第五章 魔性の女
第52話 お父さん、もう会えた?
「どちらか、ご旅行に行かれるのですか?」
茶封筒を受け取ると、コンシェルジュさんは私にそう訊ねた。白い口ひげがとても粋な年配の男性だ。ホテルマンのように、ワイシャツにベストを合わせ、ネクタイも結んでいる。
「ちょっと、遠いところへ向かいます」
出来るだけ何気ない口調でそう言って、壁の時計に視線を向ける。思わず声が漏れる。
「バスが出ちゃう……。では、失礼いたします」
頭を下げて、踵を返した。スーツケースがゴロゴロと音を立てる。余計な物を取り除いたお陰で軽くなり、車輪の動きが良くなった。
ガラスの自動ドアが背中で閉まる。振り返り、私は身体を折り曲げるようにして頭を下げた。
マンション前の道路は二車線で、歩行者信号は既に青色だった。早足で渡ったけれど途中で赤に変わり、信号待ちをしていた車にクラクションを鳴らされた。ちょっとくらい待ってくれても良いのに。唇を尖らせてそちらを見ると、なにわナンバーのハイエースだった。
バスが来るまであと五分。急ぎ足で歩く。ベビーカーを押す女性や、立ち止まって通話をしているビジネスマンの横をすり抜ける。やがてバスを待つ人の列が見えた。下校時間にぶつかったみたいだ。皆学生服を着ている。
列の最後尾に並んだら、間髪入れず京都駅行きのバスがやって来たので、立ち止まらずに乗り込んだ。バスは混んでいた。大きなスーツケースが邪魔なんだろうなと恐縮した。もしかしたら、中国人観光客に間違われているかも。
バスに揺られながら、母からの手紙の文面を思い出していた。
『咲愛良。
最後にあんなにいいホスピスに入れてくれて、ありがとう。きっと、涼真さんが助けてくれたんでしょうね。
お金をいくらか残しておきます。それで、入院費の支払いや葬儀や諸々のことを済ませてください。
保険も掛けていないし、貴金属も売ってしまったし、通帳の中身は空っぽ。相続するものは岡田さんへの賠償金だけですから、相続放棄の手続きをしなさい。あなたがそれを引き継ぐ必要はありません。
酷な事を、最後に言います。
涼真さんのような人達は、結婚相手を徹底的に調べます。私達が隠していることなんて、すぐに暴いてしまうでしょう。会社のご迷惑になるかも知れません。色々良くしてくださった恩に仇を返すような事になる前に、お別れをしなさい。
私が死んだら、なにもかもから縁を切り、誰も知らない場所へ行きなさい。そこで今度こそ、畑中咲良として人生をやり直しなさい。
その人生が素晴しいものになるように、見守っています。
母より』
何て素っ気ない手紙だろうと、苦いものが込み上げる。「愛している」とか「ごめんなさい」とか、嘘でも良いからそんな言葉を残して欲しかったのに。
何時だってそうだった。彼女は私に甘えを許さず、駄目なところを包み隠さず指摘する。お父さんはその正反対で、一人娘の私にとても甘かった。私はお父さんが大好きで、高校生になってもくっついて歩いていた。一哉とも、お父さんがきっかけで出会った。顧問をしている高校の全国大会出場を掛けた試合が、出会いだった。
『咲愛良とお母さんはよく似てるんだよ。だから余計に、悪いところが目についてぶつかり合うんだ。ホームステイから帰ってきたら、お母さんの良いところを見付けるようにしてごらん。ほら、商品の欠点を美点に見立てる練習だと思って。彼女の意地っ張りなところや一本気の強いところは、とてもチャーミングに見えると思うよ』
最後のホームステイに向かう日の朝も、母親と大喧嘩をした。空港へ向かう車の中で、お父さんが私にそう言った。私はむくれて、そっぽを向いた。
お父さんは、笑っていた。
『咲愛良とお母さんは、いずれ友達みたいに仲良くなると思うな。咲愛良が大人になって、結婚して子供が出来る頃になったら』
喉がギュッと痛くなって、目頭が熱くなる。慌てて親指で目元を押さえた。
そんな日は、来なかったよ。お父さん。
私達はずっと、仲が悪い母子だった。
だって、お父さんがいないんだもん。お父さんがいないと、仲直りが出来ないんだもん。私達。
でも、最後にちょっとだけ、歩み寄れたよ。
もう、呼吸が止まるかも知れないという時、ショパンの「別れ」が聞こえてきたの。あんまり上手じゃないピアノの音だったけれど、その曲のお陰で鮮明に思い出せたの。
卒業シーズンになると、お母さんが毎日その曲を練習していたこと。耳にタコができるくらい同じ曲を聴かされて、うんざりしていたけど。
仕事人間なんだよね。でも、そんな姿嫌いじゃなかった。社会に出て、くじけそうになったら、何故か「別れ」が耳に蘇るの。そして、負けないで真っ正面からぶつかるんだって力が沸くの。
『お母さん』
って、最後に呼べたの。もう何年も、呼んでなかったんだけど。
そしたらね、ぎゅって手を握り返してくれたの。本当に、微かな力だったんだけど。色んな想いが籠もっているんだって、感じた。そのすぐ後にお母さんの目からすっと涙が落ちて、旅立っていったの。
お母さんは、お父さんの事が大好きだったんだよ。
もう、会えた?
私はね、とても素敵な恋をしたの。
その人に貰った髪飾り、似合うかな。ピンク色のサテンのリボン。一生大事にしようと思うの。
本体のプレゼントはね、返したの。
彼ね、元カノの残したものを平気で置いとくんだよ。写真とか、エプロンとか。
もしかしたら、私の髪飾りも、ずっと彼の傍にいるかも知れない。だからね、返したの。私の欠片が、出来るだけ長く彼の傍に残りますように……。
バスの車窓を、ありきたりな街並みが流れていく。その上に広がる青空を、私はぼんやりと見つめていた。私は一人になって、新しい人生を始める。私を支えるのは、指先に残る母のぬくもりと、父の優しい眼差しと、ピンク色のサテンのリボン。その存在を、何度も何度も確かめていた。
ポケットで、携帯電話が震えた。メッセージアプリに新しいメッセージの通知が届いている。
『昨日、泣いていたけれど大丈夫?』
貴和子さんからのメッセージだ。どう返そうか、悩む。涼真さんは『誰にも告げずに痕跡を残さずに遠くへ消えろ』と言った。そこに何か深い意味があるような気がしていた。
でも、貴和子さんから黙って消えてしまうのは悲しい。お母さんみたいな人だから、ちゃんとさようならを言いたい。相続放棄することも、謝った方がいいよね……。
『突然ですが、遠くに引っ越すことにしました。ご迷惑でなければ、これからそちらにお伺いしても構いませんか』
スマホを片手で操作するのが苦手で、バスの揺れに踏ん張って態勢を保ちながら返信を打つ。
『まぁ、そうなの!? じゃあ、夕食を一緒に食べましょう。ダッチオーブンで何か温かい物をご馳走するわね』
黒猫が泣いているスタンプと共にそんなメッセージが返ってくる。お構いなくと返そうとしたら、メッセージが続いて送られてきた。
『でもね、コンロが壊れてしまったの。申し訳ないんだけど、駅前のホームセンターで買ってきて貰えないかしら。練炭コンロと練炭と、チャッカマン。レシートは取って置いてね、代金をお支払いするから。重たいから、ホームセンターから家までは、タクシーでいらっしゃい』
分かりましたと、返信を打つ。
練炭コンロ一式を買うのか……。
そう思うと、気持ちが重たくなった。
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