第59話 訪問者
「何か、悲鳴のような声が聞こえましたがどうされました」
「ま、松原さん!」
思わず叫ぶ。角刈りに細い目、額には三本の横皺。俺の上司に当たる松原巡査長が、住田義雄に肩を貸していた。住田義雄はぼんやりとした顔で、リビングを見渡している。貴和子の顔が見る見る青ざめ、困惑の視線を俺に向ける。
「エアコンの付いていない車に高齢者を置き去りにするのは、危険ですよ。……これは、どういう事態や?」
貴和子に向けられていた視線は床に転がる物達を辿り、最終的に俺に向けられた。俺は視線を彷徨わせて言い訳を探す。
松原さんは大きな溜息をついた。
「急に腹が痛いと現場を離れるから、怪しいと思ってな。位置情報を頼りにやって来てみれば、何やこの様は」
「い、一応、事件は未然に防ぎました……よ」
しまった。松原さんは俺の端末情報を確認できるのだった。松原さんに怪しまれているから気を付けてたんだけど、今回はうっかりしていた。一番大事な場面なのにな。俺、やっぱ警察官に向かないのかも。
松原さんは肩を竦め、住田義雄をソファーに座らせた。そして、さーらを見て眉をしかめる。
「酷い怪我や。意識も朦朧としとる。……なんで救急車を呼ばんのや」
「私は、大丈夫です」
「朦朧としているのは、睡眠薬のせいなんで」
困惑の表情で俺を睨む松原さんにさーらが小さく首を振り、俺が言葉を添える。
「睡眠薬?」
松原さんが眉の皺を深めた。しまった。この時間に睡眠薬を飲んで朦朧としている方がおかしいか。
小さな咳払いが聞こえた。その音に視線を向けると、背の小さな初老の男が口元に拳を当てていた。
五反田敬三は手を下ろし、松原さんに歩み寄ってきた。どうやら、ここが潮時だと判断したらしい。俺は大きく息を吐き出し、腹に力を入れる。
「十年前に起こった放火殺人事件と、八年前と六年前に死亡した二人の男性の殺しを彼女が自供したところです。捜査を依頼します」
彼は手の平のリモコンを操作した。プロジェクターの画面が点滅し、貴和子の後ろ姿が映し出される。
細く開いたドアから、中を覗いている。部屋の中から暴れているような物音と、女の小さなうめき声が聞こえる。
『貧相な小娘。欲情させるのに手間がかかったわ。レビトラは即効性があるけど欲情しないと勃起しないのよ。ジャスミン、イランイラン、フェロモン香水。小道具を準備するの、大変だった』
笑いながら貴和子が言う。
『そろそろ、お止めになった方が良いのでは?』
五反田敬三の声に貴和子は首を横に振る。
『どうせならやられちゃえばいいのよー』
『お言葉ですが、そうなると娘が騒ぐかも知れません。未遂の方が良いかと』
チッと舌打ちし、貴和子がドアを開ける。
『あなた!』
貴和子の声で、画面は一度途切れた。さーらが目を見開いて、画面を見つめている。彼女に向かって、敬三は目を細めた。
「証拠は残しておくものです。いざという時に役に立ちます」
映像の貴和子は両手を挙げ、踊るようにくるりと回った。その前で、本物の貴和子の顔が蒼白になる。
「全てを録画してあります。そしてこれが、裏付けの資料です」
三つ揃いのスーツの内ポケットから何かを取り出し、松原さんの手の平にのせる。
黒いUSBメモリーだ。
「黒田誠司の……。息子の残した事件の記録です」
「む、息子……」
喘ぐような声で貴和子が言い、五反田敬三は頷いた。ウェーブした白髪が、小さく揺れる。
「幼い時に離婚し、妻が養育しておりました。連れ子という立場が余計、劣等感を強めたのやと思います。ですが、警察官としての正義を、全く失った訳ではなかった」
「あんたと心中すると決めた日、俺にそれを託したんだ。誠司さんが死んだ翌日、書留で届いた。誠司さんは事件のことを詳細に記録していた。隠滅した証拠も含めてだ。いつか自首するつもりだったのかも知れないし、几帳面な性格がそうさせたのかも知れない。……もしも自分が一人で見つかったら、貴和子を見張って欲しい。もしも事件を起こしそうならば、未然に防いで欲しい。手紙には、そう書かれていた。手紙は敬三さんにも見せた。あの時点でたった一人の肉親だったから」
「私は息子を死に追いやったあんたを赦しはしません。傍で復讐の機会を、虎視眈々と狙っておった」
「な……」
貴和子は唇を歪めた。
「えーっと。詳細が良くわからんのやが。一端署に持ち帰り、精査してから出直すか」
「ちょ……」
頭を掻く松原さんに俺は慌てて手を伸ばす。猶予を与えたら、貴和子が逃亡してしまうかも知れない。取り敢えず身柄を拘束しなければ。
その時、コツコツとドアをノックする音が聞こえた。ドアは既に開いている。そのドアに、九条涼真がもたれていた。グレーのアルマーニの上着を肩に掛けて、足を組んでいる。相変わらず、キザな奴だ。
「お取り込み中すいません。お客さんを連れて来たんですが」
涼真は身体を起こし、リビングの中へ入ってきた。
ゆったりとした足取りだったが、突然走り出す。さーらの元へ辿り着くと、額の傷に手を当てた。
「咲良、大丈夫か!?」
さーらはぽかんと焦りを隠そうとしない眼前の男を見つめている。涼真の目が怒りに吊り上がり、俺を振り返る。
「誰がやった!?」
思わず貴和子に視線を向ける。涼真は拳を握り、立ち上がった。その腕をさーらが掴み、首を小さく横に振る。涼真は小さく呻き、一度固く瞑目してから拳を開いた。自分の腕を掴むさーらの手を握って頷いてから、それをほどく。そして、貴和子へ身体を向けた。
ゆっくりと歩み寄り、正面に立つ。そして、微笑みかけた。
「以前あなたは、美しいものが好きだと仰いましたね。僕と一緒や。僕も美しいものが好きです。女性も、会社も。内面から美しいものがね……」
この決め台詞、絶対用意してたやつだよな。涼真がドアを振り返ると、そこにスーツ姿の男が立っていた。彼はゆっくりと二人に向かって歩いてくる。身体の薄っぺらい男だ。年齢は涼真と同じくらい。銀縁の眼鏡が、いかにも神経質そうだ。
彼は鞄をまさぐり、そこから一枚の紙を取り出すと、貴和子に向かって翳した。
「えー。国税局のものです。脱税の疑いで今から強制捜査を執行します」
「強制、捜査……?」
貴和子が呻くように言葉を反芻する。敬三さんがスッと男の横に歩み寄った。
「地下に入室禁止の部屋があります。間違えて入ってしまった時に金庫を見付けました。地金商の営業マンの訪問も何度か確認しております」
敬三さんの言葉を聞き、銀縁眼鏡の男は人差し指で眼鏡の位置を整えた。眼鏡の奥の瞳が、キラリと鋭くなる。
「情報提供ありがとうございます。社長と奥様、その入室禁止のお部屋にご案内頂けますか」
住田義雄は睡眠導入剤の影響でぼんやりした顔をしていたが、「社長」という言葉に反応し、立ち上がった。
「ここは、協力せんわけにはいきませんな」
松原さんは貴和子の腕を掴んだ。嫌がる子供のように身体を捩って抵抗する貴和子の歩を、強引に進ませる。
「待ってください!」
さーらが立ち上がり、声を上げる。松原さんと貴和子は立ち止まり、振り返った。ふらつきながらもさーらは顔を上げ、貴和子の方へ手を伸ばす。
「貴和子さんが悪いことをするはずありません! 何かの間違いです!」
余りの驚きに口を開けてしまう。今暴力を振るわれたばかりじゃないか。額から溢れた血液が、さーらの白い頬を伝う。
「泣いている私に寄り添ってくれるような方なんです! 優しい方なんです!」
貴和子もまた、驚きに目を見開いている。しばらく無言でさーらと貴和子は見つめ合った。
徐に、貴和子が笑い出した。笑い声は次第に大きくなる。終いには腹を抱え、身体を折り曲げた。耳にキンキンと響くような高笑いを上げながら、両膝をバンバンと叩く。
「傑作ね。ほーんと父親そっくり」
笑いながら貴和子が言う。ヒステリックな笑い声が困惑した空気を震わせていたが、突然途切れる。シンとした空気の中、赤いワンピースの身体を起こした。その顔も、真っ赤に染まっていた。般若のように。
「馬鹿にするな! その目! そんな目で見るな! 珠希も省吾も、私を哀れみの目で見やがって! 私の方が金持ちになったのよ! 私の方が幸せになったのよ! 私が勝ったのよ! 馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
貴和子は腕を振り上げた。その手に、足元に落ちていたバタフライナイフが握られている。
俺はさーらの身体を掴み、大外刈りを仕掛けた。彼女の身体は呆気なく地面に落ちる。受け身を知らない彼女の後頭部に手を添えたが、小さなうめき声が上がった。
ソファーにナイフが突き刺さる。同時に涼真がさーらの名を呼んだ。顔を上げると、涼真は貴和子の身体を隠して立っていた。ナイフの軌道上だ。身を挺してさーらを守ろうとしたようだが、間に合わなかったという所か。ま、仕方ないな。映画や漫画じゃあるまいし、飛び道具が放たれてから動いても素人じゃ間に合わないんだよ。
「傷害未遂の現行犯で、逮捕」
松原さんが手錠を取り出した。
「俺の妻に何をする」
住田義雄のうめき声が聞こえる中で、黒い手袋を付けた手首に銀色の手錠が掛けられた。
「そのまま、強制調査にご同行頂きます」
ドアの前で、銀縁眼鏡の男が言った。
***
「だからこんなことに巻き込むのは嫌やったんや」
「悪かった。こうでもしないと貴和子の罪を暴けない。敬三さんも俺も、積年の恨みがあるんだ」
「そんなんは知らん。俺の咲良をこんな目に遭わせやがって」
「はいはい」
救急車の車内で、涼真は俺をジトリと睨んだ。さーらは軽い脳震盪を起こしただけで、すぐに意識を取り戻した。それなのに、涼真は救急車を呼ぶと聞かなかったのだ。
恐縮していたさーらだが、車の揺れと睡眠薬入りのアルコールが効いたのか、今はすやすやと寝息を立てている。
「それにしてもお前、仕事はえーな」
涼真がこの現場に駆けつけるのは予定外だった。涼真が頷く。得意げな顔がめちゃくちゃむかつく。
「ああ。彼は大学時代の同級生や。同郷ということで、仲良くなった。持つべきものは人脈。俺が駆けつけへんかったら、貴和子を逃がしてるところや。お前ほんまに警察官か?」
「うるさい。俺が電話しなかったら今頃泣きべそかいてやけ酒喰らっていたくせに」
薬物が出てきて会社に呼び出された日、俺は全てを話した。こいつは加害者家族と結婚するわけにはいかないと動揺し、さーらを囮に使って貴和子に自供させる計画にも反対した。ヘタレな奴だと軽蔑したが、一つだけ有益な情報をくれた。
昇陽建築は脱税の疑いで国税局から内偵を受けている。担当者が知人なので、強制捜査を急がせることが出来そうだという。
『貴和子が警察に身柄を確保されれば、息子の残した資料を使って自白に追い込めるかも知れない。だったら、彼女を囮に使うような危険な手段をとらなくても良いのでは』
敬三さんの提案で、さーらを囮にして貴和子に自供させる作戦は一端白紙にした。なのに、貴和子から「計画実行」の司令が入って焦った。
GPSは、涼真のマンションを示している。
ということは、GPS入りのプレゼントを突っ返されたんだなとピンときた。振られたかどうか様子伺いに電話してみたら、憔悴しきっていて笑えた。
さーらとヨリを戻すチャンスが来た!
と思ったけど、涼真はさーらに危険が迫っていると聞き、「俺は別ルートで貴和子を追い詰める」と息巻いたのだ。
まさかマジで国税局の職員を連れてくるとは思わなかった。こいつ、なかなかやるな。
貴和子は得意げに全てを話し、それをしっかり録画している。誠司さんの残した証拠と照らし合わせて追い詰めれば、四月一日先生の無実は証明されるはずだ。誠司さんの育ての父親は、自分が事件を隠蔽したせいで息子が自殺するに至ったと自責の念に駆られ、警察庁を辞した。捜査を邪魔する者は、もういない。
さーらの安らかな寝顔を見て、ちょっと胸が痛かった。涼真に向けた視線を見て、もう俺のさーらじゃなくなったんだと、実感したから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます