第53話 蜘蛛の巣
執拗な着信音で目覚めたが、仰向けになってそれを無視した。
頭が鈍痛に襲われていた。不快な着信音が止み、布団代わりに身体に巻き付けていた上着を剥いで身体を起こす。目に映ったズボンは皺だらけで、床にネクタイが蛇の抜け殻のように落ちている。
テーブルの上には、空になったカミュのボトルと、琥珀色の液体が入ったグラスが無造作に置かれていた。やるせない気持ちでブランデーをあおっている内に眠り込んでしまった。眠りは浅く断片的で、落ちる度に夢を見た。どれも印象の薄い、悲しみだけが残る夢だった。
スマートフォンの画面に、二桁の着信履歴が残っていた。どれも、
もう、
真ん中にあるアプリのボタンを、つい押してしまった。画面に地図が展開され、オレンジ色の丸が表示される。丸はじっと一点に留まっている。
「咲良……?」
思わず声を出してしまった。咲良がいると表示されている場所は、このマンションだ。
「咲良!」
跳ねるように駆け出して、咲良の部屋に向かう。
ドアを開けると、そこは家具が並んでいるだけの、人気の無い空間だった。隅々まで視線を這わせた後、部屋を飛び出す。
リビング、浴室、トイレ。
次々にドアを開けていったが、咲良の姿は見つからなかった。
エントランスか?
サンダルをひっかけ、外に飛び出す。エレベーターは地下一階に留まっていた。下向きのボタンを押したがじっとしていられずに、階段を駆け下りる。一階に到着すると、倒れ込むようにエントランスに飛び出した。
大理石模様の床が、がらんと広がっている。
誰も、いない。
カウンターにコンシェルジュの老人が立っているだけだ。彼は俺を見付けると、あ、と声を上げた。
「九条様。先ほどお荷物をお預かりしました」
コンシェルジュはカウンターに茶封筒を置いた。角2サイズのありふれた封筒だ。礼を言い、それを手にした。少し重量があり、平らではないものが入っている。背筋がすっと冷えた。その場で封を開けると、厚みのある茶封筒と四つに折りたたまれた紙片。そして、咲良の髪飾りが入っていた。
「先ほどって、どれくらい前や?」
「さぁ、どうでしょう……。十五分ほど前になりましょうか……」
「十五分……」
「ええ。……そうです、そうです。バスの時刻を気にしていらっしゃいました。キャリーバッグをお持ちだったのでご旅行にいかれるのかと伺いましたら、『ちょっと離れたところへ向かいます』と仰っていました」
「バス!」
コンシェルジュ言葉を最後まで聞かず、俺は駆け出した。強い風が吹き付け、寒さが薄いワイシャツの布を突き抜けた。今自分がとても酷い格好をしていることを思いだした。だが、足を止めるわけには行かなかった。
バス亭に、行かなければ。咲良を、見付けなければ。
でなければ、もう二度と会えなくなる。
歩行者用信号が点滅していた。二車線道路を渡りきる前に信号が代わり、クラクションを鳴らされる。横並びで歩道を塞ぐ中年女性達の間をすり抜ける。シルバーカーを押す老人を追い抜く。走ってくる小学生とぶつかりそうになり、たたらを踏む。すれ違う人々が、奇異な眼差しを向ける。それでも俺は、走り続けた。
――咲良の元へ行こうと思っていた。
母に二者択一を迫られた時、反射的に別の選択肢を模索した。「選択肢が少ない時ほど出来るだけ多くの選択肢を探れ。無ければ作り出せ」というのが、父の口癖だった。俺はその教えを守ってきた。
だから、会社も咲良も、どちらも手放さないという選択肢を作り出した。
会社の形を整え、信頼できる誰かを選出し、何もかもを受け渡す。それが何年先になるか分からないけれど、何もかもを手放してただの男になってから、咲良に会いに行くつもりだった。
ただの男の俺には、咲良に野蒜を差し伸べることは出来ないかも知れない。けれど、隣にいる事は出来る。そこがたとえ瓶の底であったとしても。決して這い上がれない瓶の底で世界を見上げる事になっても、咲良と肩を寄せていたい。
今、咲良が京都にいるのはとても危険なことだった。だから、誰にも知られずに遠く離れた所へ行くように、伝えたのだ。真実を伝えれば、俺に迷惑を掛けまいと誤った選択をしてしまうだろう。咲良は何も知らない方がいい。
バス亭には長い列が出来ていた。殆どが、学校を終えた高校生だ。その中に、肩の下まで髪を伸ばした女性が混じっている。ジーンズに長袖のTシャツという、地味な服装だ。
「咲良!」
その肘を掴んだ。だが、振り返ったその人は全くの別人だった。狐目で、鼻の頭がやけに尖った三十代の女性だ。
バスの列に咲良は混じっていない。俺は時刻表を確認した。咲良を乗せたバスは、十分も前に走り去っていた。
身体から、急激に力が抜けていく。
「あの、落としましたよ」
肘を掴まれた女性は、きょとんとしながらも身体をかがめ、知らない内に手から落ちていた茶封筒を拾ってくれた。礼を言って受け取り、何の気なしに中を見ると、薄い札束が覗いていた。
「失礼しました」
俺はその札束を取り出して、彼女の手に押しつけた。
足早にその場を立ち去りながら、四角く折りたたまれた手紙を広げる。もしかしたら居場所が書いてあるかも知れないと、淡い期待を抱きながら。
『涼真さんへ
沢山迷惑を掛けてしまって、本当にすいませんでした。ホスピスを紹介してくださったり、結婚写真を母に見せてくださったり、沢山のご恩になんのお返しも出来ず、申し訳ありません。母は自分の葬式代として、纏まった額を貯金していました。全額には満たないかも知れませんが、お支払いしてくださった入院費や葬儀代をお返しいたします。本当は、直接お渡しするべきなのだと思いますが、コンシェルジュさんに預けます。
涼真さんに会ったら、泣いてしまうかも知れないので。私のことなんか、忘れてしまいたいと思っているでしょうし、本当にすぐ忘れちゃうんだと思うんですけど、記憶にあるうちはできるだけ、笑っている顔でありたいです。
私は、色んな涼真さんの姿を、しっかりと胸に焼き付けて生きていきます。何一つ、忘れません。釣り合うものなんて何も持っていないけれど、私は涼真さんの事が好きになってしまいました。身の程知らずなんですけど、離れたところで片思いしている分にはご迷惑をおかけしないと思うので、許してください。
涼真さんが本当に好きな人に巡り会い、幸せな結婚をされることを祈っています。涼真さんが幸せだと、私も幸せです。
さようなら。
咲良』
さっきクラクションを鳴らされた信号の下で、俺は何度もその手紙を読み返した。信号が青に変わり、人々が行き交い、点滅し、赤に変わる。車が激しく往来し、信号が変わるのを待つ人が集まる。そしてまた、信号が青に変わった。
青信号を告げる雀のさえずりに混ざり、着信音が聞こえた。また美雪かと思ったが、瀬戸口一哉の名前が表示されていた。緩慢な動作で通話ボタンを押す。瀬戸口の声が、「もしもし」と言った。
『さーらを探しているんだろ?』
勝ち誇った口調で言う。
『俺らの張った蜘蛛の巣に、引っかかった。今こっちに向かってる』
そう言って、瀬戸口は笑った。
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