第15話 類似点と相違点

 人間ドックが終わってから、社長さんとランチを食べた。


 商業施設のレストラン街をぶらぶら歩き、社長さんが店を選んだ。青いのれんが掛かったお蕎麦屋さんだ。この前ご馳走になったので、お蕎麦くらいなら払えると思ったけれど、このお蕎麦屋さん結構良いお値段。社長さんが選んだ海老天ざるは何と二千八十円。蕎麦に二千円なんて、ドン引きだわ。


 私は大人しく盛り蕎麦を注文した。ざる蕎麦よりも盛り蕎麦のほうが量が多そうだったから。その分海苔が乗ってないんだけど。……盛り蕎麦が九百八十円。しばらくもやしで食いつなぐかぁ……。


咲良さらは、なんで家を出たん?」


 食事が半分くらい進んだ時、社長さんが突然そう訪ねた。私の心臓がドキリと跳ねて、充分に噛み砕いていない蕎麦を飲み込んでしまった。


 質問の内容は想定内のことで、それに驚いたのではない。「咲良」と呼び捨てにされたからだ。私は、「畑中はたなかさん」「咲良ちゃん」を経て、「咲良」と呼ばれるようになるのだろうか。そう思うと鼓動が早くなる。


「えっと……。うちの親は両方とも高校教師で、凄く厳しかったんです。それで、ずっと反感を持っていたんですけど、ある日堪忍袋の緒が切れちゃって」


 いずれ質問されるだろうとは思っていたから、答えは用意してあった。恥ずかしさを装って話せば真実味も沸くだろうと、計算もしていた。


「家出するほど、何に腹を立てたん」

「進路のことです。両親は教師になれと迫って、それ以外の選択肢を排除したんです。私は、コピーライターになりたかったんです。あの頃は若かったから、自分の力で何だって出来るって、思っていました。大学だって、大検受ければ高校を出なくても受けられるし、アルバイトをすれば、学費だって何とかなる。そう思って、なにもかも捨てて、今一緒に住んでいるおばさんのところへ駆け込んだんです」

「凄い行動力やな……。おばさんって、実際の関係は?」

「母の妹です。でも、姉妹仲が悪くて……。しばらく内緒で匿ってくれました。それで余計、仲が拗れちゃいました」


 ペロリと舌を出してみせる。社長さんは、難しい顔をしていた。箸を止めて、私の顔を見つめる。私は思わず視線を逸らした。社長さんは、尚も私を見つめている。


 それから、ふっと塊のような息を吐いた。


「……人には、いろんな事情があると思うけど、亡くなる人には出来るだけ後悔が無いようにしてあげたいと、僕は思う。仲が悪いという事やけど、お母さんには伝えてあるん? 妹さんが病気やって」

「それは……。勿論」

「ほな、何かしらの力に、なってくれへんの?」


 私は俯き、首を横に振る。


「色々、拗れちゃって」

 そう言って、曖昧に笑う。


 嘘は、積み重なる。一つ嘘をつけば、そのつじつまを合わせるために嘘をつかなければならない。そうしていたら、どうしようもない誤差が生じ、破綻する。だから時々「色々拗れちゃって」という言葉で濁す。この言葉は、あちこちに生じた亀裂を埋めるセメントのような役割をする。


「そうか」

 社長さんは、ふっと笑った。そして、海老天を一匹私の皿に乗せた。


「三十代には、ちょっと重たかったわ。手伝ってくれへん?」

「ふふ、喜んで」


 私は努めて明るく、そう言った。良いお値段なだけあって、海老は太くて食べ応えがあった。衣がサクサクで凄く美味しい。こんな時でも私には食欲があり、どんなものでもしっかりと平らげて消化してしまう。


「それから、呼び方やねんけど」

 紫蘇天を箸で摘まんでから、思い出したように社長さんが言う。


「咲良は僕のこと、『社長さん』って呼ぶやろ? それは、あかんと思うねん」

「ええ?」

「婚約するって事は、付き合っているっていう前提があるはずやん。それやのに『社長さん』は不自然やろ」

「じゃあ、何て呼べば……」


 ドギマギしながら問うと、当然のことというような顔で、社長さんは言う。


「名前で呼ぶ」

「名前……? く、九条くじょうさん?」

「ちゃうやろ」


 ツッコミを入れた後、社長さんは期待を込めた視線を私に向けた。一度その言葉を頭に思い浮かべ、全身が熱くなる。


「りょ、涼真りょうまさん、ですか……?」

「はい。そうしましょう。僕は、君のことを咲良と呼び捨てにさせて貰うで」


 さっきから呼び捨てにしているのに、改めて宣言された。ドギマギと頷きを返す。


「咲良」

「りょ、涼真さん」


 呼び返す。涼真さんは微笑んで私を見つめる。頬が熱を持ち、鼓動が早まり、息苦しくなる。彼は少しだけ顔を近付けて、私の瞳を覗き込んだ。


「咲良」

「……涼真さん」


 答えると、笑みを深めて目を細める。


「咲良」

「涼真、さん」


 もう一度名を呼ばれ、答える。三度目なのに、まだ上手く舌が回らない。


「咲良」


 また、私の名を涼真さんが呼んだ。私は思わず顔を両手で覆い、激しく首を横に振る。


「もう、何度も呼ばないでくださいっ」


 きっと、くっくと喉を鳴らすだろう。そう、思った。けれど、涼真さんは笑わなかった。言葉も発しなかった。顔を覆った私の耳に、食器同士がぶつかる甲高い音と、離れた席から聞こえてくる聞き取れない会話だけが入り込んでくる。私は手の形をそのまま残して、そっと顔を上げた。


 涼真さんは、私から顔を背けていた。少し眉を寄せ唇を固く閉じ、空中にある彼だけにしか見えないものを見つめていた。


***


『二人の時は、社長って呼ばんといて』


 そういうと、美葉は困ったような顔をした。


 彼女が恋人と別れてすぐに「お試しでの交際」を申し込み、初めてデートをした日の事だ。俺は彼女が好む「庇護したくなる男」を演じ、心の隙間に入り込んだ。


 彼女にとって別れた恋人の存在はとてつもなく大きかった。思いがけなく告げられた別れで、彼女は土台を失ったように頼りない存在になった。そんな彼女を手に入れるのは、呆気ないほどたやすかった。初めてのデートで家に連れ込むことに成功し、彼女の手料理を食べながら、俺は彼女にそう言った。


『……じゃあ、なんて……』

『普通に、名前を呼んで』

『く、九条さん?』


 恋人として呼んでくれと言っているのに、名字はないだろう。俺は思わず吹き出してしまった。


『彼氏やねんから、下の名前で呼んでぇや』


 そう言うと、美葉は俯いて頬を少し赤く染めた。その顔が愛しいと思った。


『涼真、さん』


 名を呼ばれ、自分でも狼狽えるほどの嬉しかった。もう一度名を呼んで欲しくなり、何度も美葉の名を呼んだ。けれど、美葉は俺の名を呼ばす、困ったような顔をした。頬に手を触れてみても。


『もう、何度も呼ばないで』


 そう言われて、すねる子供のような気持ちになったが、顔に出さないように努めた。


『だって、ずっとそう呼びたかってんもん』


 代わりに少し、甘えた声でそう言った。美葉は俺を見つめたけれど、その瞳には、恋とか愛とか、そんな甘いものは見付けられなかった。


『美葉が好きで、好きでたまらんねん』


 今度は情熱的に、気持ちが抑えきれなくなった男を演じた。唇を求めると、彼女は拒みはしなかった。


 名を呼ぶ度に、咲良は俺の名を呼び返した。美葉とは違う反応だった。


『もう、何度も呼ばないでくださいっ』


 そう言って、真っ赤になった顔を手で覆った。似たような言葉を美葉も言ったけれど、こんなに純粋に照れたりはしなかった。


 レストランで雲丹とキャビアの前菜を見た時は、美葉の方が無邪気に感動し、咲良は冷静に料理の味を堪能していた。二人の反応は、いつも真逆だ。


 美葉に似ている咲良。姿形が似ていて、目鼻のある位置と大きさがほぼ同じ。でも、そこにあるパーツの形が違う。まるで同じ形の硝子瓶だけれど、中身が全く違うみたいに。


 彼女と一緒にいれば、美葉と過ごす疑似体験を味わうことが出来るだろうか。多分俺は、それを期待している。


 だからなのだろうか、美葉と咲良の類似点と相違点を見付ける度に、胸が焼け付くように苦しくなる。


「もぉ! 何処見てんですか! 涼真さん!」


 突然頬を手で挟まれ、正面に向けられる。眼前には咲良の顔がある。顔全体が真っ赤に染まり、トロンと目が細められている。


「私といるのに、考え事しないれくらさいよぉ。寂しいじゃないれすかぁ」

 オマケに舌が回っていない。咲良はぷぅっと頬を膨らませた。可愛い。何とも言えず可愛らしい。だが、この変貌ぶりは一体……。


「ああ! すいません! 新人のバイトが蕎麦湯と日本酒を運び間違えてしまいまして……」


 名札に「店長」と書いてある男性が盆に湯呑みを持って走ってきた。咲良の手元には中身が空のよく似た湯呑みが置いてあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る