第49話 辿々しい調べ

 ホスピスから連絡を受けて駆けつけた時には、仁美ひとみの意識は無くなっていた。どず黒い下顎を微かに動かして呼吸している。その呼吸の音も、モニターが示す心臓の鼓動も、驚くほど緩慢だ。死が、彼女の枕元にまで迫っていることは、誰の目にも明らかだった。


 咲良さらは丸椅子に座り、両手で仁美の手を包んでいた。俺は出来るだけ空気を揺らさないように咲良に近付き、その肩に手を置いた。咲良は小さく息を吐き、俺の方へ顔を向けた。血色を失った顔に、赤く染まった瞳が揺れていた。


「来て下さったんですか」


 煙のような声で咲良が言った。俺は頷きを返した。


「何かあったら僕にも知らせてくれるようにと、師長さんにお願いしてあったから」

「ありがとうございます」


 小さく頭を下げて、咲良は視線を戻した。淡い桃色のカーディガンを着た肩はいつもよりも細く頼りなく、手の平に感じる体温は冷たかった。


 咲良と仁美の間には、咲良の体温よりもまだ冷たい、彼女らにしか伝え合えないものが流れている。二人が歩んできた歴史を、無言のまま語り合い労り合っているような。


 俺はここにはそぐわない存在だ。ここは二人だけが存在していい世界なのだ。大切な片割れを見送る儀式を、邪魔するべきでは無い。


 仁美は深く息を吸い込んだ。次の呼吸は続かなかった。咲良が微かに身体を浮かす。しばらくして、また顎を微かに動かし、浅い呼吸を繰り返した。チェーンストーク呼吸だ。父親の死に目を思い出し、もうそれが目前に迫っている事を悟る。


 咲良の肩から手を離し、できるだけ何も乱さないようにその場を離れた。


 廊下は幾つもの部屋に繋がっていて、全てのドアが閉じられていた。このドアの向こうに、死にゆく人々が横たわっているのだと思うと、息が詰まりそうになった。病院特有の慌ただしさはここには無い。通りかかる看護師は、皆足音を立てずに行き過ぎる。


「こんにちは」


 背後から声を掛けられた。とても静かで澄んだ声だ。ホスピスのもつ静寂の一部のような声だと思いながら、振り返る。


 そこには白衣の上下を着た中年の女性が立っていた。知らない人だと思ったが、頬にある大きなホクロに既視感を感じて記憶をまさぐり、ピアノを弾くこと許可してくれたセラピストだと思い出した。彼女は微笑んで俺を見つめていた。この場所にとてもふさわしい笑顔だ。


「もうすぐ、婚約者の母が亡くなるんです。僕はそれを、待っているんです」


 言い訳をするように俺は言った。彼女はそっと息を吐き、目を伏せた。


「そうですか」


 とても丁寧に、彼女は答えた。ここには亡くなる人ばかりがいて、人の死に慣れているはずなのに、とても丁重に彼女は言ったのだ。


「婚約者の母が亡くなるのに、傍におらへんのは、おかしな事やと思うでしょう?」


 彼女の返答が余りにも丁寧だったので、「死を待っている」自分がとても不遜な者に思えて恥ずかしくなった。彼女は微笑み、小さく首を横に振った。


「お見送りの仕方は、それぞれです。同じ人生が二つあらへんのと同じです。あなたがここで亡くなるのを待つのが、あの方の死にふさわしいと思うんやったら、ここにおらはったらええと思います。でも、ホールの椅子に座って待つという方法もありますよ」


 俺は首を振った。


「ありがとうございます。でも、ここで待っていたいんです」


 彼女は微笑みを深め、二度頷いた。会釈を残し去って行く彼女は、やはり足音を立てなかった。


 程なくして、ピアノの旋律が聞こえてきた。


 ショパンの「別れ」だ。申し訳ないが、お世辞にも上手だとは言えない。俺はそれを弾いているのが、先ほどのセラピストだと確信していた。


 俺は壁にもたれて耳を澄ませた。


 辿々しい調べは、激しく胸を揺さぶった。


 彼女と先ほど出会えたことが天恵のように感じた。仁美を見送る人が、一人加わった。本来ならば彼女の死は多くの人を悲しませただろうし、惜しまれただろう。彼女が卒業式で「別れ」を奏でて見送った何百人という卒業生達が、彼女の死を愁う筈なのだ。少なくとも、咲良一人が背負うものでは、無い。


 俺の前を、病棟の師長が通りかかった。


「師長さん、すいません」

 師長は、静かに立ち止まった。真っ白な髪が、肩の少し上で綺麗に切りそろえられている。淡い水色の制服が、白髪をより一層際立たせていた。


四月一日仁美わたぬきひとみさんの件について、一切の事務手続きは僕がしますので、何かあったら僕に声を掛けてください」


 その為に俺はここに駆けつけたのだと、思い出していた。


「承知いたしました。……先ほど心停止されたようです。もう少ししたら霊安室にお連れいたしますが、葬儀場は決めてはりますか?」

「ええ。……ではもう、連絡をとらなあきませんね」

「そうですね。よろしくお願いいたします。死亡診断書など、必要な書類は今制作中です。出来上がったらお渡ししますので、精算窓口でお待ち下さい」

「分かりました」


 『遺族』という存在になった途端、様々な仕事を担わなければならなくなる。その一切を引き受けるために俺はここに来た。咲良が心置きなく大切な人の死を悲しめるように。


 もう俺には、それしか咲良にしてやれることは残されていない。

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