第46話 白いもの
「
「……分かりません……」
問いかけた俺の声は嫌に掠れていて、咲良の声はとてもぼんやりとしていた。
スーツケースの底一面に敷き詰められた白い粉。一見粗塩のように見えるが、まさか調味料をこんな手の込んだやり方で仕込む筈がない。
信じたくはないが、これは覚醒剤かなにかの違法薬物だとしか思えなかった。
咲良はしばらく間を置き、正気に返ったように眉を寄せてゆっくりと首を横に振り、もう一度「分かりません」と答える。
俺は咲良の顔を凝視した。出来るだけ公正な視点で、その表情をジャッジするように努めた。顔色、瞳の動き、眉間の皺、頬の強ばり、唇の角度。そのどれを取っても、嘘や誤魔化しが混ざっているようには、見えなかった。
そもそも、何かやましいことがあるのであれば、俺にスーツケースを託しはしないだろう。右往左往した挙げ句に辿り着いた答えは、すっと心を冷静にした。
薬物を仕込んだスーツケースを観光客の持ち物とすり替えて税関を通過しようとする試みは、ごく一般的な密輸の手段だ。それに咲良が巻き込まれてしまい、何かの手違いで回収されずに手元に残ってしまったのかも知れない。
何度も海外を往き来している咲良にならば、起こりえる事態だ。だが、スーツケースの中身が全く違う物に変わっていたら流石におかしいと気付くはずだが……。
「このスーツケースを使って旅行している時に、何かおかしな出来事は無かった? ちょっとした違和感とか、そんな些細な事で構わんから」
膝の上に拳を二つ作り、それをギュッと握りしめて咲良は目を瞑った。血色を失った唇を噛みしめる。その顎先が、小刻みに震え始めた。
さび付いたシャッターをこじ開けるみたいに、咲良はとてもゆっくり瞼を開ける。
「最後のホームステイで、私の人生は一気におかしくなったんです」
咲良の声は震えていた。
「最後のホームステイ」
青いドレスを着た咲良が告白した、嘗ての過ちを思い出す。
『彼はラズベリー色の砂糖菓子を、口移しで私にくれて、そのまま深いキスになって。……そしたら、なにもかもどうでも良くなって、レオに身を任せたんです』
「レオはラズベリー色の砂糖菓子を持っていました。クラブで何人かが分けあって食べているのを見て何となく怪しいと思っていたから、部屋に呼ばれて『あげる』と言われたけど断ったんです。なのに、口移しで強引に口に入れられてしまって……。見た目は美味しそうなのに、凄く苦くて……。あれはもしかしたら……」
「MDSA」
言葉を引き取ると、咲良の頬からさっと血流が引いた。MDSAは錠剤様の薬物で、可愛らしいラムネのような形状で出回る。ファッション性のある形から、クラブなどで振る舞われ、気軽に使用してしまう事が多い。いわゆるゲートドラッグだ。飲めば幸福感や高揚感を得られる。だが耐性がつきやすいし劣悪な製品を掴みやすく、しばしばオーバードーズで命を落とす。
咲良は微かに頷いた。
「とても、おかしな感覚でした。色んなものが歪んで見えて、感覚が鋭利になって……。私、途中で意識を失ってしまったんです。お酒を少し飲んでいたせいかもしれません。私、アルコールに弱いから……」
口元を歪めた後、咲良は言葉を続けた。
「レオはパニックになってアイラを呼んで、アイラが
咲良の瞳は瞬きを忘れてしまったように、じっと一点を見つめていた。
「気付いたら、ホテルのベッドで寝ていました。ホテルには珠希さんしかいませんでした。私が動けるようになってから韓国へ行き、半年くらいバケーションレンタルのコテージに滞在しました」
「半年も?……なんで?」
咲良は、固く一度だけ首を横に振った。
「理由は、教えて貰えませんでした。何でこんなことをするのか、問い詰めても珠希さんは謝るばっかりで……。家族に連絡を取ろうにも、携帯電話はどこかへ行ってしまっていて、コテージの電話も使えなくなっていました。何をするにも珠希さんは私から常に離れなかったし、韓国のお金も持っていなかったし。不安なまま、気付いたら半年経っていたって感じです」
クロールの息継ぎみたいに大きく息を吐き出してから、無理矢理押し出すように言葉を続ける。
「カナダは薬物が蔓延している国で、大麻を吸っている子は沢山いました。レオもアイラも、そういう人達を軽蔑していたのに……。二人が薬物にハマって私の荷物に薬を仕込んで密輸させようとしたのなら、珠希さんの行動は説明がつきます。街ではヘルス・エンジェルスっていうギャングが力を持っていて、下手に関わって怒らせたら殺されるかも知れない。だからスラム街に近付かないようにっていつも注意されていました。密輸をするっていうことは、ギャングが関わっているって事ですよね……。珠希さんは私の荷物を何度もくまなくチェックしていました。勿論、スーツケースも。何も見つからなかったけど、私の荷物に薬物が仕込まれたことは勘付いていて、探していたんだと思います」
俺は頷いた。
「丁寧な細工やから、気付かんかったんやね。きっと二人は、咲良が税関で捕まらないようにとても神経を使って細工したんやろう。アイラとレオは、どうなったんや?」
咲良はもう一度首を横に振った。
「日本に戻ってから、珠希さんにもアイラとレオにも会っていません。連絡先も、分かりません。電話を掛けてみたけれど、電話はもう通じなくなっていました。自宅の電話も、携帯も」
膝の上に置かれた手は硬く握られ、拳の関節が白く浮き上がっていた。ここに違法薬物があるという事は、当時行方不明になった薬物を巡って大きな騒動が起こったはずだ。アイラとレオはギャングから預かった薬物を紛失したことになる。当然、ただでは済まないだろう。……最悪、殺されたのかも知れない。
珠希は咲良を守る為に行動を共にしたという事なのだろうか。しかし、何故半年も韓国にいる必要があったのだろう。家族と連絡を取れない状態にし、自由を奪って。まるで、軟禁状態ではないか。
「半年後、自宅に帰って何か分かったことはなかったん?」
咲良は顔を上げたが、何も答えなかった。しばらく黙って、ここでは無い何かを見つめていた。焦点が合わない瞳がどのような光景を映しているのかは分からない。微かに寄った眉と、時折揺れる瞳。その瞳を、どこかで見たことがあるような気がする。
しばらくして、思い当たった。
巨大な津波で押し流される街を、なすすべも無く見つめる人々の瞳だ。余りにも巨大な抗えない力によって、自分の根幹をなすものが根こそぎ奪われていくのを眺めざるを得なかった人々の、その、眼差しだ。
突然、咲良の瞳から涙が溢れ、静かな筋を描きながら頬を流れた。息が止まりそうな感覚に陥った。締め付けられるような痛みから逃れたくて、咲良の頬へ手を伸ばし、涙を拭った。
呼吸をすることをやっと思い出したように、咲良は小さく息を吐き出した。
「……半年後釜山から日本に入国して、京都に連れて行かれました。そこに仁美さんだけがいて……。家には……。二度と帰ることが出来なくなっていました……。何もかもが……変わってしまっていて……。とても大きな出来事があって……」
咲良の声が掠れていき、ゼンマイが切れたように言葉が止まる。
それは、とてもデリケートな事であり、こんな状況下で問いただすべき事では無い。
咲良は上目遣いに俺を見た。瞳が揺らいでいる。そこに迷いを見付けた。心に抱えている秘密を打ち明けるかどうか、咲良は迷っている。俺は、頷きを返して言葉を待った。咲良の顔が一瞬歪み、涙の膜が瞳を覆った。
泣きたいのならば泣けば良いと、俺は覚悟を決めていた。咲良の何もかもを受け止めるのだと、少しの揺らぎもなく思う。
だが、咲良は首を横に振った。まるで自分に言い聞かせるように。そして、大きく息を吐き出してから顔を上げて俺を正面から見つめた。
「どうすれば、いいでしょう。警察に言うべきですよね」
掠れた声が、現実に引き戻す。
ロマンチックな考えに浸っていた俺は、一瞬思考停止した。そして次に、自分を嗤う。
何もかも曝け出して貰えるほど、俺は咲良に信用されていないのだ。
冷静さを取り戻した俺は、逡巡する。日本の法律では、違法薬物を所持していた時点で有罪になる。「故意に使用する目的で無ければ」その限りでは無いが、実証するのは難しい。住居や職を転々としてきた経歴が、不利な方向へ向かうかも知れない。
咲良が薬物取締法違反で逮捕される事態になったら、
こんな時に会社の利益を天秤に掛ける自分に、反吐が出そうだった。しかし、そうせざるを得なかった。俺は木寿屋の社長で、多くの社員の生活を背負っているのだ。
浮んだのは、
ホームステイ先での薬物騒動。巻き込まれて何とか日本に帰ってきたら、瀬戸口省吾の放火殺人事件が起こっていた? そして、被害者の
これらは、一つの線で繋がっているのでは無いだろうか……。
***
自室に戻り、白い封筒を開ける。
スーツケースの底に、手紙が入っていた。私宛の
その日の後で読もうと思っていたけれど、何かに縋りたくて封を開けた。そして、思わず笑ってしまった。同時に、息が出来ないくらい胸が苦しくなる。
仁美さんは何時だって、私に厳しかった。その姿勢を最後まで貫き通した、と言うわけだ。私が欲しいと思っていた言葉なんて、一言も書かれていない。
喉が引き攣れた。
一瞬何もかも打ち明けてしまおうかと思った。どんなことでも、涼真さんは受け止めてくれる。そんな夢みたいな事を考えて。でもすぐに、嫌悪の眼差しを向ける涼真さんが思い浮かんで、馬鹿な自分を嗤った。
仁美さんに言われなくても分かっている。このままでは、涼真さんにとてつもない迷惑を掛けてしまう。
声が漏れないように口に拳を押し当てる。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。手が震えていて、取り出すのに戸惑う。
画面に、貴和子さんの名前が表示されていた。通話ボタンを押し、出来るだけ普通の声が出るように気を付けて「もしもし」と言う。電話の向こうで、息を飲む気配がした。
『どうしたの? あなた、泣いているんじゃない?』
「……」
何も答えることが出来なかった。声を出せば嗚咽になりそうだったから。貴和子さんが小さく息を吐いた。
『何があったの? 私に話してごらんなさい』
電話から聞こえる声は優しくて、思わず小さなうめき声を漏らしてしまう。
『いいのよ、泣きなさい。一人で泣くのは辛いから、私で良ければ傍にいてあげるわ』
「すいません……。すいません……」
何とか声を押し出すと、『いいのよ』と頭を撫でるような優しい声が聞こえた。こんな無条件の優しさを、欲していた。ずっと。
貴和子さんがお母さんだったらいいのに。
ふと浮んだ言葉は喉元をぐっと締め上げた。
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