第50話 百合の香に満ちた部屋で 

 ピアノを弾いた後、仁美ひとみは荼毘に付すまでの事を俺に託した。


 彼女は葬儀を望まなかった。火葬場の安置所から直葬して欲しいと希望したが、流石にそれを咲良さらに伝えるのは躊躇われた。代わりに、一晩一緒に過ごす場所を葬儀社の安置室にするか自宅にするか、どちらが良いか訊ねた。仁美の死に関して、俺が咲良に選択を迫ったのはその一つだけだった。


 咲良は、自宅に連れて帰りたいと言った。


 嘗て彼女が布団を敷いていた場所に、棺が置かれた。家にはもう何も残されていない。すり切れた畳みと古ぼけた襖があるだけだ。仁美は自分で荷物を処分したらしいし、咲良も布団以外の全ての荷物をスーツケースに詰めて家に来た。嘗て彼女らが暮らしていた部屋は、今すぐにでも明け渡せる状態だった。


 余りにも殺風景だったので、葬儀社に花を持ってきて欲しいと頼んだ。届いた花を見て俺は、とても後悔することになったが。


 大ぶりの百合や鮮やかな黄色の菊は、部屋にとても不釣り合いだった。おまけに百合は強烈に甘い香りで部屋を満たした。もう満腹で食べられないと言っている子供の口をこじ開けて、菓子を詰め込むみたいなやり方だ。そして自分もまた、この花と同じくらい不遜な存在だった。


「座布団も無くて、すいません」

 咲良は申し訳なさそうにそう言った。

「お茶を出そうにも、やかんもなにもかも処分してしまいました」

「かまわへんよ」


 そう言って俺は腕時計を見た。午後五時を過ぎたところだ。霊安室に運ばれたのが十時頃だったから、すっかり昼食を食べ損ねてしまった。買い物に行こうにも、土地勘が無い。ケータリングで取り寄せ、無理矢理にでも咲良に何かを食べたり飲んだりさせなければと思った。朝食も、一緒にスープを少し飲んだだけだ。


 悲しみは、結構体力を奪う。咲良は涙を全く流していないけれど、どうしようもないほど深く悲しんでいるのは明らかだ。声を上げて泣くだけが悲しみの表現では無い。悼み方には様々なバリエーションがある。


 咲良は棺の前に足を崩して座っていた。涙を流さない代わりに、言葉も発しない。いつの間に持ってきたのか、熊のぬいぐるみをぎゅうっと抱きしめている。


「その子、大事にしてるんやね」

 手を伸ばし、ぬいぐるみに振れた。ボアの柔らかな感触が、手の平に優しく滲みる。

「昔、珠希たまきさんが作ってくれたんです。私の出生体重と同じ重さなんです。3011g」

「へぇ」


 咲良に差し出され、ぬいぐるみを受け取る。確かに赤子と同じような重たさだ。思わず首が据わらぬ乳児を抱くように、胸に抱く。


「名前は、『ラブ』」

 頼りなく、咲良が微笑む。その言葉が、胸をついた。彼女が失ったもの、そのものの名前だったから。


 くりくりと大きな目を覗き込み、重みに意識を集中した。この重みを持って生まれた事を両親は心から喜び、何にも代えがたい幸福を感じていたはずなのに。


 咲良が腕を伸ばし、ぬいぐるみを自分の方へ引き戻した。憔悴したその顔を、ぬいぐるみに押し当ててから鼻を啜る。


 小さく溜息をついた後、咲良は再びぬいぐるみを強く抱きしめた。彼女はそれきり音を立てなかった。俺も、出来るだけ静かにしていた。呼吸の音も、出来るだけ控えた。


 ここは、猫の足音すら目立ってしまう、静かな静かな町なのだ。その空気を、乱してはならない。


 だが俺には、咲良に見せなければならないものがあった。天井を見上げてそこにある何ものかに赦しを請うてから、ポケットをまさぐる。

 

「咲良」

 呼びかけた後、動画の再生ボタンを押してスマートフォンを手に持たせる。


 湿った部屋の空気に、ショパンの「別れ」が滲みて行く。咲良の唇が軽く開かれ、うめくような声が漏れた。


 淀みなく美しい調べだった。音符の一音一音を丁寧に磨き上げるように、仁美はピアノを奏でている。音符の一つ一つが自分の思い出であるかのように。


 幸せだった時代の。

 夫と娘と過ごした宝物の様な時代の。


 やがて変調を迎える。


 悲しく激しいメロディーは、不意に途切れて不細工な形で次の音に繋がれていた。彼女の嘆きは、編集で切り取った。その姿を咲良に見せるわけには行かないと思ったからだ。


 しかし、もしかしたら余計な事だったのかも知れない。彼女はもう嘆くことは出来ないのだ。その心の叫びを無造作に切り取ってしまったのは、とてつもない罪だったのかもしれない。


 旋律はやがて、穏やかで静かな調べに変わる。死を前にして、彼女はどんな思いでこの調べを奏でたのだろう。この音色を奏でるために、どれほど多くのものを手放したのだろう。


 胸が熱くなり、頬に涙が伝った。不思議だ。自分の父が死んだ時は、涙一つ流さなかったのに。


 「別れ」は、静かに終わった。


 咲良が、息を吐いた。深く、長い息だ。それは、俺が最後に聞いた仁美の呼吸を連想させた。


「母です」


 咲良が言った。俺は差し出されたスマートフォンを受け取った。どんな顔をするべきか迷いながら。


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