第58話 完璧な不幸
仁美先生は、珠希さんと連絡を取り合っていたそうだ。最後に会った時に、仁美先生から見た全てを聞いた。
珠希さんはあの日、意識を失ったさーらと動揺する子供達を見て、薬物が関係していると察した。だが、薬物に関しての詳細を子供達は一切話してくれなかった。怯え方が尋常ではないので、ギャングが関わっていると推測し、子供達とさーらを守る行動を取った。
ギャングから身を隠すため、意識を失ったさーらを連れてホテルに身を隠した。さーらは丸三日眠り続けていて、目覚めた日に日本で例の事件が起こった。
珠希さんは、真犯人が貴和子ではないかと疑っていた。
貴和子の紹介してくれたスクールに通うようになってから、子供達の言動に違和感を覚えるようになっていた。子供を薬物に触れさせたのは貴和子に違いない。その貴和子の夫が殺害された。しかも犯人は省吾。彼がそんなことをする筈がない。
さーらを日本に送り届けるのは少し待った方がいいと珠希さんは判断し、すぐに日本に入国できるよう、隣国に滞在した。さーらに事件のことは話さなかった。言えばすぐに日本に帰りたいといういう筈だから。
仁美先生はしばらく夫が無実だと訴え続けていたが、悪化していくばかりの状況に疲れ果て、静かに生きる道を選んだ。京都は余所者に干渉しないという印象を持っていたから、転居先を京都に決めた。事態が落ち着いたのを見届けて、珠希さんがさーらを連れてやって来た。カナダでのことは、その時初めて聞いたのだという。仁美先生はとても悔しがっていた。事件の渦中で週刊誌の記者に「貴和子が薬物の密売に関わっている」と伝えられたら、何か変わっていたかも知れないのにと。
正直なところ、渦中に薬の件を知らなくて良かった。騒ぎが収まっていない段階でそんなことを言ったら、仁美先生は貴和子のボスに消されていたかも知れない。
だが、消えた薬物は親子の関係に影を落とした。
京都の自宅や職場に、何度か週刊誌の記者が押しかけてきた。その度に薬物の話を訴えたが、皆自分を頭がおかしくなった可哀想な人という目で見た。娘に「お母さんを精神病院につれていった方がいい」と助言した者もいたようだ。
さーらが欺すように仁美先生を精神科の病院につれていったのが、二人の関係を決定的に拗らせた。それ以来二人はまともに口を利かなくなったらしい。
仁美先生は早くさーらを独り立ちさせようと密かに貯金していた。別れて暮らしたら、生き別れたと思って娘と関係を絶とう、と決意していた。
結局病に倒れ、娘を独り立ちさせることは叶わなかった。そして、釣り合わない男との結婚を夢見る娘を案じながら、死んでいくことになった。
一方珠希さんの夫は、二人の子供を連れ、夜逃げ同然にアメリカへ渡った。夫も名の知れたデザイナーだったが、表舞台から姿を消さざるを得なかった。社会の影に隠れるように生活をしながらも、珠希さん夫婦は子供達を立ち直らせようと尽力した。しかし、アイラもレオも薬物を断ち切ることは出来なかった。
二年後、薬物の過剰摂取で二人は相次いで命を落とした。珠希さんは失意の中離婚し、東京に戻った。ジュエリーのデザイナーのような華々しい仕事をする気持ちにはとてもなれず、今は実家の仕送りを受けながらひっそりと一人で暮らしている。
これ以上無い、完璧な不幸だ。
貴和子の望みが幸せになる事であれば、それは生涯叶うことはないだろう。そう、誠司さんから最後に届いた手紙に書いてあった。
岡田和成と結婚してからの貴和子の生活は、恐怖支配の元にあった。彼を殺害し大金を手にした時、「邪魔者が消えて大金を手にする」という救いを体験する。それは今まで経験したことのない開放感と高揚感を伴っていた。しかし、金はボスに献上せねばならず、手元に残らなかった。快感は一気に喪失感へと変わる。
二番目の夫を殺害した時も「邪魔者が消えて大金を手にする」という快感を得る。しかしまた金は半分に目減りし、喪失感を体験する。
二度の強烈な快感は過剰な脳内麻薬を分泌させたが、すぐに打ち消され、渇望した。異常な快感を覚えた脳は同じ体験を欲し、探索行動を取る。一度薬物による快感を覚えたら抜け出せないのと同じ現象が、脳内に起こった。ギャンブル依存症や
そして、三番目の夫で完璧な快感を得た。執拗なモラルハラスメントを繰り返す夫から解放され、得た大金は全額自分のものとなったのだ。
事件後貴和子はすぐに次のターゲットを物色し始めた。もう止められないと悟った誠司さんは、自首し逮捕されることで貴和子を止めようとした。しかし「捕まるくらいなら死にたい」と貴和子が希望し、情死によってピリオドを打つという手段を選んだ。
だが、貴和子は生きる道を選び、唯一の味方だった誠司さんを捨てた。自分の欲求を叶える為に、誠司さんは邪魔な存在となってしまったのだろう。
自分の代わりに手を汚してくれる存在を失った貴和子は、欲求不満に苦しむことになる。四番目の夫を殺す為に出来たのは精々塩分を多く取らせるくらい。優しい夫をDVを厭わない人格に変えてしまった。
これも全て、身の丈以上のものを求め続けた結果だ。
四月一日先生は彼女の事を、心から心配していた。夫の暴力から逃れて自立した人生を送るよう、何度も説いた。貴和子から「夫を殺してしまった」と聞いて、取るものも取り敢えず駆けつけるほど、案じていたのだ。
プロジェクターの光を浴びて、緋色の服を着た貴和子は微笑む。
「これで夫の財産は全て私のもの。会社も資産も株券も、全て。
貴和子が手を伸ばすと、五反田敬三が歩み寄り、腕に抱えていたテディベアを貴和子に差し出した。
皺だらけの手が、続いてバタフライナイフを差し出した。貴和子は目を細め、それを受け取る。ナイフを広げ、人形の首に刃先を差し入れてから一気に切り裂いた。
用を済ませたバタフライナイフを投げ捨てる。カランと甲高い音を立て、ナイフは床を転がった。貴和子が出来た裂け目に両手を差し込み、頭と胴体を引きちぎったていく。バリバリと不快な音が響く。人間の首を引き裂いているように見えて思わず目を背けた。
貴和子は頭を床に投げ捨てた。くりくりとした目を見開いた熊の頭が、小さく床で跳ねた。内臓をえぐり取るように綿をつかみ出して投げ捨てると、足を両手で掴み、逆さ吊りにする。細かく透明な粒がこぼれ落ちる。
金属をひっかくような悲鳴を貴和子は上げ、ペラペラになった胴を覗く。
「どうしてないの! 一体何処へ行ったのよ!」
肉食獣のような雄叫びが、大きく開かれた口から発せられた。内側に渦巻く欲望が音になって生じたような、凄まじい声だ。そんなところにあるはずが無い。三㎏の覚醒剤は、公衆便所に流して抹消した。知らず知らず口元に笑いを浮かべてしまう。だが、それはすぐに強張った。
貴和子がさーらに駆け寄って、髪を鷲掴みにしたからだ。かと思うと、テーブルの角に思い切り頭を打ち付ける。さーらの身体が強引に持ち上げられる。額が真横に裂けて鮮血が滲んだ。薬による熟眠から強制的に引き戻された瞼が、薄く開く。
「どこへやった!」
さーらの顔を眼前に引き寄せて貴和子が叫ぶ。薄く開いた目の中で、瞳孔が貴和子の方へ動いた。痣の名残を残した唇が、微かに動く。
「薬をどこへやったかって聞いてんだよ!」
髪を引かれ、さーらの顎が天を向く。喉元から苦痛の声が漏れ、眉が苦しげに寄せられた。
「……くす、り……」
ようやく意味のある言葉がさーらの唇から漏れた。まずい、と俺は小さく首を横に振る。薬のことを、貴和子に話してはならない。だが俺の姿は、さーらの目には映らない。
「とぼけるな! お前が持ってるのは分かってるんだよ!」
悪鬼と化し、目をつり上げる貴和子は更に手に力を込めたようだった。ブチブチと髪が抜ける音が聞こえ、思わず目をそらす。
「……薬……。あれは……」
その時、俺と貴和子の間に何かが割って入った。目に飛び込んできたのは、大きく開いた紺色のスーツケースだ。敬三が貴和子に向かって開いたスーツケースを翳していた。
貴和子がスーツケースに視線を移す。俺は素早くその死角に入り、唇に人差し指を当てた。さーらが問うように視線を彷徨わせる。
信じて欲しい。
その想いを込めて、頷いた。
制服姿で屈託無く笑うさーらの姿が蘇る。あの頃彼女は髪を長く伸ばしていた。真っ直ぐ伸びた髪をハーフアップに纏めて、金細工のようなバレッタで飾っていた。
大好きな、大好きなさーら。少し我が儘で、甘えん坊のさーら。
何故、こんなにも痛めつけられなければならないのだ?
これまでのことが走馬灯のように胸を駆け回る。それは黒く渦を巻き、明確な形に纏まっていく。殺意、という形だ。
「内張を剥がしてみましたが、何も出て来ませんでした。荷物からも」
静かな敬三の声が、
駄目だ。感情に飲まれてはいけない。感情のまま行動すれば、誠司さんと同じ過ちを犯してしまう。
咆吼と共にさーらの胸がテーブルに打ち付けられる。貴和子は敬三がすっぽり入ってしまいそうな紺色のスーツケースを奪い取ると地面に叩き付け、足で踏みつけた。バリンと大きな音がした。へしゃげたスーツケースを蹴る。紺色の塊が床を滑り、壁に当たって大きな音を立てた。
さーらが、悲鳴のような息を吐いた。
貴和子の荒い息だけがリビングに響いている。その場の空気には、怒りや困惑が混沌とし、行き場を失っていた。
その奇妙な静寂を、玄関チャイムが切り裂いた。
五反田敬三が静かに動き、インターフォンに対応するためリビングを出て行く。俺は耳を澄ませた。訪問者の存在は、やっかいだ。インターフォンに応じる声はくぐもっていてよく聞こえない。
玄関ドアの開く音がして、足音が近付いてくる。俺は眉をしかめ、辺りを見回した。プロジェクターに映る怪我をした女と、額から血を流す現実の女。首を引きちぎられた人形。刃をむき出しにしたバタフライナイフ。ひしゃげたスーツケース。これらは人の目に奇異に映る。だが、なんの対策も打てないまま足音はドアの開く音に変わった。
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