第16話 素晴しい夜
心地よい音楽が意識の中に滑り込んできて、自分が眠っていることに気付いた。聞こえてくるのはゆったりとしたメロディで、甘い声が音源に重なっている。
「And I can change the world
I'll bee the sunlight in your universe
You world think my love was leally something good
Baby, if I could change the world」
社長さん……じゃない、
起きたことを悟られたら、歌うのやめちゃうんだろうな。そう思って、ギュッと目を瞑る。
エリック・クラプトンの「チェンジ・ザ・ワールド」だ。名曲だわ。
もしも僕が王様になったら
例えそれが一日であってもね
君をお妃にするよ
君以外考えられないのさ
もしも、僕が世界を変えられるなら……
もしも、世界を変えられるなら。それが例え一日限りでも。もしもそんな魔法を使えるなら、あの日に帰えりたい。閉じた瞼の内側に、懐かしい顔が見える。いつだって優しくて、温かな愛を惜しみなく注いでくれた人の。
私はその愛の下で、何の不安も抱かずに笑っているんだ。ほんの一瞬で良いから、そんな日々に戻りたい。
不意に、私の頬に温かなものが触れた。驚いて顔を上げると、目を見開いている涼真さんがいた。私は車の中にいて、倒した助手席のシートに横たわっている。身体に涼真さんの上着が掛けられていた。涼真さんも横になっていたみたいだけど、上体を起こして私を覗き込んでいる。
「ごめん、起こしてもうた」
「いえ……。私、寝ちゃってたんですね」
上体を起こすと、涼真さんは再び私の頬に触れた。その時やっと、自分が涙を流していたことに気付く。
「悲しい夢、見てたん?」
問いかけに、曖昧に頷いた。
「海老天を食べそびれる夢」
どんな夢か聞かれたら困るので、くだらないことを言って誤魔化す。その作戦は上手く行ったようで、涼真さんはふっと微笑んだ。
その微笑みが、徐々に大きな笑い声に変わる。
「ほんまに
「お、お酒!?」
「そうそう。蕎麦湯と日本酒、間違えて飲んだんや。普通一口飲めば分かるやろうに、飲み干して」
「えええええ!?」
頭を抱える。そう言えば、お蕎麦屋さんから記憶が途切れている。
「からみ酒やねんから、質が悪い」
そう言って、くっくと笑う。思わず顔を両手で覆った。
「何か……、粗相をいたしましたか……?」
「教えへん」
「やだやだやだやだ! 教えてくださいよぉ」
涼真さんはふっと視線を逸らせ、口元に照れ笑いを浮かべる。その顔を見て、自分が涼真さんの腕にしがみついてしまったことに気付いた。慌てて手を離すと、涼真さんはまたふっと笑みを零した。
「嘘嘘。別になんもせんかったよ。車に乗ったらすぐに、鼾かいて寝た」
「い、鼾……!?」
「それは、ほんま」
恥ずかしい! 頭を抱えると、涼真さんは軽やかな声を上げて笑う。身体に掛けられていた上着で顔を隠すと、シトラスの香りがした。水面に一輪の花が浮かんでいるような、甘さを抱いた清涼感のある香り。
「可愛い鼾やったから、大丈夫」
ぽん。涼真さんが私の頭に手を置いた。ますます顔が熱くなる。きっと茹で蛸みたいになっている筈。これじゃあ上着を返せない。
チェンジ・ザ・ワールドが終わり、マイ・ファーザーズ・アイズに変わる。ギターがムーディーな音色を奏でる。父の顔を知らないクラプトンが父親になり、歓びと葛藤を抱いた。そんな心境を歌った曲だ。
「ベストアルバム……」
グレートーンのジャケットを思い浮かべていたら、無意識にそう呟いていた。上着をひょいと持ち上げられ、茹で蛸の顔が露わになる。驚いた顔の涼真さんが私を見つめていた。
「知ってるん? エリック・クラプトン」
「家に、アルバムがありました。父が好きだったんです」
「お父さんか……。ちょっと傷付いた」
唇を尖らせ、目を伏せる。その表情がちょっと可愛かった。
「涼真さんには少し古いんじゃないですか?」
「そうやね。僕の兄貴みたいな人がよう車でかけてた曲。その年代のロックが結構好きやねん」
「ロック? 意外……」
涼真さんは視線を逸らし、照れ笑いを浮かべた。
この表情、好きだな。綻んだ唇から溢れる歯と、少し眉が下がった目元。いつもより少しだけ、幼い感じになる。
「咲良は、音楽はどんなんが好き?」
問われて、私は首を捻る。そう言えばここ何年も、音楽なんて聴いていない。思い浮かんだのは、このアルバムに入っている曲だった。
「クラプトンの、ワンダフル・トゥナイトが好きです」
「ああ、それ、僕も好き」
涼真さんはカーステレオに手を伸ばした。ワンダフル・トゥナイトが流れる。ギターの音色が、とても甘い。
「このギターがいいんですよね……」
「分かる分かる。クラプトンは世界一のギタリストや」
頷いて、涼真さんは小さな声で口ずさんだ。甘い声に耳を傾ける。こんな声に「今夜の君は素晴しいよ」なんて言われたら、絶対溶けちゃうなぁ。
「今夜は、素晴しい夜やね」
不意に涼真さんは呟いた。そして、真っ直ぐ前を指差す。眼前には宝石をちりばめたみたいな夜景が広がっていた。思わず歓声を上げる。
「大岩山展望所。伏見区と山科区の境目で、京都と大阪の夜景を見れる場所やねん」
「え? 大阪まで?」
「天気のええ日は、あべのハルカスまで見えるらしいで」
「天王寺まで? 凄い! 何処にあるんだろう」
「うーん、あっちの方? あの明るい所が多分梅田辺り」
首を傾げながら目を細め、遠くを指差す。指先を辿って身を乗り出すと、頬が涼真さんの肩に触れた。咄嗟に身を引くと、涼真さんは悪戯っぽい表情で笑いかけてくる。
クラプトンのギターが、愛を語っている。
ああ、本当に素晴しい夜だ、今夜は。
*歌詞はエリック・クラプトン「チェンジ・ザ・ワールド」より引用いたしました。
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