おまけ:天使が舞い降りた日

「あれ、嘘、まじかよ!?」

 鞄をまさぐり、目当ての物が見つからず、逆さまにして中身を床にぶちまける。着替えをしている部員達がこちらを振り返った。


「なん。どうしたよ、一哉」


 疑いの気持ちが恐怖に変わり、サーっと血の気が引いた。問いかけに答えられるほどの余裕がない。部活用のトートバッグからこぼれ落ちたのは、ペットボトルと黒帯、そして道着の上着。俺は今、道着の上着を着ていて下はパンツ一丁という格好。


「もしかしてお前……」

 副将の龍がワナワナと震える指をこちらに向ける。俺は恐る恐る頷いた。


「道着のズボン、忘れた……」


 ***


 全国大会をかけた柔道の試合。俺は大将を務める事になっていた。前夜からそわそわして早めに準備しておいたはずなのに、なんで上着二枚持ってきてズボン忘れてんだよ、俺。


 試合会場は家から電車で一時間。母さんに電話して持ってきてくんないか頼んだら、「仕事だから無理」とすげなく断られた。俺の母親は婦人警官。今から駐車違反のパトロールに出るところらしい。


 顧問の四月一日わたぬき先生の道着を家族に持ってきて貰うことになった。タクシーで駆けつけるにしても、試合に間に合うかギリギリのところ。校門でタクシーを待ち受ける。上は道着に黒帯、下は学生服のズボンというダサい格好だが、背に腹は代えられん。


 真夏の日差しがジリジリと照りつける。道着って暑いんだよな。だけど受け取ってすぐにズボンだけ履き替えて試合会場へ走らなければならないので、上着を脱ぎたい気持ちを堪える。


 通りの向こうから黒塗りのタクシーが走ってきた。俺は大きく手を振る。門の前でキーというブレーキ音を上げタクシーが停車し、後部座席のドアが開いた。


 そして、天使が降りてきた!


 腰まで伸ばしたさらさらの黒髪、サイドアップがお嬢様感を醸し出している。くりっとしたつぶらな瞳。顔、ちっさ。俺の握りこぶしくらいか? ミニのフレアスカートから覗いている足、細くて長くてめっちゃ綺麗!


 彼女は俺の胸に紙袋を押し当てた。


「何してるの、早く着替えて!」

「あ、は、はい!」


 慌ててズボンに手を掛ける。

「ちょっと! せめて物陰に隠れてよ! 門の真ん前で着替えたら変質者じゃない! お父さんの顔に泥を塗らないで!」

「あ、そっか!」


 俺は門の影に身を隠す。彼女はこちらに背中を向けていた。四月一日先生の娘さん、めっちゃ可愛い。でも、なんでまだそこにいるんだろう?


 急いで着替え終わると、彼女は顔を背けたまま腕をこちらに伸ばしていた。

「着替えたズボン、持っててあげる」

「あ、ありがとう」

 紙袋に学生ズボンを押し込み、彼女の指先に掛ける。彼女は振り返り、笑顔を向けた。


「試合、頑張ってね!」

「は、はい!」


 俺は握りこぶしを顔の前に翳し、頷いた。


 ***


 天使の応援のお陰で俺は絶好調。順調に勝ち進み決勝戦までこぎ着けた。先鋒は勝ったが流石に決勝戦の相手、次鋒と中堅は勝ちを逃した。副将の龍は辛うじて勝ち抜け、大将戦で勝敗を決することになった。


「いつも通りの調子で行け!」

 四月一日先生が大きな手で俺の背中を叩く。

「はい! 勝って戻ります!」

 俺は頷いた。先生の後ろで天使が胸の前に両手を組んでこちらを見つめている。


 絶対、良いところ見せてやるっ!


 俺は大きく肩を揺らした。


 相手は百八十㎝を越える大男だ。まともに組んだら一本取られる。俺は足を使い、回り込む。お互いに襟を掴み、引き手を取ろうと探り合う。


 すっと長い足が伸び、払い巻き込みを仕掛けてきた。俺は咄嗟に避ける。体制が崩れた隙を突き、身体を引き寄せて大外刈りを仕掛けた。しかし、技を崩される。地面に崩れた時足首に痛みが走った。不自然に曲がった状態で、体重をかけてしまった。やばい、くじいた。


 しかし、俺は動きを止めなかった。倒れた相手の身体に覆い被さり、袈裟固めを仕掛ける。技を解こうと蠢く巨体を、体中の力を使って押さえつける。二十秒だ。二十秒押さえ込めば一本だ。


 これまでの人生で最も長い二十秒だった。主審の手が高々と天井に突き上げられる。その瞬間、全身の力が抜けた。


 歓声が上がる。仲間が立ち上がり手を叩いている。俺は立ち上がった。しかし、次の瞬間足首に激しい痛みを感じ、膝をついた。


「一哉!」

 四月一日先生が駆け寄って来るのが見えた。その後ろで、天使が俺を見つめている。


 ***


 病院の待合室に天使と並んで座っている。表彰式に出ることは叶わず、病院に直行することになった。先生は付き添いを娘さんに頼んだ。怪我のお陰で、俺は彼女と二人きりになる事が出来た。


「良かったね、捻挫で」


 天使、もとい咲愛良さんが笑顔でそう言った。俺は頷き、鼻の頭を掻く。


「良かったっす。安静期間は必要だけど、後遺症も残らないみたいだし。全国大会にも、間に合いそうだし」

「うん。……全国大会かぁ、すごいなぁ。応援に行っちゃおうかなぁ」

「え? まじで?」


 咲愛良さんはこくりと頷いた。


「だって、監督してるお父さん、格好良いんだもん」

「え……」


 思わず声を上げて彼女を見る。咲愛良さんは頬を染めてニコニコ笑っている。この子、ファザコン?


 ま、まあいいや。兎に角このチャンス、逃してはならない。出来るだけ仲良くならなきゃ。


「さ、咲愛良さんは高校どこですか?」

「ん? 青蘭女学院」


 小首を傾げながら答える。すげー、超お嬢様学校じゃん。


「何年生?」

「一緒だよ、二年生」


 そう言って、親しみを込めた笑顔を向ける。可愛い。この笑顔を独り占めしたい! よし、ならば攻めの一手だ!


「彼氏、いるの?」

 思い切って聞いてみる。咲愛良さんはポッと頬を赤らめた。


「い、いないよ。だって、女子校だもん。男の人と歩いてたら、怒られるんだもん」

「じゃ、じゃあ俺と付き合ってくれませんか!」


 あ……。攻めすぎた……。

 咲愛良さんはさっと俺から身体を引く。その頬が引き攣ったのが分かる。


「……すいません、いきなり……」

 俺は身体を丸めた。ああ、人生初の告白がこれ。勢いに任せすぎだろ、俺。馬鹿野郎だな、俺。


 自己嫌悪に陥る俺の耳に、クスクスと笑い声が聞こえる。


 恐る恐る隣を見ると、咲愛良さんが口元に手を当てて笑っていた。


「お父さんとお母さんが言ってた通りだ。瀬戸口一哉君。おっちょこちょいのあわてんぼうで、なんにでも一生懸命な子」


「四月一日先生と、仁美先生まで!?」


 四月一日先生の奥さんは、音楽の先生だ。凄く厳しいけど、めっちゃくちゃ生徒思いで有名。音楽とか家庭科の先生って生徒から舐められがちだけど、仁美先生の授業はいつもピシーッとしてる。


「いきなり付き合うのはちょっと。でも、お友達なら」


 咲愛良さんはそう言って、鞄から携帯電話を取りだした。ミルクティーみたいな可愛い色の電話だ。俺も急いでポケットから携帯電話を取り出す。


「スマホじゃないんだ。一緒だね。赤外線通信でいい?」

「う、うん」


 『一緒だね』。破壊力のある言葉を発し、微笑む天使。


 いつかこの笑顔が俺だけの物になりますように。

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