第54話 ビーフシチュー

 スーツケースと骨壺の入った紙袋、ホームセンターで購入した物。荷物が増えて閉口した。オマケに練炭コンロは結構重たかった。ホームセンターのトイレの、オムツ替え用ベッドの上でスーツケースを開き、テディベアを取り出してコンロと練炭を空いたスペースに仕舞った。この子もなかなか重たいけれど、コンロよりは軽いし抱きかかえて歩ける。


 汗をかきながら綺麗な家が建ち並ぶ路地を歩き、やっと貴和子さんの家に着いた。


 呼び鈴を押すと、表門まで貴和子さんが駈けてきた。緋色のニットワンピースが、彼女の完璧なプロポーションを際立たせている。例の背の小さな男性が付き従っていた。縮れた前髪が顔に影を作って、まるで真っ黒な顔をしているように見えた。三つ揃いのスーツは、これから屋外で食事をするのにはふさわしくないと思うのだけど。


「あら、タクシーを使いなさいと言ったのに。……まあ、これが例のテディベア?」


 貴和子さんは一瞬咎めるような視線を向けたけれど、ラブを見付けてパッと顔を輝かせ、私から取り上げた。両手で抱え上げて重さを確かめるように小さく振ってから、腕に抱きしめて頬刷りをする。


「荷物を預かるわね」


 貴和子さんはそう言ってテディベアを背の低い男性に渡した。男性は人形を抱きかかえ、スーツケースに手を伸ばした。小さな男の子が大きなぬいぐるみを抱えているように見えるけれど、顔は皺だらけで口はへの字に歪んで、アインシュタインみたいなボサボサの白髪。背筋にぞくりと悪寒が走り、思わずスーツケースを身体の方へ引き寄せる。


「自分で運びます。買ったものが中に入っているので、取り出さないといけませんし」


 そう答えると、彼は「へ」の形の唇の端を、ニューッと持ち上げた。


***


 貴和子さんに頼まれて練炭コンロに火をいれる。コンロには練炭がぴったり入る空洞があって、そこに燃料である練炭を入れチャッカマンで火を付けるのだ。程なくして火柱が上がり、私は慌てて手を引いた。手が震えていた。十年前、お父さんは車の後部座席に練炭を置き、こうやって火を付けたのかと思うと身体の中心が締め付けられるようだった。


「綺麗な火柱ね」

 貴和子さんが後ろから覗き込んでくる。貴和子さんは自宅を焼かれたのに火を見ても動じない。そんな強さが私にも欲しい。


「キッチンに行って、ダッチオーブンを取ってきてくれる?」

「分かりました」


 私は頷いた。緋色の膨らみ袖から覗く右の手首に、黒いサポーターが巻かれている。持病の腱鞘炎が悪化して、手が使えないのだと申し訳なさそうに話していた。私が無理に押しかけたのだ、大変な時にこちらこそ申し訳ない。


 料理は貴和子さん監修の元、私が作った。塊肉がゴロッと入ったビーフシチューで、お肉は圧力鍋を使って柔らかくした。


 ビーフシチューの入ったダッチオーブンは重たかった。フランスパンやサラダ、食器やグラス。屋外に運ぶのはちょっと大変。風が強くなってきたし、屋外に拘らなくても良いのにな、と思う。


 後ろに人の気配を感じて振り返る。義雄さんが立っていて、私を見下ろしていた。思わず悲鳴を上げそうになり、すんでの所で堪える。もう少しでダッチオーブンを落としてしまうところだった。


 早足で練炭コンロまで行き、ダッチオーブンを置くと息が上がった。


「この間は、本当にごめんなさいね。彼、忘れてしまっているの。申し訳ないんだけど、あの事に触れないで頂けるかしら」

「勿論です。あれは、事故だと思っています。気にしないでください」


 貴和子さんが側に来て、申し訳なさそうに眉を下げた。義雄さんがガーデンチェアーにどっかりと腰を下ろす。Vネックの白いシャツにグレーのジャケット風カーディガン。一見、体格の良い素敵なおじいさまに見える。けれどスイッチが入ると暴力をふるうし、女性を襲う。喉が詰まるような恐怖が蘇り、目をそらした。


「ワインを貰おうか」

 義雄さんは尊大に踏ん反り返って言った。貴和子さんは苦笑いを浮かべ、首を横に振る。


「あなた、今日は懇親会に顔を出すと言ってたじゃありませんか。酔っ払う訳には行きません。これで我慢してください」


 貴和子さんが差し出したのは、ワイングラスに入った赤紫の飲み物。どう見てもワインにしか見えない。


「甲州の葡萄ジュースなの。咲良ちゃんもどうぞ」

「ありがとうございます。本物のワインみたいですね」

「ビーフシチューには赤ワインでしょ。でも、運転しなければいけないから私もジュースで我慢するわ」


 そう言って、片目を瞑った。


「お出かけの予定があったんですね。お忙しい時にお邪魔してしまって、申し訳ありません」

「何言ってるの。顔を合わせずにお別れなんて、寂しくて耐えられないわ。……懇親会は八時からだから、充分間に合うもの」


 私は腕時計を確認した。六時を少し回ったところ。慌ただしいけれど食事をして片付けをする時間はある。だから食事に時間がかからないビーフシチューなんだなと、納得した。それにしても、私は随分間が悪い時にお邪魔してしまったみたいだ。


「懇親会ってお食事をするんじゃないんですか?」

「いいの。大体そんなに美味しい物も出ないし、量も少ないし。ちょっとお腹に入れておいてから向かった方がいいのよ。咲良ちゃんが来なくても、何か食べていこうと思っていたから。さ、どうぞ召し上がれ」


 私は手を合わせてからビーフシチューを口に運んだ。お肉が口の中でほろりと解け、デミグラスソースの芳醇な香りと混ざり合ってゆく。


「わー、凄く美味しいです」

「そう? 良かった。咲良ちゃんの腕が良いのよ」

「そんなこと無いです。貴和子さんのレシピが良いんです。忘れないでおきますね」


 貴和子さんがにこりと笑った。貴和子さんと食事をするのが最後なんだと思うと、寂しくなる。一度にお母さんを二人失ったような、そんな喪失感が込み上げてきた。涙と一緒に呑み込むと、シチューが少し塩っぱく感じる。


 義雄さんはガツガツとビーフシチューを掻き込み、ジュースを豪快に飲んでいる。


「ねぇ、咲良ちゃん。カナダにホームステイをしていたって聞いたけれど、そのご家族とは今でも交流があるの?」


 対照的なほど上品に貴和子さんはシチューを食べていた。私は首を横に振った。


「ご家族は引っ越しをしてカナダを離れてしまったみたいです。私も引っ越しをしたので、連絡する術を失ってしまいました」

「あらそう。残念ねぇ。全く居場所は分からないのかしら」

「分かりません。母も知らないと言っていました」

「そう……」


 貴和子さんはとても残念そうに溜息をついた。それから、思いついたように言った。


「あなた、レオとは年が近かったと思うけど、恋愛関係にはならなかったの?」

「え、な、なりませんでしたよ。レオは素敵でしたけど……」


 レオのこと、そんなに詳しく貴和子さんに語っただろうか。年齢とか、話をしたかな? 話をしたとしたら、バーベキューの時だったと思うけど、あの家族について長々と話をした記憶はない。


「一緒にダンスを踊ったの? ああ、でも若い子なら、社交ダンスよりもクラブに行ったりするのかしら」

「クラブにも一緒に行ったこと、あります。……貴和子さん。あの、私貴和子さんに謝罪しようと思ってここに来たんです」


 クラブへ行った後の事に触れたくなくて話を変えた。話の腰を折られたからか、貴和子さんは不満そうに眉を寄せる。こんなことを言ったら余計に気分を害さないか不安だけれど、伝えないわけにはいかない。


「昨日、母が亡くなりました。それで、遺産の相続放棄をしようと思っています。相続するものは、貴和子さんへの慰謝料だけなんです。本当は、私が引き継いで最後までお支払いするべきなんですけど……」


 貴和子さんは食器を膝に置いた。その瞳にさっと冷たい光が宿る。


 怒られる? 

 瞬間私はそう思って首を竦めた。だけど次の瞬間、貴和子さんはふふふ、と細く笑った。


「亡くなったのね、仁美さん。あれから大変ご苦労なさったでしょうね。……相続の件は、承知しました。和解手続きの手間が省けて丁度いいわ。……そう。亡くなったの。それはとても残念ね……」


 眉を寄せて、溜息をつく。私はそっと頭を下げた。母は貴和子さんを犯人呼ばわりしたのだ。恨んでいても仕方が無いのに、残念だと悼んでくれる。なんて心の広い人なんだろう。


 突然ガシャンと大きな音がした。反射的に音の方を振り返る。義雄さんが項垂れてゆらゆらと身体を揺らしている。眠り込んでしまったらしく、空になった食器が芝生の上に落ちていた。上体が前に倒れ込んでいて、このままでは地面に転落してしまいそうだ。慌てて駆け寄って、身体を抱き起こした。寝息が首筋にかかる。この前の出来事が頭を過ぎり、ぞわりと寒気が走った。


「あらー。寝てしまったのね。もう、年ねぇ。咲良ちゃん、申し訳ないんだけど彼を車へ運んでくださらない?」


 貴和子さんの指し示した先に、黒塗りの乗用車が駐まっていた。いいですよ、と私は答えて義雄さんの身体を揺する。


「車まで移動しようと思います。起きて下さいますか」

「ン……」


 彼は重たそうに瞼を開けた。脇に手を入れて抱き起こすと、何とか自分の足で立ってくれた。ほっと息を吐く。彼は身体が大きいから、完全に眠ってしまっていたら一人で運べないところだった。よたよたとした足取りを支えて車へ向かい、助手席のドアを開けて中へ導いた。リクライニングを倒すと、再び寝息を立て始める。


「シートベルトもかけておいて下さる?」

「え、もう、ですか?」

「お願い。手が痛くて、何をするのも大変なのよ」


 出発の時間まで一時間以上あり、途中で起きる可能性もある。シートベルトは窮屈だろうし、起きた時に身体が動かなくて驚くかも知れない。けれど、手を合わせている貴和子さんを見て言う事に従った。

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