天草トモエが結婚するまで身を潜めることもできた」

「ああ、そういえばそうか」

「君が地獄に堕ちない、より確実な方法はたくさんあった。でも、君は今の手段を取ったな」

 俺は、ふん、と鼻で笑った。理由は簡単。俺はマイコと別れる未来まで変えたかった。そして、誰も不幸を押し付けられない道を選びたかった。俺が死なず、オオガキの人生も狂わず、トモエは誰も殺さない。代わりに殺人を犯す人も生まれない、そんな未来を。

 トモエはオオガキと結婚して幸せになる。俺はあわよくばマイコと関係を修復する。それが無理でも、まあ、人生のよくあるワンシーンとして酒の肴にできる。死んで地獄に堕ちることと比べれば、充分なハッピーエンドじゃないか。

「欲張りな人間だと思ったよ。その強欲さは嫌いじゃない」

「いつになく神妙だな」

「君に道がいくつもあったように、他人にも道が何本もある」

「マイコと別れろってか。俺という道から解放しろって?」

「そうじゃない。方針を定めすぎる、決めつけすぎるのは危険だと言いたいんだ。君は今からでも逃げたり、天草トモエに先制攻撃を仕掛けたり、選択肢が無限に広がっている。最初に立てた作戦に固執するかどうか、よく考えてもいいんじゃないか」

 俺は転職したときのことを思い出していた。プログラマとして新卒で就職したときは、その会社で定年まで働くつもりだった。だが、あるとき、本当に不意に、いま走っている線路の外にも道が広がっていることに気付いた。

 未来の可能性を制限しているのは自分自身。目を凝らせば、前後左右、なんなら空や地下にだって道はある。方向転換は悪じゃない。

「ありがとう。でも、俺はこの道に納得している。この道を歩き通そうと決めたからわかったことがたくさんある」

「そうか」

 バンバンは頭を掻いて後ろを向いた。俺からは顔が見えなくなる。

「じゃあ今日の家デート、頑張れよ。君は結構よくやっている。あと少しだ」

「ああ。行ってくる」

 俺はバンバンに背中を向け、マイコのマンションに入った。


 肉じゃが作りは難航した。自分の家とはキッチンや道具の勝手が違うためなのか、手がやたらと疲れる。特に野菜を切ることに時間がかかった。ニンジンってこんなに固かったか。

 スムーズに進まない理由には心当たりがあった。マイコがなぜかずっと俺の料理を見ているのだ。俺の成長を測っているのか知らないが、緊張して手つきが鈍くなる。その結果、想定の倍近い時間をかけて肉じゃがは完成した。

「知らなかった。他人のために料理するって、こんなに緊張するんだな」

 味付け一つとっても適当で済ませられなくて、レシピを何度も確認した。非常に疲れたが、出来上がったものは悪くない。レシピを遵守すれば最低限失敗しないのが、料理のいいところ。

 完食し、洗い物も済んだ。ここからが今日の本番だろう。二人分のお茶を淹れて腰を下ろすと、マイコが切り出した。

「キョウヘイ君、何度も考えたんだけど、やっぱり限界だ。私たち別れよう」

 単刀直入だった。もう少し遠回しに話を進められると思ったのだが、マイコの決意が思ったより堅い。もちろん、はいそうですかと受け入れるわけにはいかない。

「待ってくれ。今は肉じゃがと野菜炒めくらいしかまともに作れないけど、もっと練習する。洗い物だってこまめにするし、洗濯だって毎日する」

 今朝、まとめて洗濯機に放り込んだ記憶は抹消する。あれは過去の俺だ。男子、三日会わざれば刮目して見よ、という。

 俺が男子を名乗れる歳では、そろそろなくなっている事実は目を伏せる。

「そういうことじゃないの。もう、キョウヘイ君のことを好きじゃないんだよ、私は。はっきり言って、キスできない」

 う、と言葉に詰まってしまった。

 理屈や不満をぶちまけられるより、遥かに深く刺さった。

 わかってしまうのだ。俺がもう一度トモエと付き合ったとして、同じ気持ちで愛せるかと言われたら無理だ。手を繋ぐことすら抵抗がある。

 彫像になったように、手も足も動かなかった。反論も出てこない。ストンと腑に落ちてしまい、それは仕方ないと俺の本心が思ってしまった。

「だから、もう別れよう。今日で最後にしよう」

 様々な思いがよぎる。嫌だ、駄目だ、待ってくれ。だがその全ての前に、どうしようもなく仕方ない、という大きな感情の壁が立ちはだかる。マイコにとって俺は、俺にとってのトモエになってしまった。結婚することなんて絶対にない、そんな相手に。

 半端に開けた口から言葉未満の音が漏れる。

 マイコは長い髪をポニーテールで括っている。その首筋、顎のライン、襟から覗いている鎖骨、それらはもう、手が届かないものになった。

「うん」

 協力してくれたバンバンには悪いが、どうやら今日が限界らしかった。見苦しく追いすがることはできるが、俺の中で決定が下った。俺はマイコを諦める。

 それを口にしようとしたとき、ピンポーン、とインターホンが鳴った。マイコの目が鋭くなる。マンションの一階はオートロックだから、そこに宅配業者でも来たのかもしれない。邪魔が入ったおかげで、俺はもう僅かばかりこの部屋にいる時間を得られた。

 マイコは一度立ち上がり、すぐに戻って来てローテーブルを挟んだ俺の向かいに座った。

「受け取らなくていいのか」

「荷物が届いたわけじゃないよ。居留守使う」

 営業か、宗教勧誘でも来たのか。

さて、短い猶予だった。俺は答えという名の受容を求められている。

 言える言葉は、ありがとうとさようなら。

 せめて俺の意思で口に出すことが、残された意地だ。あとは覚悟を決めて、トモエから逃げるとしよう。日本中を追いかけっこしてやる。

「マイコ」

 息を吸ったそのとき、玄関でカチャリと音がした。俺とマイコは同時に目を遣る。

 ドアが開いた?

「キョウヘイ君、いますよね」

 ドアが開き、顔を覗かせたのはトモエだった。

「な、どうして、トモエがここに」

 俺が呆気に取られている僅かな時間に、マイコが駆け出し、キッチンとの間にある木製の引き戸を閉めた。

「キョウヘイ君、押さえて」

 何を、と訊こうとした瞬間、引き戸がガタついた。向こうからトモエが開けようとしている。

 意味はわからないが、俺もマイコに加勢し、戸を押さえつけた。取っ手が小さく、力が込めにくい。当然、鍵なんてついていない。

「どういうことだ」

「知るか、あっちに聞いてよ」

「あ、そうか」

自己完結できた。俺の馬鹿野郎。盗聴器をセットできたということは、トモエは一度この部屋に入っているということだ。二度入ることができないはずがない。

 だが、なぜトモエがここに?

「トモエ、何しに来た」

「どうしてカメラとマイク、外しちゃったの?」

 恐ろしいほど静かで無垢な声が戸の向こうから聞こえてきた。

「ずっと見守っていたのに、急に外すんだもん。おかしいよね。何か、悪いことをしようとしているんだよね。マイコさんがキョウヘイ君に悪いことする前に、駆除してあげないと」

「カメラとマイクって何のこと」

 マイコが叫ぶ。

「とぼけるんだ。いいけどね。あなたの言葉なんて信じないから」

「トモエ、外したのは俺だ。マイコは関係無い」

 俺が叫んだ途端、シン、と静かになった。二人で気配に耳を凝らす。シャリン、と微かな音が聞こえたので耳を戸につけると、向こうから戸を激しく押されて頭が弾かれた。

「なんで⁉ なんで私の前からいなくなろうとするの⁉ キョウヘイ君と結婚できなくてもいいよ、私だってそれくらいわかっている。でも、見えないところに行くことないじゃない。私が何をしたの、叩きもしない、お金もいらない、連絡だってしない、ただ見守っていただけなのにどうしていなくなろうとするの」

 ガンガンと戸が揺れる。引き戸を向こうから蹴り飛ばしているのだ。戸が軋んで歪む。

「マイコ、警察を呼べ!」

「あ、あ……」

 マイコは泣きそうな顔で、這うように電話を探す。俺は蹴り飛ばされる戸を一人で支えた。

「殺してやる、キョウヘイ君を失うくらいなら殺してやる‼」

 誰か、マンションの住人が騒ぎに気づいてくれ。俺は知っている。この女は本当に躊躇なく人を殺すんだ。

 俺の目論見は外れた。マイコと付き合ってさえいればトモエの襲撃は起こらないと、またしても高を括った。どこにもそんな保証はなかったのに。トモエの脳内でどんな処理が為されたのかわからない。だが、一つだけ言える。

 俺たちは、命の危機に瀕している。戦うしかない。

「殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す」

 言葉のリズムに合わせて戸を蹴られる。こちらはタイミングを合わせて力を込めて押し返す。単純な筋力なら男の俺の方が強い。警察が来るまで時間を稼げば俺たちの勝ちだ。

「殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺、す‼」

 しまった、と思ったときには俺の体は吹っ飛ばされていた。タイミングを外された。曲げられた引き戸が俺の上に落ちてくる。木の板で視界が覆われた俺の耳に、マイコの悲鳴が聞こえた。

 慌てて戸板を撥ね退けると、トモエが右手で逆手に持った包丁をマイコに向かって振り上げていた。俺は咄嗟に体を捻って手を伸ばし、トモエの足首を掴んで引き寄せる。

 振り下ろされた包丁はマイコから逸れ、トモエは俺の方に倒れ込んだ。そして、包丁は俺の右太ももに突き刺さってしまった。

 刺される痛みも二度目だが、決して慣れることのできない激痛が冷や汗とともに体を駆け巡る。

 叫び出したいが、それよりもマイコに刃を向けられた怒りが勝った。

「ふざっけんなよ、トモエ。何度、何人殺せば気が済みやがる」

 刺された足で俺は飛び掛かった。ガクリと膝の力が抜けたが、トモエの首に手を届かせるには充分だった。馬乗りになり、両手で首を掴み、締め上げる。足は痛むし気を失いそうだが、かつてない怒りが俺を突き動かした。

 しかし、俺はまたも考えが及ばなかった。

 前回殺されたとき、トモエは二本目、俺の包丁で致命傷を与えてきたことを。

 トモエの左手には、もう一本、マイコの包丁が握られていた。トモエの口が声なく動く。

 ――さよなら。

 二本目の包丁が俺の胸に突き立てられた。


   ◇


 俺の前にはバンバンが立っていた。

「変えられる運命もあるが、変えられない運命もある」

「そうだな。でも俺は、諦めなかったことを誇りに思う」

「ああ、それは誇っていい。じゃあな、もう会うこともないだろう」

「あ、待て。最後に聞きたい。お前、マイコのことを知っていたのか」

 バンバンは振り返り、唇の片方で笑った。

「当然だ」

 そう言い残し、バンバンは俺の前から消えた。やれやれ、すっかり騙された。

 俺は一人になった病室で、窓の外、空を眺めた。きっと天国がある方向。

 俺の足には深い傷が、そして胸には浅い傷が横一文字についている。胸の傷は致命傷にならず、皮膚を裂いただけで済んだ。マイコの加勢と、騒ぎに気付いたマンションの住人によってトモエは取り押さえられ、俺は病院に運ばれた。

 病室で警察に聴取された。どう見ても俺の方が重傷な上、マイコが証言してくれたので、正当防衛が認められそうだ。トモエが部屋の合鍵を不正に所持していたことも、俺にとって有利に働いた。

 トモエは誰も殺さずに済んだ。地獄に堕ちる人間はいない。殺人未遂の現行犯なので塀の向こうに行くことは確定だろうが、あんな危ない人間をそのまま世に放つよりは、とても穏便な結末だろう。そのまま誰も殺さず生涯を全うしてほしい。

 当面の危機は去ったので、バンバンは死神の通常業務に戻っていった。人間の食べ物が食べられなくなると嘆いていた。

「こんにちは、調子どう?」

 マイコが見舞いにやってきた。いつの間にか年も明け、世の中は元旦である。

「主治医の正月休みが終わったら退院だよ」

 変えられない運命も、この世にはある。その話をしなければ、俺にとってこの事件は終わらない気がした。

 窓からは明るい光が差し込んで、広い部屋にはぬくもりが満ちている。

「マイコ、俺たち別れよう」

 暖かい部屋だけど、暖かいことを話せるとは限らない。

「うん」

「俺の住所をトモエに教えたな?」

 俺にとって一度目の十二月二十日、俺はマイコのせいで殺された。

「最初にトモエに殺されたのは、マイコ、お前だったんだろう。マイコは十二月を合計で三回ループしている。違うか?」

 マイコは目を伏せ、頷いた。

「ごめんなさい。キョウヘイ君を死なせてしまって」

「謝るなよ。好きな女の為に死ねるなんて、男冥利に尽きるってものだ。代わりと言っちゃ何だけど、答え合わせに付き合ってよ」

 マイコはベッドのそばのスツールに腰掛けた。同意を得たと思って話し出す。

「マイコにとって一回目の十二月、マイコはトモエに殺された。理由はわからない。トモエの頭の中を察することは、さすがにできなかった」

「結婚する前に心残りをなくしておきたかったとか、なんとか言っていたよ。多分、私を殺して、その後キョウヘイ君も殺すつもりだったんじゃないかな」

 俺は、うげ、と顔をしかめた。本当にやりそうだ。

「マイコはトモエに殺されて、天使に人殺しをさせた罪で地獄に堕ちることになった。だが、地獄のルールに従って、もう一度チャンスを与えられた。トモエに殺されなければ地獄行きを免除される、どこか理不尽な救済措置」

「キョウヘイ君も死神に会ったんだね」

「ああ」

 マイコもバンバンに会っている。後の祭りだが、マイコの部屋でバンバンが見つかっても説明できたかもしれない。当時の俺が知る由もないので、考えてもどうしようもないことではあるが。

「二回目の十二月、マイコは何かを変えた。それによって、マイコではなく俺が死んだ。推測だけど、俺を振って、恋人でなくなった後、俺の住所をトモエに教えたんじゃないか。そのせいでトモエは俺に求婚し、振られて殺害し、無関係の他人になったマイコは助かった」

 実際のところトモエは俺の住所を知っていたので、重要なことはマイコと俺が別れた事実だ。その情報によって、マイコはトモエの興味から外れた。

「びっくりしたよ。気づいたら十二月一日に戻されたんだもん。私の代わりに誰かが殺されたんだとは、すぐわかったけどね」

 そしてここからが、俺が復活した後に起こったこととなる。

「俺はマイコと別れなければ助かると思っていたけど、そういうわけでもなかったな。一方で、マイコは自分が助かる方法を知っている。俺と別れ、トモエを押し付ければ、マイコは少なくとも死なない。俺が死んで一回限りのチャンスを逃そうと、生き残ろうと、どのみちマイコはセーフ。ループも終了。だから頑なにマイコは俺と別れようとした」

「明らかにキョウヘイ君の態度が違ったから、殺されたのがキョウヘイ君なのは明らかだったね。それで必死に私と付き合い続けようとするから困っちゃった。急いで別れないとトモエさんが殺しに来るから」

 俺が粘り、マイコが突き放す。その結果、俺にとって二度目の十二月二十日、マイコからはっきりと別れを宣言されることになった。

「マイコはそれで助かると思っていたが、念のために、トモエと戦う準備もしていたな」

「あ、気づいたんだね」

「自分の生死を分けた傷だからな」

 俺は入院着の下、胸の傷を指さす。

「あの包丁、刃を潰して切れなくしていたんだろ。十二月十日に俺が使ったときは、手入れが行き届いた器具だと感じた。でも、二十日は使い辛かった。ニンジンすら切るのに苦労するほどに」

 トモエは持参した包丁と、現地の包丁二本で殺そうとした。俺の一回目も二回目も。おそらく、マイコの一回目も。

 相手の武器から殺傷力を奪っておく。対抗手段の一つとしては悪くない。やれることは全てやるべきだ。

「あの包丁が、マイコがループしていると思ったきっかけだ。あとは、なぜトモエが俺の住所をマイコから聞いたと言ったのか、という疑問と付き合わせると、辻褄が合う気がした」

 リカからも聞いたと言っていた理由はわからない。トモエがリカから巧妙に聞き出したか情報を盗んだか。俺が知らないだけで、リカとトモエの間で何かの約束が為されていた可能性もある。俺と別れることは受け入れるけど、住所は教えて、といったような。

 もしそうなら、「何でもいうことを聞く券」一枚分で許そう。一応、後遺症もなく治ると言われている。

「うん。その通りです」

「どうして、二人で助かる道を探してくれなかったんだ」

 マイコが生きていてくれて嬉しい。そのために俺が死ぬのは、まあ、いい。惚れた弱みだ。でも、俺は二人とも助かる道を探そうとした。誰も不幸にならない未来を求めた。

 なぜマイコは諦めたのか。

「キョウヘイ君、私はもう、あなたのことを嫌いなんだよ」

 俺は笑った。マイコも笑った。久しぶりに見る、マイコの素直な笑顔だった。

 それだけで、全ての説明になった。

死んでも構わないと思われながら、それほど嫌われながら、相手を愛することができるほど俺に忠誠心はない。

これが、本当に最後。

「マイコ、最後にさ、握手してくれないか」

「いいよ」

 俺とマイコは右手を握り合った。

「さようなら、マイコ。天国で会おう」

「さようなら、キョウヘイ君」

 あなたが地獄に堕ちても、特に気にしないよ。

 そう聞こえた気がした。

 一人になった病室に、うららかな光に乗って新しい年がやってくる。


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容疑者天使の殺人禁止 佐伯僚佑 @SaeQ

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