松茸と、もらえない彼女の返事

トモユキ

第1話 松茸と、もらえない彼女の返事

「いらっしゃ~い、開いてるから入って入って!」


 扉の中から聞こえた明るい声に、僕は内心ホッとした。「おじゃましまーす」と一声かけて、玄関扉を開ける。

 玄関入ればすぐキッチン。後ろ姿の彼女は、忙しなく夕食の準備をしてくれている。

 広くもないが狭くもない、でも家賃だけはそこそこ高いこの1Kのウリは、キッチンが広い事だ。どーしても二口ふたくちガスコンロじゃなきゃ嫌だとゴネる彼女に付き合わされ、ようやく見つけた賃貸物件。今思えば、あの時諦めずに探しておいて良かった。


「座ってて。炬燵おこた用意しておいたから」

「僕も手伝うよ。一人じゃ大変だろ?」


 いつもなら彼女に任せきりの僕も、今夜だけは特別だ。自ら手伝いを買って出る。


「へー、珍しい。やっぱりこれがあるとないとでは、扱いが違いますな……じゃーんっ!」


 僕が荷物だけ置いてキッチンに戻ってくると、彼女は待ち構えていたかのように、両手で竹籠を持って見せびらかした。


「おお!」


 丸い竹籠に敷かれたヒバの葉の上には、ご立派な松茸が六本。ずんぐりとすぼまったものもあれば、雨傘のように開いたものもあって、どれも大ぶりだ。

 顔を近づけるまでもなく、松茸独特の上品な香りが鼻をくすぐってくる。


「昨晩帰ってきたら、送られてきてたの。これだけ立派な松茸は、なかなか手に入らないわよ」

「松茸って高級食材を通り越して神秘的ですらあるよな。オーラが違うっていうか」


 冗談でハハーッと頭を下げて、パンパンと柏手かしわでを打つ僕に、彼女はちょっと驚いたような表情を見せた。


「ん? きのこ教の礼儀作法、間違ってた?」

「あはは、何よそれ。……こっちを拝むより先に、送ってくれた兵庫のお祖母ちゃんに感謝してね」


 そう。彼女は兵庫県、丹波摂津たんばせっつの生まれ。

 服飾デザイナーの駆け出しという、ドラマのヒロインみたいな仕事をしている彼女は、その都会的な見た目とは裏腹に、かなりの田舎育ちである。

 山で山菜やきのこを採っては、家で夕食にしていた本格派で、彼女の料理スキルはなかなかのものだ。

 そんな彼女から、「実家から松茸が届いた」とメッセ―ジが来たのは今朝の事。今夜の松茸料理に誘われたからには、仕事なんて二の次三の次。間髪入れず、絶対行くと返事した。

 なんといっても、松茸は足が早い。採取日から二、三日で味が損なわれていくと聞く。今夜を逃す手はない。

 この降って湧いた松茸案件はトッププライオリティ。僕は彼女と松茸のために、二件のアポを延期した。


「さて……手伝ってくれるのは嬉しいけど、あなたにお願いできるのは洗い物くらいしかないの……それでも良い?」

「もちろんなんでもするさ。手伝いたいっていうのは、君の料理スキルを盗むための口実だから」

「ふふっ、本当は私の料理スキルを見極めるためなんじゃないの? まぁいいわ。次は私が、あなたの腕を見てあげるから」

「目玉焼きならプロ級なんだけどね。松茸は失敗できない、君に任せるよ」


 彼女は「頑張らなくっちゃ」と気合を入れ直すと、二口コンロの上に乗っている鍋を振った。

 黄金色の出汁の中には葱と、一口大に切った松茸が泳いでいる。


「これは松茸の下ごしらえ。羅臼昆布と本枯ほんがれ節で取った出汁に、砂糖の代わりに葱を入れておくの。葱の青い部分は、温めると甘みが出るのよ。あとは薄口醤油と、酒と塩で味を整えてから、スライスした松茸を投入」

「炊き込みご飯用? 随分大きく松茸を切ってるんだな」

「厚みがある方が歯ごたえがあるし、なんといっても松茸ご飯を食べてる感、出るじゃない?」

「なるほど」

「私のお祖母ちゃん曰く、松茸は演出なんだって。見せてナンボ、かぐわってナンボ」

「高そうな檜の木箱に入れたり、わざわざ緑のものを添えたりするのも、高級感を出す演出だもんな」

「土鍋もそうかな。これでご飯炊いた方が、美味しく感じるものじゃない?」


 彼女は、もう一つのコンロの上に置いてある土鍋の蓋を開けた。中には水に浸かった米が入っている。


「確かに炊飯器より、こっちの方が風情は出るな」

「でも、このまま炊くわけじゃないのよ」


 さっきの鍋に戻ると、彼女は菜箸で松茸をつまんでボウルに移す。残った出汁をキッチンペーパーで濾して不純物を取り除き、ボウルの中に移し替えた。黄金色に輝く出し汁は、それだけ飲み干しても旨そうだ


「この出し汁でご飯を炊きます。さっきの松茸も一緒にね」


 彼女は土鍋の水を切ると、出し汁と松茸を入れた。蓋をしてキッチンタイマーの時間を設定すると、土鍋に火をかける。


「うわー、これは炊けるのが待ち遠しいな」


 これが美味しくないわけがない。お腹が早くも、ぐぅと鳴った。


「ふふっ。炊けるまで待っててなんて言わないから、安心して」


 彼女が冷蔵庫から取り出したのは、真っ赤な大皿だ。サシが細かく入った牛肉は、見るからにA5ランク。


「お祖母ちゃん、松茸と一緒に三田牛さんだぎゅうの肩ロースも送ってきてくれたの。これで、すき焼きにしましょう」

「おお! やっぱ肉もあると、テンション上がるな!」

「はい、じゃあお手伝い。これ、炬燵に持っていって!」


 ガスコンロと鉄鍋を渡されると、僕は部屋に行って炬燵テーブルの真ん中に置いた。

 更に肉の乗った大皿、卵、取り皿。日本酒一升瓶、徳利とっくりとお猪口ちょこ。二ぜんの箸。

 炬燵の上は秋を通り越して、すっかり冬の装いだ。

 彼女はキッチンで手際よく割り下を作りながら、こちらに声をかけてくる。


「すぐ始められるから、鉄鍋に牛脂を馴染ませておいて」

「オッケー」


 僕は、鉄鍋を載せたガスコンロに火を付ける。ほどよく温まったところで牛脂を落とすと、まるで氷のようにみるみる溶けていく。ぶよぶよした残りカスなど微塵も残さず、牛脂はあっという間に消えてなくなってしまった。三田牛は、牛脂まで上質なのか。

 そこに現れた彼女は、割り下を入れたポットと、大皿をもう一枚持ってきた。

 皿の上にはたっぷりの葱と白菜。そして厚みをふんだんに残してカットされた、松茸が乗っていた。


「えっ!? 松茸をすき焼きで食べるの!?」

「もちろんよ。このすき焼きは松茸がメイン。松茸と三田牛のすき焼きよ」


 すき焼きと言えば、メインがお肉なのは世界の常識だ。

 ましてやこれは、A5ランクの三田牛。いくら松茸といえど、肉と対等に渡り合うのは難しいんじゃないだろうか。

 彼女はまず、葱と白菜を鉄鍋に入れた。少し火が通ったところで厚く切った松茸と三田牛を並べると、ポットから割り下をさっとかける。煮立つのを待つ間に、一升瓶を開けて徳利に移し替える。流れるような手際の良さだ。


「お酒も、お祖母ちゃんからのお土産。三田市地酒の千鳥正宗ちどりまさむね、純米大吟醸の三福田さんぷくでん!」


 一升瓶のラベルを見せて微笑むと、彼女は徳利を使って僕のお猪口にお酌をしてくれる。お猪口の底に見える蛇の目が、日本酒を通してふっくらと浮かんで見えた。

 一口飲むと口の中にフルーティな香りが広がって、酒が喉元を過ぎる頃に、香りが鼻から逃げていく。

 端麗辛口とはかくあるべきか。とてもふくよかで上品な味わい。さすが大吟醸。

 

「丹波は日本三大杜氏とうじのひとつ。千鳥正宗は地元では有名な蔵元でね。小学校の社会科見学の定番だった」

「その頃から君は、飲んべえなのか」

「もうっ、そんな事言う人には、松茸取ってあげないからね」


 彼女は鉄鍋から菜箸をあげる。その先端には、いい具合に赤みを残した三田牛と、割り下が絡んでぬるりと光る松茸。僕の取り皿を受け取ると、取り分けてくれる。


「はい、どうぞ。最初にお肉。その後に松茸よ」

「おお、ついに! いただきます!」


 牛肉を箸でつまみ上げ、冷めないように溶き卵をサッと通す。そして熱々のまま口に放り込んだ。

 まるで舌の上でとろけるように、牛肉が消えていく。濃い目の割り下も溶き卵のおかげでまろやかに。一緒に煮たおかげか、松茸の仄かな香りまで漂ってくる。これは、絶っ品!

 肉の余韻を味わいながら、日本酒をくいっと一口。こんな贅沢な事、あっていいのだろうか!?


「これは……たまらん。今すぐ兵庫に引っ越したくなる……」

「あはは。これで松茸食べたら、丹波の山ごもりだね」


 そう。次はいよいよこのすき焼きのメイン、松茸だ。

 箸で掴んだ感触すらも重量感を感じる大きさ……きのこの頭部が、割り下と肉の脂でテラテラと光って色が濃くなっている。きのこの形状を崩さない包丁の入れ方も、彼女が言っていた演出のひとつなのだろう。

 しかし、実際の味はどうなのだ。本当に肉をサブキャストにしてしまうほどの美味しさなのか。

 先ほどと同じく、溶き卵を一瞬くぐらせると、その大きな身を口に含んだ。


 キタ。


 サクサクとした歯ごたえと共に、旨味成分が口腔内いっぱいに広がっていく。先程の三田牛が重厚な突撃部隊とするならば、松茸は、芳醇な香り放つ癒しのエステティシャン。

 松茸に割り下の味と肉の旨味がコーティングされ、それでも更に香り立つ芳醇な調べが、美味しさの調和を奏でてている。

 最高級の三田牛は、確かに絶品だった。そしてこの松茸は圧倒的な風味と品格で、肉を従わせている。

 それは、人工栽培を許さない天然自生の松茸だけが持つ、誇り高き香りの魂。厳しい自然の中ではぐくまれた、きのこのメランコリー。


 松茸の香りで化粧した三田牛、三田牛の脂と旨味でコーティングされた松茸、メインだサブだの、陳腐な論争はもういらない。

 すき焼きという舞台で、互いを生かすこの名配役キャスティングこそが、究極の料理と言えるのだ。


「どう? どう?」


 しっかりと余韻を味わう至福の僕を楽しそうに眺めながら、彼女は前のめりになって話し掛けてくる。


「なんていうか……今まで食べた事もない、究極の一品だと思う。まるで神々の食卓というか……」

「ふふふ、相変わらず大袈裟でよろしい。葱や白菜も煮えてるから、一緒に食べるんだよ」


 確かにこの究極のすき焼きを、一気に食べてしまっては勿体ない。取り分けてもらった葱や白菜を口に運ぶと……これだけでもご馳走だ。

 割り下に肉の旨味と松茸の香りが溶け出ているから、それと絡めるだけでなんでも美味くなってしまう。これはお酒も進む。こっちも旨い。

 彼女も肉と松茸を頬張っては、頬に手を当て喜んでいる。


「それにしても……君はこんな絶品料理を小さい頃から食べてたんだろう? 羨ましすぎるな」

「それは誤解ね。こんな贅沢なご飯、そうそう食べれなかったよ。松茸が採れたって、そのほとんどはすぐ売っちゃうし」

「君も松茸、自分で採った事あるの?」


 ふと彼女は箸を置いて、真剣な眼差しを僕に送ってくる。

 そんなシリアスな質問をした気もなかった僕は、彼女の意外な反応に、ドキリと大きく胸を鳴らした。


「採ってたよ。たくさん」

 

 背を丸めて、お猪口の酒をちろりと舌で嘗めながら、彼女はポツリと呟いた。


「あなたに、聞いてほしい話があるの」


* * *


 私は小さい頃から、お祖母ちゃんと一緒に山に入って山菜やきのこを採ってた。特に秋はシーズンだから、毎日のように山に入っていたわ。

 採ったきのこは、きのこ鍋とかにして食べるんだけど、松茸だけは違うの。

 お祖母ちゃんは松茸が採れると、知り合いの料亭に直接持って行ったり、全農に買い取ってもらったりしてた。

 当時は今ほど高騰していなかったんだろうけど、それでも松茸採りは、お祖母ちゃんの年金の大きな足しになってたんじゃないかしら。


 お祖母ちゃんは周りの人から、松茸名人って呼ばれてた。しょっちゅう松茸を売りにくるから。

 でも実は、松茸をよく見つけていたのはお祖母ちゃんじゃなくて、私だったの。

 お年寄りには危険な斜面でも、子供ならすいすい行けちゃうから。人目に付かない松茸を見つけるのが、私の特技だった。


 お婆ちゃんはそんな私に、よくこう言って聞かせたわ。


『アンタは山神様に見初められてるから、こんなに松茸を見つけられるんだよ。でもそれは絶対、他の人に自慢しちゃいけない。

 好きな子が皆に知られちゃったら、山神様が恥ずかしくなっちゃって、もうアンタに松茸を採らせないようになるから』


 私はその言いつけを守った。お祖母ちゃんが松茸名人扱いされてる横で、黙ってニヤニヤしてた。

 それ見つけたの、私なんだよ! 山神様が私の事好きだから、松茸いっぱい見つかるんだよって、心の中で自慢してたんだ。


 その事を知らないお父さんとお母さんは、私が頻繁に山に入っていく事をよく思ってなかった。

 やっぱり山は危険だからね。熊に襲われたり、マムシや蜂に刺されたり。山から滑落して亡くなる人が出るのも、決まって松茸が取れる季節だったし。

 お祖母ちゃんも危険だって事はもちろんよく分かってて、絶対に近づいちゃいけないポイントを教えてくれた。松茸がありそうだと思っても、そこだけは絶対に行かないよう、口酸っぱく言われていたの。


 ある日、その行ってはいけない急斜面の下に、ちらっと動く人影が見えた。

 動物かなと思って目を凝らすと、空中の何かを必死に掴むように、真っすぐ伸びた子供の手の平が見えた。子供が斜面を滑り落ちて、あそこまで転がって行っちゃったんだと思った。

 お祖母ちゃんを呼びに行ってたら、また滑り落ちて見えないとこまで行っちゃうかもしれない。私は声を張り上げながら、斜面を滑り降りて行った。

 その男の子の手を掴んだ瞬間、斜面の土砂が一気に崩れ始めた。私は咄嗟にその子を強く抱いて、降りかかる土砂からその子を庇った。

 抱きしめた瞬間、なぜかとても優しい匂いがしたのを今でも覚えてるわ……。


 目が覚めた時、私は砂利の地面に寝てた。どうやら私は、誰かに助けられたんだと思った。

 身体は泥だらけだったけど、どこも痛くない。ケガひとつないのは本当に幸運だった。

 起き上がって周りを見渡しても、霧が濃くて遠くまで見渡せない。人の気配も建物もなくて、助けたはずの男の子の姿も見えなかった。

 見えたのは、霞みの中に佇む古びた木造の鳥居だけ。

 その鳥居をボーっと見上げていたら、向こうから子供が駆け寄って来た。さっき助けた男の子だった。

 二人とも無事だった事にほっとしていたら、その男の子はすごい勢いで私に謝ってきた。


 『ごめんなさい。こっちに松茸があるよって手を振ってたら、こんな事になっちゃった。巻き込むつもりはなかった』って。


 私はお姉さんらしくしなきゃと思って、男の子に注意した。

 何度も山に入ってるお祖母ちゃんも私も、あんな急斜面には絶対採りに行かないよ。もう山で危険な場所に行っちゃダメだよって。


 そしたら男の子は急に笑い出した。笑いごとじゃないよって言い返すと、『ごめんごめん』と言って、必死に笑いを堪えようとしてた。

 何が可笑しいのか分からない私も、その堪えた顔がとっても変だったから吹き出して。結局二人で大声で笑い合っちゃった。

 ひとしきり笑った後、男の子は私にこう言ったの。


 『お姉ちゃんが気づいてくれるから、それが嬉しくて何度も手を振っちゃった。これからは気を付けるよ』


 私に向かって手を振ってたの? って訊き返そうとしたら、私は急に意識が遠のいて、その場に座り込んだ。

 男の子が更に何かを話し掛けてたみたいだけど、その言葉は憶えてない。

 私は意識を失うように、眠ってしまった。


 次に目が覚めた時、私は病院のベットの上だった。

 私は突然起きた土砂崩れで、山から滑落して気を失っていたようだ。発見された時、私は奇跡的に土砂に飲み込まれてなくて、そのおかげで助かったんだって。

 男の子が斜面の下で転んでたから助けに行こうとしたと言っても、大人達は「そういう見間違いをして斜面に入って行ったんだね」と言って、全然相手にしてくれなかった。


 両親と先生が出ていくと、病室は私とお祖母ちゃんの二人だけになった。

 お祖母ちゃんは、私の泥だらけになった上着を膝の上に置いて、厳しい顔で問いかけてきた。

 あの斜面に松茸があるのが見えたから、採りに行ったんじゃないだろうね、って。


 私は必死に否定した。違うよ、本当に小さい男の子の手が見えたから、助けに行こうとしたんだよって。

 さっき説明した事の繰り返しだったけど、お祖母ちゃんは夢で見た男の子の話まで、全部真剣に聞いてくれた。

 話が終わるとお祖母ちゃんはひとつ溜息を吐いて、膝の上着を広げた。

 目の前に広げられた、泥だらけの上着。そのポケットからお祖母ちゃんが取り出した、大きな塊。

 それは見た事もないくらい太くて立派な、つぼみの松茸だったの。


 この松茸は、その男の子が助けてくれたお礼に、入れておいてくれたのかもね。

 お祖母ちゃんは笑いながらそう言って、私にその松茸を渡してくれた。

 土の残る松茸は優しい匂いがして。私は夢で見た男の子を思い出した。


 あれはひょっとして山神様だったのかなってお祖母ちゃんに言ったら、きっとそうだろうと言ってくれた。


 その松茸は売りに出す事なく、神棚にお供えしてから、今日みたいにすき焼きにして皆で食べた。

 その時初めて、私はこのすき焼きの作り方を、お祖母ちゃんから教わったのよ。


* * *


 話が終わると、計ったようにキッチンタイマーの電子音が鳴り響いた。


「あ、ちょうど炊けた。松茸ご飯、持って来るね」


 腰を上げて、キッチンに消えていく彼女。

 炬燵の上には、綺麗に食べ終わったすき焼きの鍋、大皿、そして、蕾と呼ばれる傘が開いていない松茸が一本、残っていた。

 この松茸も立派だが、彼女が山神様からもらったという松茸は、もっとすごい一本だったに違いない。


「ねぇ、悪いけど、鉄鍋とコンロ下げてきてくれる? 土鍋そっちに持っていくから」


 僕も立ち上がって、すき焼き道具をキッチンへ下げていく。

 渡された台拭きでテーブルを綺麗に拭くと、彼女が鍋掴みを両手に付けて土鍋を持ってきてくれた。さっと敷いた鍋敷きの上に、土鍋は音もなく鎮座する。

 茶碗としゃもじも準備万端、いよいよ土鍋の蓋が開かれる。松茸ご飯のお披露目だ。


 部屋いっぱいに松茸の香りが広がると、出汁で薄化粧をしたご飯と、松茸が顔を覗かせる。

 彼女がしゃもじで混ぜていくとさらに匂い立ち、すき焼きで満たされたはずの僕の胃が、まだまだいけると気合を見せた。


 まずは味見と、軽く茶碗によそってもらう。

 出汁の利いたご飯はピンと立ち、おおぶりに切られた松茸を元気いっぱい押し上げている。

 逸る気持ちを抑えつつ、箸で松茸とご飯を小さく取って、一口。


 幸せの香りが、口の中に充満していく。確かな歯ごたえはやはり松茸で、ちょっと固めのご飯とちょうどいい塩梅だ。

 夢中で食べていると、彼女が箸休めに梅干しとしば漬けを出してくれる。このしょっぱさがまた、松茸ご飯に合う!

 これは何杯でもお代わりできそうだ。


「やっぱり土鍋で大正解。おこげも美味しい!」

「お代わり! 僕にもおこげ、入れてくれ!」


 二人で炬燵に入って、ホクホクと食べる松茸ご飯は、幸せ以外の何者でもない。小さい茶碗ながら、僕は三杯もお代わりした。


「さすがにもう、満腹だ~! ご馳走様。すごい贅沢な松茸料理だった」

「お粗末様でした。明日の朝は、すき焼き鍋に残ったお汁でおうどん作るから。これも絶対美味しいよ」

「それは楽しみだなぁ、これも使うの?」


 僕は、テーブルに残った最後の松茸を顎で指す。


「最後の一本は、炭火で網焼きにしようと思って。道具がないから明日、一緒に買いに行ってくれる?」

「もちろん。また来年も使えるしね。なんてったって君は、真の松茸名人なんだから」


 彼女は困ったように笑うと「ごちそうさま」と言って箸を置いた。


「実は私ね……もう松茸名人じゃないの」

「え?」

「あの滑落の日以来、私、松茸が見つけられなくなっちゃったんだ……ホントもう全然、一本たりとも……。だからお祖母ちゃんと一緒に山に入る事もなくなって、代わりに料理を仕込まれたの」

「へぇ……それってひょっとして」


 僕の脳裏に浮かぶのは、手を挙げかけて躊躇する、小さい男の子の姿。


「山神様が、君を二度と危険な目に合わせちゃいけないと思って、手を振らなくなったから?」


 彼女は驚いたように顔を上げ、僕を見つめてくる。

 僕が微笑むと、彼女は眉をへの字にして申し訳なさそうに口を開く。


「私はもう、山に入っても松茸は採れない。今回はお祖母ちゃんに言ったら特別に送ってくれたけど、こんなのは最初で最後、特別中の特別。あなたがまた来年も食べたいって言うのなら、正規の値段で買うしかない」

「ちなみに今日食べたの、全部合わせるといくらくらい?」

「うーん、十万円前後かな?」

「安いくらいだ」


 やっぱり、結構するんだな。


「毎年秋になったら……松茸料理、私に作らせてくれる?」

「また来年の秋も、こうして二人で松茸を食べよう。だから……この前のプロポーズの返事、聞かせてくれるかな」

「今は……まだ、その……ごめんなさい」

「そっか……」


 おずおずと、机の上の松茸を指差す彼女。


「違うの……松茸まだ、残ってるから……明日それを食べきったら、お返事します」


 頬を真っ赤に染めて、はにかむ彼女の笑顔は、まるで少女のようにあどけなくて。

 そりゃ神様だろうと何だろうと、嫉妬しないわけがない。


 僕は土鍋の蓋を取って、テーブルの上の松茸に被せると、彼女を抱き寄せて唇を重ねた。

 彼女の唇は香り立つ上品な、松茸の匂いがした。

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松茸と、もらえない彼女の返事 トモユキ @tomoyuki2019

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