第60話 舞鶴港

 レクサスの助手席にラブが座っていた。思わず歓声を上げて抱き上げる。ラブの首にはピンク色のリボンが結ばれている。良かった。目を覚ましたらなくなっていて悲しかったんだ。


 よく見ると、首と胴の継ぎ目から所々糸がはみ出ている。リボンはそれを隠しているようにも見えた。涼真さんは照れくさそうに鼻の頭を掻いている。


「お裁縫は、なかなか難しいなぁ」

「涼真さんが縫ってくださったんですか?」

「まぁ……。ユザワヤのお姉さんにガラスペレットの詰め方とか縫い方とか教えてもろうたんやけど、実際やってみたら難しかった。レジンはすぐに上手くなったんやけどなぁ」


 そう言って私の手を取り、もう一方の手を重ねる。ひんやりとした感触に、ハッとした。重ねていた手が離れると、髪飾りが姿を現した。淡いピンク色で、白や水色の花が沢山封じ込められている。


「GPSは入ってないから」

 その言葉に思わず笑ってしまう。私は髪飾りを握りしめ、胸に押し当てる。手作りだって分かってたら、手放したりしなかった。これは絶対に、一生大切にする。


「ちょっと、ドライブ行こう。一週間も入院してたんやし、ええ空気吸いに行こう」


 入院してたのは涼真さんのせいなのにと笑いそうになる。額の傷は深くないし、睡眠薬は時間が経てば効果が消える。入院する必要はないとお医者さんが言ったのに、「精密検査を受けて身体の何処にも異常がないと分かるまで安心できへん」と譲らなかったのだ。


 入院中、涼真さんは毎日お見舞いに来てくれた。一度一哉を連れて来たことがあって、仲良く言い合いをする二人に驚いた。いつの間に知り合いになっていたんだろう。


 二人から色んな事を聞いて頭が混乱した。だから、気持ちの整理をつけるのに入院生活は丁度良かったのかも知れない。


 退院したら、今度こそどこか遠いところに行って人生をやり直さなければ。そんな覚悟も、出来たから。



 ***


 深緑の山に囲まれた深い入り江。深縹こきはなだ色の水面は凪ぎ、小島が鯨のようにぽかりと浮んでいる。湾を一望できる駐車場にレクサスを停車させると、涼真さんは車を降りた。戸惑っていたら助手席のドアが開いて、誘うように手が差し伸べられる。お姫様みたいな扱いに戸惑いながら、その手を取って車を降りた。清涼な風が淡く吹き渡り、潮の香りが鼻腔をくすぐる。鴎の声が鮮やかに耳に届く。


「ここ、どこですか」


 伸びをしている涼真さんに、問いかける。よくぞ聞いてくれたという顔で涼真さんは片目を閉じた。


「舞鶴港。今度釣りに連れてったるって言うてた所。……残念ながら、釣り道具は積んでこんかったけど」


 私に向かって手招きした後、遠くを指差した。そこには大きな客船がゆったりと停泊していた。


「新日本海フェリーや。舞鶴と小樽を毎日一往復結ぶ船」

「小樽? 北海道行きの船ですか?」

「そう。俺の人生の分水嶺たる場所。高校を卒業し、親の決めたルートから一度外れて北海道の大学へ進んだ時も、親父が病に倒れて自由を手放し京都に帰ってきた時も、あの船の二等寝台やった」


 遠い、遠いところを見つめるように船に視線を向けて涼真さんが言う。ポーッと汽笛が鳴った。驚いたように鴎が空に飛び立つ。白点が青空に散らばるみたいに。


「俺の人生に再び方向転換の時が来た。だから、ここへ来たんや」

「俺の……?」


 あれ、さっきから涼真さん、一人称が「俺」になってる。「僕」よりもワイルドで格好いいかも。チラリと見上げると、涼真さんと目があった。彼は悪戯を見付けられた子供みたいにチラリと舌を出した。


「実は俺、自分の事『僕』といか言う気取った人種嫌いやねん」

「……へ?」


 思いがけない告白に目をぱちくりしていたら、肩に腕を回された。素早い動作でしゃがみ込んだかと思うと、膝の後ろを持ち上げられる。身体が重力に逆らって、ふわりと浮き上がる。


 私は今、涼真さんに抱き上げられている! こ、こ、これは! お、お、お、お姫様抱っこじゃないかああ!!


「咲愛良」


 慌てて足をジタバタさせる私を、本当の名で呼ぶ。一瞬頭が真っ白になった。その隙を突くように、涼真さんの顔が近付いてきて、唇が重なった。柔らかくて温かい感触は、私の心臓をバクっと止めた。


 重なるときは素早くて、離れるときはとてもゆっくりだった。照れくさそうな微笑みが、至近距離に残される。心臓が余りにもドキドキして、死んでしまいそうだ。


「咲愛良には、全部曝け出す。素の自分で、咲愛良とずっと一緒にいたい。……意外と拗れたおじさんやけど、構わへんかな」

「は、はひっ!?」


 あああ、噛んでしまったぁ……。顔に火が付いたみたいに、熱い。涼真さんは目を細め、ふっと笑った。


「でも、でもでも! 私犯罪者の娘ですよ!?」

「それは濡れ衣。お父さんの無罪は証明される筈」

「でも、会社のイメージを損ねちゃうかも知れないし……」

「何があっても健全で真っ当な仕事を胸を張って貫くまで。そやけど咲愛良が気になると言うんやったら、会社を捨ててもかまわへん」

「それは駄目ですぅ……」


 私の為に、涼真さんが大切なものを手放してはいけない。それも、会社って大きな存在を。


 涼真さんがニッと唇の端を持ち上げる。

「なら、俺と俺の会社に尽くして」

「……お役に立てることがあるかなぁ……」


 視線を上げると、涼真さんは大きく頷いた。


「傍にいてくれるだけで俺の力になってくれる。そやけど、きっと咲愛良には宝物が一杯眠っているはず」

「宝物が?」


 涼真さんは片目を閉じた。


「そろそろ、首にしがみついてくれへんかなぁ。ちょっと重たなってきた」

「だ、だったら降ろして!」

「あかん」


 片方のほっぺたを膨らませて可愛い顔でそんなことを言うから、恥ずかしいけど目を閉じて涼真さんの首に腕を回す。


「目、開けて」

 耳元で囁かれ、うっすら目を開けると至近距離に顔があって、また心臓がバコバコ鳴り出した。


「四月一日咲愛良さん、俺と結婚して下さい。契約やなくて、ほんまもんの」


 いいのかな、いいのかな。こんなに幸せで、いいのかな。


 でももう、自分の気持ちに抗えない。


 私は、こくりと頷いた。涼真さんの身体に、私の身体が押しつけられる。この香り。水面に一輪の花が咲いているみたいな、清涼な香りに溺れてしまいそう。涼真さんの顔が近付いてくるから、私は目を閉じてその香りに身を委ねる。


 二度目の口づけを交わす私達を祝福するように、フェリーの汽笛が空に響いた。

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