第51話 日向雨

「お母さんなんです、仁美さんは」


 蜘蛛の糸のように頼りない声で咲良が言った。瞳が大きく揺れ、ひとしずくの涙が溢れた。それを人差し指で拭い、何度か浅く呼吸を繰り返した後、俺の顔を真っ直ぐに見つめた。彼女の瞳は夕暮れ時の湖みたいな、深い藍色に見えた。


「私の本当の名前は、四月一日咲愛良わたぬきさあらと言います。四月一日しがつついたちと書いてわたぬき。咲愛良は、『』と『』の間に『愛』を加えてさあらです。この三月に、母の姉夫婦と養子縁組をし、名字を変えました。その時に合わせて改名しました。抜いた『愛』は、この子にあげました」


 「ラブ」という名のぬいぐるみを、ギュッと抱きしめる。


 俺は黙って、彼女の藍色の瞳を見つめていた。俺は彼女の言おうとしていることを、もう既に知っていた。瀬戸口から聞いたし、母の持ってきた身辺調査報告書にも書いてあった。だから、驚きはしなかった。あったのは、恐れだ。彼女がそれを話した後で、俺達が取らなければならない選択に対しての、恐れだ。


「伯母さんとは縁を切ってました。でも、母が余命宣告を受けたからと頭を下げてくれたんです。『この後も一切関わらない』という念書を書いた上で養子縁組をして貰いました。伯母さん達は高校教師だったけど、私達のせいで続けられなくなったんです。それで会社を立ち上げたので、これ以上私達と関わってとばっちりを受けたくないんです。当然のことだと、思います。私の父は殺人を犯し、その方の家に火を付けて燃やして、罪も償わずに自殺しました。私達は加害者家族なんです」


 ぐにゃり、と咲良の顔が歪む。笑った形に、少しだけ似ていた。


「珠希さんに連れられて京都で母と再会した時、私のいた世界は全て無くなっていました。父の事件で母は教師を続けることは出来なくなったし、賠償金を支払うために家も売ったと。無一文に近い状態で、誰も知らない土地に移り住まなくてはならなくなったと、聞かされました」


 ぽつり、ぽつり、と語られる言葉は、真冬の雨のように冷たかった。


「四月一日なんて目立つ名前だから、何処に行っても素性がバレてしまって大変でした。高校に編入したけれど、『殺人犯の娘』だと虐められてすぐに学校に行けなくなり、退学しました。辛くても、引きこもっていられるほど生活は楽じゃなくて。でも、アルバイト先でも同じような事が起こって。アルバイトですら転々としなければならない状況なので、就職なんて考えられませんでした。母も、同じ状況です。週刊誌に顔が出てしまったから、採用されるのも難しかったみたいです。……家に週刊誌の記者がやって来る事もありました。玄関に『出て行け』って紙を貼られたりして、引っ越さなければならないことも、何度もありました」


 咲良の声が大きく揺れた。鼻を啜り、目元を拭う。胸が締め付けられるように苦しくて、「もういい」と言葉を遮りたくなった。出来ることならば抱きしめて、「何もかもどうでもいい」と伝えたかった。けれど、その言葉を呑み込んだ。


 そんなことは、出来ないのだ。だから、咲良の言葉を最後まで聞かなければならない。例え自分の呼吸が止まってしまったとしても。


「母が姓を変えることは、手続き上出来たはずです。未成年の間に旧姓に戻す手続きをしてくれたら、私も一緒に姓を変えられる可能性がありました。でも、彼女は名前を捨てようとしなかったんです。それどころか、父の無実を信じようとしない私を、親不孝者だと罵りました。私は私で、言動が過激になっていく姿を見かねて、精神科の病院につれていこうとして……。結果的に大喧嘩に発展して、お互いまともに口を利かなくなりました。……元々、仲は良くなかったんです。厳しい母に私はいつも反発していて、父が間に入って何とか親子として成立しているようなところがあって……」


 もう一度、鼻を啜る。その隙に、俺は詰めていた息を静かに吐き出した。


「父の無罪を信じることで母は何とか生きていたんだと思います。でも、逆に私は、加害者の娘という事実を受け止めなければ前に進めないと考えていました。事件を終わった状態でしか知ることが出来なかった私には、父が無実だと信じる根拠がなかったんです。だから、母とは一生かかってもわかり合えないと思っていて、別れて暮らす資金を貯めるために、何があっても歯を食いしばって働いてきました。それなのに、癌になっちゃって……。でも、余命宣告を受けたお陰でやっと、伯母さんに養子縁組を頼んでくれて……。私は母の命と引き換えに、名前を変えて人生をやり直すことができたんです」


 唇が、やっと微笑みを形作った。淡雪のように儚い笑みを浮かべながら、咲良は言葉を続けた。


「……黙っていればバレないかな、なんて思っていましたけど。ちょっと調べればすぐにバレると、母に言われました。迷惑掛けないうちに別れなさいって。よく考えれば、そりゃあ、そうです。まだ婚約のことは、誰にも言ってないですよね。今のうちに契約、解消したほうがいいです。涼真さんにも、木寿屋もことやさんにもご迷惑を掛けてしまいますから」


 気道が塞がってしまったように、呼吸が苦しかった。苦しいのに、唇は固く閉じて動かない。咲良は額を畳に擦り付けるように、頭を下げた。


「嘘をついていてすいませんでした。沢山思いやりを掛けてくださったのに、踏みにじるようなことをしてしまって、すいませんでした」


 瞑目した。固く。瞼に痛みを感じるほど、固く。


「実はもう、荷物をまとめて持ってきてあるんです。本当は、最後に今夜、涼真さんの一番好きなお料理を作りたかったんですけど。……これは、お返しします」


 手の甲に、小さく冷たい物が乗せられた。俺は目を開けて、膝の上に置いた自分の手を見た。そこには、昨日渡した合鍵が乗っていた。青いサテンのリボンが結びつけられている。俺はそれを手の平にのせ、強く握りしめた。彼女が勇気を振り絞り、告白したのだ。俺も、腹を括らねばならない。


 ひりついた気道を無理矢理にこじ開けて、言葉を押し出す。


「遠くへ、去って欲しい。できるだけ早く、ずっと遠い場所へ。誰にも言わんと、何の痕跡も残さず、俺の前から消えて欲しい」


 咲良の顔が一瞬クシャリと歪んだ。だが次の瞬間、その歪みは幻のように消えた。藍色の瞳をこちらに向け、唇をギュッとむすんで咲良は頷いた。


 俺は立ち上がり、玄関のドアを空けた。


 外階段はカンカンと甲高い音を立てた。その音は、この世界にたった一つだけ存在する音のように、静かな町の空気を震わせた。


 細い路地のアスファルトが、濡れていた。夕陽が反射して、古びた町並みがシャンパンゴールドの光に包まれていた。こんなに眩しく光っているのに、空からは霧のような雨が降り注いでいた。俺は空を仰いだ。細かい水滴が、頬を濡らしてゆく。


 夕焼けに染まった空の、何処にも雨雲は見当たらなかった。


 ――狐の嫁入り。日向雨ひなたあめ偽雨そばえ


 こんな雨の名前を、幾つか思い浮かべてみた。日向雨という名が一番しっくり来ると思った。咲良の名前が、畑中咲良よりも四月一日咲愛良のほうがしっくり来るのと同じだ。


 何も名前から、愛を抜かなくても良かったのに。そう思うと、叫びたくなるほど胸が苦しくなった。


 四月の初日に、愛が咲く。


 美しい名だ。きっと沢山の思いを乗せて、付けられた名前なのだろう。二十七年後にその名を捨ててしまうなど、誰も想像しなかっただろう。新しい名を名乗ったことを「嘘をついた」と謝る事になるなどと、誰も思わなかっただろう。


「嘘なんて、ついてないやん」

 俺は、空に向かって呟いた。


 彼女は新しい名を得て俺の前に現われた。俺が勝手に様々な事に巻き込んだのだ。結婚相手を探すのが億劫で、パーティー会場で目立つことをして危険にさらし、身勝手に契約結婚を申し出て平凡な日常を奪った。


 就職先が木寿屋でなければ、今頃普通の生活を送っているはずだ。仁美も、娘が身の程知らずな結婚を望んでいると案じながら死ぬことはなかった。


 閉じた瞼を夕陽が熱し、霧雨がその熱を冷ましていく。


 日向雨はただ静かに降り続ける。町を濡らした雨は、どうせその内に蒸発して消えてしまうのだけれど。


 一緒に何もかも消えてしまえばいい。彼女を悲しませる、全てのものが。


 俺も、含めて。

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