第45話 スーツケース

 咲良さらのスーツケースは、海外の旅行客が持ち歩いているような特大サイズで、紺色のごくありふれたものだった。


 引き摺らないようによたよたと持ち上げて歩いてくるので、持ち手に手を伸ばして引き取った。年代物だからか、空の筈なのに随分と重量がある。


 そう言えば車輪の動きが不安定で、アスファルト上でガタガタ暴れていたな。


「えらい年季の入ったスーツケースやな」


 思わず本音が漏れてしまう。咲良は両眉をショボンと下げた。


「中学の時から使ってるんです。初めて一人でホームステイ先に向かうことになった時に、買ってもらいました」

「それは、かなりやな。車輪の動きもようないし、旅行に行く時新しいのに買い換えよう」

「え、旅行?」


 さらりと口に出してしまった自分の言葉に動揺する。咲良の顔がものすごい勢いで赤く染まっていく。


「そりゃ、新婚旅行くらい、行かんと……」


 慌てて誤魔化したつもりだったが、却って何かイヤラシイ企みに聞こえる。


「それくらい行かんと、周りがうるさいし。部屋は、別々に取ればええやろうし……」


 新婚旅行で別々の部屋を手配して貰うのは、おかしいだろう。胸中でセルフ突っ込みを入れる。言葉を重ねるほどおかしな方向へ向かっていく。


「そ、そうですよね……。ネットで予約すれば、シングル二つでもおかしいと思われないですよね……」


 咲良の受け取り方が素直でとても助かるのだが、すんなりとその口から『シングル二つで』と出てきたことに落胆する。咲良は俺に対してどのような感情を抱いているのだろう。急激に不安感が押し寄せてきた。


 彼女は目を細めて、スーツケースを撫でた。ゆっくりと。艶を失ったプラスチックの表面を、愛おしむように、ゆっくりと。


「でも、スーツケースは捨てたくないんです。これは、戦友みたいなものなので……」


 恵まれた家庭に育った彼女がレールを外れ、苦労を重ねる姿を見つめてきたスーツケースだ。そう思うと、傷の一つ一つが貴重な物に見えた。俺は頷き、大切な物としてスーツケースを持ち上げた。


「分かった。これは捨てんとおいとこう。ほな、車輪がなおらんか、ちょっと見てみる」

「え、修理できるんですか?」

「多分。わりと、工具を使ってなんやかんやするんは、嫌いやないねん」

「わ! わ! 格好いい……。み、見ててもいいですか? 邪魔しませんから……」

「別に、かまわへんけど。上手く行かんかっても笑わんといてや?」

「笑いませんよぉ」


 スーツケースの修理がそれほど面白いものだとは思えないが、咲良の申し出を了承して寝室のドアを開ける。掛け布団が朝はねのけたままになっていて、慌てて整えてからクローゼットのドアを開けた。


 ウォークインクローゼットは三畳あるのだが、収納しているものは多くない。面積を占めているのはスーツと靴だ。日々袖を通す衣服には拘りがある。その日のスケジュールを念頭に置いてコーディネートを決めると、エンジンがかかる。だから、年に二枚ほどオーダーメイドで新調する贅沢を自分に許している。


 その他には、ゴルフバックとスーツケースくらいだ。しばらく使っていない釣り具は、衣類の奥に眠っている。


「釣り竿! 涼真さん、釣りをされるんですか?」

 その釣り具をめざとく見付けた咲良が、指さして言った。俺は思わず苦笑する。

「最近は、殆ど行かへんなぁ……」


 釣りを教えてくれたのは保志だ。彼はバス釣りにはまり、ボートを買って琵琶湖畔に置いていた。俺は釣った魚をリリースする釣りには興味を持てなかった。それよりも、北海道で渓流釣りに夢中になった。


 渓流釣りは、人間であることを脇に置いて自然に溶け込み、魚の気持ちになって駆け引きを楽しむ。人間は動物であるということを、肌で感じる釣りなのだ。臨場感溢れる駆け引きと自然に身を置く安らぎは、当時の自分には無くてはならないものだった。


 京都に戻ってからは、しばらく投げ釣りをしていた。竿を海に垂らして後はのんびりと魚がかかるのを待つ。忙殺される日々の中で自分を取り戻す大切な時間だった。


 しかし、次第に釣り場へ行くのも億劫になった。釣ったとしても、一人で魚を捌いて食べるのは味気ない。


 だが釣りは、女を口説く道具には使えた。何においてもスマートな若き社長と釣りとは、イメージが重なり合わないらしい。いわゆる「ギャップ萌え」を狙えるのだ。気持ち悪い釣り餌を針に刺してやるだけでも、「頼れる男」に見えるらしい。


 もっとも、女を口説き落とすのに、そんなに労力を使うことは滅多と無かったが。そう考えて、美葉みよを口説く為に舞鶴の海へ行った事を、ふと思い出した。


 小島が浮ぶ日本海の海が、目に浮んだ。潮の香りと、波止場に浮ぶ大きな船も。


 舞鶴の海は、俺にとって特別な場所なのだ。


「昔、家族で行ったことがあるんですよね。海釣り公園に……」

 ぽつりと呟く咲良の声で、我に返る。視線を向けると、咲良は俯いて目を伏せていた。その口元が寂しそうに微笑んでいた。


「今度、一緒に行こうか。舞鶴の海へ」

「舞鶴?」


 俺は、頷いた。咲良に舞鶴の海を見せたいと思った。そこで自分自身の何もかもを曝け出し、咲良にプロポーズをしよう。契約ではない、正真正銘のプロポーズを。


 唐突に思い付いた。余りにも早計で子供じみた思い付きに呆れる。


 それは、もっとずっと後の事だ。まず俺達は沢山のことを乗り越えなければならない。


 仁美を見送り、悲しみが昇華されるまで寄り添わなければ。


 住田貴和子の策略も気になる。何を考えているのか知らないが、咲良に危害を加えるつもりならば会社ごと潰してやる。


 色んな事をクリアにして、そこから始めなければならない。


 咲良の失ったもの、そしてこれから失うものを、取り返すことは出来ない。けれど、新たに築き上げることは出来るはずだ。彼女にとっての幸せを。その力になれるのならば、何だってしよう。


 俺はもう一度頷いて、咲良を見つめた。俺の胸中を知らない咲良は、嬉しそうに微笑んでいた。


「さてと」 


 ではまず、眼前の課題をやっつけるとしよう。


 クローゼットの片隅に置いていた工具箱を引っ張り出してから、スーツケースの蓋を開けた。


 スーツケースの中にはナイロン素材の内装が張られていて、底は平らになっていた。


 どのスーツケースも、インナーにはキャリーバーが二本走っている。咲良のスーツケースはその上に平たい板を置いたフラットタイプのようだ。


 俺のキャリーケースは、キャリーバーがむき出しになっている。フラットタイプは荷物の整理がしやすいという利点があるものの、キャリーバー周辺の空間がロスになるし、板を張る分僅かだが重たくなるので、俺はフラットタイプを選ばない。


「あれ……」

 一瞬目の錯覚かと重い、顎に指を当てて底を凝視した。


 目の錯覚では無い。車輪に向かって、底板が僅かに撓んでいる。手を触れると、ふかふかとした感触があった。キャリーバー周辺の空間に詰め物をしてあるようだ。板を安定させるためなのだろうか。しかし、重量的に実に無駄な仕様だ。


 内装のナイロンは紺色だった。何気なく手を触れ、縁が僅かにめくれ上がっていることに気付いた。指で摘まむと、何の抵抗もなくペリペリと剥がれる。剥がれたのは劣化した両面テープだ。俺は眉を寄せた。


「咲良。このナイロン、剥がしたことがあるん?」

「いいえ、そんな事しません」


 咲良は、きょとんと首を横に振る。と言うことは、経年劣化で内装を張り付けているテープが剥がれたのだろうか。


「内側の板がたわんでるんや。それが車輪の不具合に関係してるかも知れへん。いっぺん剥がしてみてもええかな」

「はい。おまかせします」


 咲良はスーツを挟んだ向かい側にちょこんと座って頷いた。


 内装は何の抵抗もなくペリペリと軽い音を立てて剥がれ、薄いアルミの板が現われた。板はアルミテープで側面に貼り付けられていたが、車輪付近のテープが剥がれ、浮き上がっていた。


 それは、何かに内側から押し上げられているように見えた。衝撃を緩衝するような資材が入っていて、それが経年劣化で偏ってしまったのかも知れない。アルミのシートを剥がしてその偏りを修正すれば、重量バランスが整い車輪の動きが改善するかも知れない。


 俺は慎重にアルミテープを剥がし、シートを取り外した。


 向かいで咲良がハッと息を飲んだ。


「な、なんだ……」

 俺も思わず声を漏らしてしまう。


 アルミを取り外したその場所に、白いものが敷き詰められてあったからだ。


 白いもの。それは、粉状のものだ。ビニール袋にみっちりと充填され、キャリーバーの隙間に収まっている。その粉が、車輪に向かって盛り上がっていた。元々は平らに敷き詰められていたのだろう。そして、アルミの板は平らな状態を維持するよう押さえつける役割を担っていた。


 咲良が大切にしてきたスーツケースには、購入時の状態から手を加えられている。それは、疑いようのない事実だ。


 咲良の顔は青ざめ、信じられないものを見るようにそれを凝視していた。

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