第48話 ハナミズキ

 今朝の仁美ひとみさんは顔色が悪く、けだるそうに横になっていた。朝食は一切手を付けられないまま下膳されていった。


 昨日一日食事を全く取らなかったと、バイタルチェックに来た看護師が言った。ベテランらしいその看護師の言葉に、心配しているようなニュアンスは含まれていなかった。「階段を一段上りましたね」と言ったように聞こえた。きっとここにいた人達は、同じように階段を一段一段上って行き、去って行ったのだろう。生まれてくるのと同じくらい、ごく自然に。


 階段はあと何段あるのですか。


 もう少しでその看護師に聞きそうになった。彼女の胸元でピッチが鳴り、慌てて退室していったから、聞かずに済んだ。


 聞いたとしても、どうにもならない。仁美さんが後少しで死んでしまうことはどうしようも無い事実で、私にはその覚悟がもう出来ている。


「ねぇ、行きたいところがあるの。車椅子を押して行ってくれない?」


 横になったまま黄色く濁った目を開いて仁美さんが言う。私は顔をしかめた。


「休んでいた方がいいんじゃない?」


 けれど、仁美さんは首を横に振った。小さいけれど、とても頑固な首の振り方だった。


「何処に行きたいの?」


 仁美さんは布団から指先を出し、窓の外を指した。視線を向けると、芝生の広場に咲く薄紅色のハナミズキが見えた。


***

 

「いつも窓から見ていたの。側に行ってみたかったのよ」


 今の今まで首を起こしているのすら辛そうだった癖に、木立の下に辿り着くと顔を上げてそう言った。薄紅色の花弁が平らに開いている。先端が内側に切れ込んだ丸い花弁は、どの花も四枚だった。中央のめしべはこんもりと丸く盛り上がっている。この姿にとても誇りを持っているのだなと思わせる、可憐な花だ。可愛らしいと思うけれど、実のところ余り好きではない。


「この花を見ると、怖くなるのよね。昔から」


 呟いて、見上げる。こんな時に嫌な言葉を並べなくてもいいのになと、声に出してしまってから後悔した。だるい身体に鞭を打ってやって来たのに。これが、最後に見る花になるかも知れないのに。


「それは多分、お父さんの記憶が残っているからよ」


 穏やかな声で仁美さんが言った。


「おとう、さん?」


 仁美さんは頷き、そっと目を細めた。ずっと遠くの風景を眺めるみたいに。その唇が、僅かに微笑みの形を作った。


「遊園地に行った時、前を歩いている人が歩き煙草をしていて、あなたの顔に当たりそうになったのよ。それを注意したら、相手の人が怒って言い合いになっちゃったの。省吾さんがそんな風に人と争うのは、後にも先にもあの時だけだった。あなたはとても怖がって、泣き出しちゃったのよね。それがハナミズキの下で起こった事だから、私はいつもこの花を見ると、三人で遊園地に行ったことを思い出すんだけど。……そうか、あなたにとっては、嫌な花なのね」

「そんなことがあったんだ。覚えてないや」


 記憶ってどうして、消えてしまうんだろう。小さな頃の想い出がそっくりそのまま残っていたら、これからの私を随分助けてくれるはずなのに。あいにく幸せな頃の事は余り覚えていない。多分心のどこか奥の方にはいくらか残っているんだろうけれど、辛い記憶が隙間無く蓋をしていて、覗き見ることすら出来ない。


「お棺に入れる時、あのセーターを着せて欲しいの」


 ハナミズキを見上げながら、仁美さんが言う。唇を噛んだ。私は首を横に振り、頑なな声で言い返す。


「それは、嫌。あれは、私が貰う。多分、仕舞い込んで絶対見ようとはしないと思うけど。でもいつか、気持ちが変わって手に取るかも知れない。そんな心境になった自分の事、想像も付かないけど。想い出の取り扱い方は変わるんだって、涼真りょうまさんが言ってたし……」

「涼真さんね……」


 ふっと、息を吐くように仁美さんが呟いた。


「いい人ね。とても……」

「いい人だよ」


 そう言って、私は目を閉じた。

 仁美さんが言わんとすることは、分かっていた。


 私達に幸せな結婚生活など訪れない。二人はいつか破局を迎える。だから早く別れた方がいい。そう言いたいのだろう。仁美さんが私達のことを、本当の恋人同士だと信じているのならば。


 私達は、契約上の結婚をするだけだ。私達の間に、恋愛感情は無い。破局することは織り込み済みのことなのだから、そんなことで傷付きはしない。


 ずっと、そう言い聞かせてきたけれど。


 私は目を閉じたまま考える。


 私は、涼真さんの事を好きになってしまった。その時点で、傷付かない結末を迎えることは、出来ないと分かっている。私は沢山の嘘をついている。その嘘をついたまま、彼の傍にいることは出来ない。


 この恋は、胸の奥に仕舞っておく。私の一生の宝物にするのだ。私だけの。


 荒い呼吸が聞こえ、私は目を開ける。そこに、仁美さんが身体を折り曲げて蹲っていた。

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