第47話 お前はどうする?

 翌朝、ふわりと優しい香りで目が覚めた。リビングへ向かうと、咲良さらがテーブルに食事を並べているところだった。咲良の髪は後ろに一つで結ばれていた。その真ん中に俺がプレゼントした髪飾りを見付け、口元が緩む。


「おはようございます」

 振り返った咲良の目が、赤く充血していた。もしかしたら一晩中、粉の事や過去の出来事で悩み、眠れなかったのかも知れない。


「朝ご飯召し上がらないって聞いてたんですけど、つい。良かったら、スープだけでも召し上がりませんか? ジャガイモのポタージュを作ったんです」

「ジャガイモのポタージュか。それはうまそうや。頂こう。……先、顔を洗って来る」


 手を上げて洗面所に行こうとした俺を、咲良が呼び止めた。振り返ると、咲良は笑顔を向けていた。無理矢理作ったような、痛々しい笑顔だった。


「涼真さんの一番好きなお料理は、何ですか?」

 唐突な質問に俺は目を瞬く。寝起きで頭が上手く回らないが、空を見つめて色んな料理を思い浮かべる。


「ハンバーグ」

 だが、考え込むより先に口が動いた。遅れて、幼い頃食卓に並んだハンバーグが思い出された。誕生日だったような気がする。同時に『幼稚臭い料理だ』と貶す父の声が聞こえた。


 食卓にハンバーグが並んだのは、多分あれが最初で最後だ。


「ハンバーグ、ですか」

 咲良の口が半開きになる。途端に恥ずかしくなった。三十半ばを過ぎたおっさんが好きな料理を問われて「ハンバーグ」とは、それこそ幼稚臭い。


「良かった! 私の一番得意な料理だ! 今晩、ハンバーグにしていいですか?」

 次の瞬間、咲良が破顔した。堅いつぼみがパッと花開いたような、華やかな笑顔だ。俺もつられて笑みを浮かべ、頷いた。


***


 咲良に、「今日は会社を休んで仁美のところへ行くように」と強引に勧めた。移動はタクシーを使うように、重々言い含めておいた。しかし咲良は、電車とバスで移動したようだ。一度アパートへ寄ってから、ホスピスへと向かった。スマホのアプリは、一連の咲良の行動を克明に表示していた。


 俺はポケットにスマートフォンを仕舞い、会議室へ向かった。最重要機密事項を話し合う会議室がある。そこへ瀬戸口一哉せとぐちかずやを呼び出していたのだ。できるだけ誰にも目に付かないように、就業時間よりも早い時刻に。咲良が瀬戸口と社内で顔を合わせるのはまずいので、会社を休ませたのだ。


 いつものカジュアルな服装では怪しまれるのでスーツ着用を命じていた。完全にスーツに着られている瀬戸口に、白い粉が入った袋を見せる。


 俺はこれが見つかった経緯と、咲良の話を出来るだけ詳細に説明した。


 眉間に皺を寄せ、瀬戸口は袋を手に持った。


「三㎏、ってとこかな」

「やっぱり、薬か?」

「ああ。覚醒剤だ。末端価格で六億ってとこかな。ま、劣化してるだろうから、実際のところは分からないけど」

「六億!?」

 思わず口をぽかんと開けた。たった三㎏の覚醒剤が、六億……。俺の顔を見て、瀬戸口がふふんと鼻を鳴らした。


「日本は、違法薬物の輸入大国なんだよ。取り締まりが厳しいから製造拠点を造りにくくて、どうしても輸入に頼らざるを得ない。入手しやすくなったとは言え、ユーザーはまだ一部の人間に限られる。ユーザーの開拓余地が充分あるし高値で売れる魅力的な商売相手なのさ、外国からすれば」


 得意げな口調にイラッとしたが、冷静を装って応じる。


「これは、どう処理するんが最良なんや?」

「公衆便所に流すしか無いだろ」


 さらりと言ってのけるので、このエセ警官めと苦笑した。ま、真面目に処理されて面倒な事になるよりはいいだろう。俺は肩を竦めてから、粉の入った袋を革の鞄に詰めた。


「鞄は手間賃」

「ふん、ヴィトンじゃねーじゃん」

「祇園のホステスじゃあるまいし」


 軽口を吐いてから、本題に入ろうと一度深呼吸した。


「日本に帰ってきたら、放火殺人事件が起こっていた。咲良はそれには触れへんかったけど、様子からそう推測した。これは、偶然とは違うやろ? 今ここに六億円があるって事は、当時六億円が消えたと大騒ぎした人間がおる筈や。この二つの出来事は、どう関係しているんや」


 瀬戸口はギュッと眉を寄せた。その顔だけで、俺の推測は当たっていると理解できた。彼は鋭い視線を俺に向け、挑戦的に片側の口角を持ち上げた。


「正確には、二億円ってとこだ。末端価格は急上昇してるからな。……これ以上は、首を突っ込まない方がいいぜ」

「そういう訳にはいかへんやろ。お前が咲良に付きまとう理由にも、関係しているんと違うんか」


 おもむろに瀬戸口は手を上げ、俺の胸を指差した。その目が、きつく吊り上がる。


「お前のせいなんだよ、こうなったのも! お前があんな目立つことするから! ……首、突っ込むんじゃねぇよ。命かける覚悟がねぇならな」


 思わず生唾を飲む。

 上目遣いに睨み付けてきた瀬戸口の顔は、これまで見てきた間抜けな警官の顔では無い。血走った眼差しに、深い闇を見た。その闇は、怒りや恨みを通り越した、怨念と呼べるものかも知れない。背筋に怖気が走った。


 その闇は、咲良を巻き込み全てを奪った津波そのものなのだ。恐らくは。


「命をかける覚悟が、必要なら。それで、咲良を守れるのなら」

 俺は、瀬戸口一哉を真っ直ぐに見つめてそう言葉を返した。


***


 通用口から帰るように言われ、俺は非常階段を降りていた。叫びだしそうな怒りを抑えて。


『それは、無理や。そこまでの事情は、容認できへん』

 九条涼真くじょうりょうまは、そう言った。命をかける覚悟があると言った舌の根が乾かないうちに。


 余りの情けなさにあきれ果てる。しかしそれは、俺の覚悟を強固なものにした。


 ――俺は、俺のシナリオを完遂する。


 通用口には職員用の靴箱が並んでいた。それが窓を遮っており、玄関框はぽっかりと穴が空いているように暗かった。スチールのドアを開けて外に出る。途端に、早朝の光が目に飛び込んできた。


 ――殺人の罪で服役する彼女を支え、出所後は共に生きる。


 両手の拳を、固く握る。九条涼真は、俺を信用しきっているようだ。だから、警戒するのを忘れている。


 俺もGPSでさーらの行動を把握している、と言う事を。


***


 社長室に戻ると、母がソファーに座っていた。まだ美雪は出社していないようだ。俺の姿を見上げてから母は立ち上がり、茶封筒をデスクの上に置いた。


「彼女との結婚は、許しません。一刻も早く手を切りなさい。会社も、解雇しなさい。後で騒がないように、手切れ金は充分過ぎる額を渡して」


 素っ気ない茶封筒に何が入っているのか、俺は知っていた。モヤモヤとしたものが胸に湧いて来る。母に向けてのものか、先ほど知った真実から来るものか、両方なのかはよく分からない。その塊が喉元まで込み上げて、吐き気を催した。黙っている事が出来なくて、俺は言葉を発した。


「会社を守る為に、ですね」

「勿論そうです。それ以外に、何がありますか」


 冷たく言い放つ声は、俺の胸中に火を付けた。拳を握り、母を睨み付ける。感情の欠片も見当たらない、のっぺらぼうのような女の顔を。


「そうですよね。会社のために製造され、社長になるために育成されたのですからね、僕は。妻はあなたのリストから選ぶべきなんでしょうね、嘗て級友をリストから選んだように」

「今更何をいうのですか。仕方が無いでしょう? 木寿屋もことやは、謂わば大樹なのです。多くの従業員がその大樹を拠所としているのです。彼らの生活を守るため、私達一族は会社を守り次の代に渡さなければならないのです。そういう営みが、百六十年も続いて来たのですよ。あなたの代でそれを潰すわけには行きません」

「あなたの顔に、ドロを塗ることになりますからね」


 思わず笑いが込み上げてきた。さっき瀬戸口が俺を嘲笑った顔とよく似ているのだろう。


「空洞だらけの大樹ですよ。僕が渡されたのは。生涯を掛けてその穴を埋めるんが僕の役目なんやと理解はしてます。リストの中から女を娶り、子供を作ってその子に会社を任せるまで」


 塩辛いものが喉に込み上げてくる。


「……僕は、なんなんでしょうね、一体。……なんなんでしょうね……」


 思わぬ呟きが、自分の唇から漏れた。顎先が震えた。危うく涙が溢れそうになり、目の奥にグッと力を込める。


「なんなんでしょうね、とは、どういう意味ですか」


 抑揚の無い声で母が言う。


「自分が何者なのか、それを私に問うのですか。己が何者かを決めるのは、己自身ではありませんか。私は木寿屋もことやの社長夫人として役割を果たしてきました。木寿屋の社長に育つための選択肢をあなたに提示するのも私の役目です。ですが、何を選ぶのかは、あなた自身の問題です。……その結果を他者に責任転嫁するなど、以ての外。これでは、何のために駒子こまこさんにあなたを託したのか分かりません」


 母は顎先を少し上げ、俺を見据えた。


「駒子さんに僕を託した、理由?」

 

 俺は首を小さく捻る。


「駒子さんは、広く物事を捉える視点を授けてくださったはずです。保志やすしさんは、置かれている世界からはみ出す勇気を授けてくださったはずです。……私は子を育てる権利を剥奪されましたが、お二人が必ずあなたを導いてくださると信じたから、全てを呑み込んで木寿屋の社長夫人の役割に徹してきました。これが、私の生きる道です」


 ゆっくりと手を上げ、人差し指を俺の鼻先に突き立てる。


「選択は、あなたがするのです。会社のために彼女を捨てるか、彼女のために会社を捨てるか」


 俺は、母の瞳を見つめた。母の瞳は何処までも黒く、静かに澄んでいた。視線が合ったのはほんの一瞬で、彼女は無表情のまま踵を返し部屋を出て行った。


 呆然とドアを見つめていたが、ジャケットの内ポケットでスマートフォンが震え、我に返った。


 ホスピスの電話番号が表示されている。すっと背筋に冷たいものが走った。




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