第55話 桃のジュース

「これ、飲んでみて。お取り寄せした桃のジュースなの。濃厚で美味しいのよー。あなたに是非、飲ませたくて!」


 洗い物を終えてリビングに入ると、ソファーセットのローテーブルにグラスが置かれていた。緋色のニットワンピースを着た貴和子さんがソファーに腰掛けている。促されるまま、向かい側に座った。開いたばかりのチューリップを連想させる細長いグラスが、乳白色の飲み物で満たされている。もいだばかりの果実のような鮮烈な香りが鼻孔をくすぐる。


「いただきます」

 グラスに手を伸ばすと、貴和子さんは目を細めた。緋色の袖口から、黒いレースの手袋が覗いている。もう、出発の時間なのだろうか。これを飲んだら、私もおいとましよう。


 ジュースは、果実を手で絞ったように桃の風味が濃厚で、甘みの奥に苦みも隠れていた。細いグラスの容量はそれほど多くなかったので、とろりとした液体を一気に飲み干してしまった。


「美味しい」

 ほっと息を吐いてそう言うと、貴和子さんは笑みを深めた。

「それは良かった」


 私は居住まいを正し、貴和子さんに頭を下げる。


「これまで優しくしてくださって、ありがとうございました。旦那様を殺めた人間の娘なのに、思いやりを掛けてくださって……。貴和子さんの事、お母さんみたいだって勝手に思っていました。とても沢山、助けていただいたんです、私……」

「あら、それは私も同じよ」


 顔を上げると、貴和子さんが優しい眼差しを向けていた。


「そして、今からあなたは私の窮地を救ってくれるんだから。……あなたたち親子は、私の恩人ね」


 赤い口紅を引いた唇が、鮮やかな弧を描いた。貴和子さんの言葉の意味がよく分からず首を傾ける。すると、微笑む貴和子さんが二重に見えた。目がおかしい。擦ろうとしたけれど、腕が持ち上がらない。


「おい、ちょっと盛りすぎたんじゃないか?」


 ドアの開く音がして、男の声が聞こえた。どの音も、水の中で聞いているみたいに揺れている。何とか視線をドアに向ける。白いドアの前に、紺色の服を着た男性が立っていた。


 え……。


 驚きは声にならず、小さく喉を震わせる。紺色の服は警察官の制服で、それを着ているのは、一哉だ。一哉の隣に、背の小さな男の人がラブを抱えて立っている。


 どうして、一哉がここにいるんだろう。しかも、警察官の格好をして。


 疑問は景色の暗転と共に、フェードアウトした。


 ***


 さーらはぐったりとソファーにもたれかかり、意識を失った。何もかも全て計画通りだ。


 処分するように言われた薬の空包を見て、致死量に達していないか不安になり、予定よりも早くリビングのドアを開けてしまった。さーらに俺の姿、見られてないよな。鎮静剤のリスパダールに睡眠導入剤のマイスリー。それが通常の倍量で、ジュースにはウォッカも混ざっている。さーらはアルコールに弱い体質だから、薬効が増幅されてしまうかも知れない。


 貴和子は腕を組んでさーらの側へ歩み寄り、身体を折り曲げるようにして顔を覗き込む。

 そして、髪を掴んで頭を揺すり、フンと鼻を鳴らした。


「省吾によく似ているのよね、この子。本当に癪に障る」

「やめろよ。……今目が覚めたら、台無しになるぜ」

「これくらいじゃ起きないわよ。三時間はぐっすり眠っているはずよ」

「……致死量に達してないだろうな」

「大丈夫よぉ。これくらいじゃ死にはしないわ。殺さない約束だものねぇ。あなたは刑期を終えるまで彼女を支えてあげるんでしょ? 純愛よねー。……で、もう終わったんでしょうね」


 貴和子は口の端を持ち上げた後、きつい視線を向けてきた。俺は頷きを返す。


「ああ。後部座席に練炭仕込んで、証拠になりそうなものは全部片付けた。さーらが目を覚ます頃には、旦那はあの世に旅立ってるさ。約束通り、保険金は全額俺が頂くぜ」

「分かってるわよ。頃合いを見て私も眠るから、後はよろしくね」

「了解。目が覚めたら、彼女は天国から地獄だ。もう少しで木寿屋もことやの社長夫人になれるところだったのに、気付いたら殺人犯だ。最初から俺を選んでいたら、こんな目に遭わなかったのにな」


 ふっと笑うと、貴和子の頬がピクリと揺れた。思わず俺は、口元を親指で押さえる。


「今、なんて言ったの? 木寿屋の社長夫人?」

「あれ、知らなかったか? こいつ、木寿屋の社長、九条涼真と婚約してんだぜ」

「そんな馬鹿なこと! 犯罪者の娘と婚約なんて、するわけ無いでしょう」

「ところがだ。あの馬鹿社長、さーらの嘘にすっかり欺されてんだ。親類と養子縁組して名前変えただけなのにさ」

「……先に言いなさいよ!」


 貴和子が、俺の肩を掴んだ。手袋越しの爪が肉に食い込む。貴和子の目がきつく吊り上がる。猛り狂う肉食獣のように。


 だが次の瞬間、その目が大きく見開かれ、爪が肩から離れた。


「だったら殺人犯に仕立てるの、やめましょう。作戦変更よ。この子を使って木寿屋を裏から操りましょう。私、歴史ある会社を手に入れたかったの。……創業百六十年! 素晴しい響きじゃない!」


 貴和子は両手を天井に向け、くるりと一回転した。何て短絡的な。俺は愕然とし、言葉を返した。


「旦那の死体はどうすんだよ。認知症の男があんなに綺麗に練炭自殺なんて出来ねぇぞ」

「それは、あんたがどうにかしなさい。私は木寿屋を手に入れることに決めたのよ」

「マジかよ……」


 貴和子の昂揚した笑い声がキンキンと響き、思わずこめかみを押さえる。


「大金が手に入るのよ、ちょっとくらい苦労しなさいよ。誠司せいじ君は何でもしてくれたわよ。警察官なんだから、上手いこと誤魔化せるでしょ?」


 こめかみを押さえたまま、貴和子を見た。頬が上気し、見開いた瞳はギラギラとした妖光を宿している。上品な社長夫人を演じているが、本性は欲にまみれた獣だ。


 この獣が誠司さんに何をさせたのか、聞いておく必要がある。


 手をこめかみから外し、その顔を正面から捉える。


「警察官時代の誠司さんに、何かさせたのか? 俺は彼の二の舞になりたくないからな、真相を聞いておきたい」


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