第14話 ブライダルチェック

 私と社長さんは、味気ない長椅子に並んで座っていた。二人とも、ゆったりとしたTシャツに丈の短いイージーパンツを身につけている。私はピンク色、社長さんは水色のTシャツで、パンツは同じグレーだ。


 契約結婚をするにあたり、私の条件を飲む代わりに、社長さんも一つ条件を出した。


 それは、「ブライダルチェック」なるものを受けること。


 ブライダルチェックは妊娠出産に関して問題の無い身体かどうかの健康診断で、アメリカなどでは一般的なのだそうだ。社長さんのお母さんは必ずブライダルチェックを受けるように求めるはずで、言われてするのは気分が悪いから、先に受けておこうと提案された。どうせなら、身体の隅々までチェックしようと二人で人間ドックを受けに来たのである。


 胃カメラの順番を待っていたら、お腹が派手に鳴った。私は思わず、問診票で腹部を隠す。予想通り、社長さんは身体を前屈みにしてくっくと喉を鳴らした。


「音は隠れへんよ」

「知ってます! 絶食で、お腹空いてるんです!」


 頬が熱くなる。社長さんは笑顔をこちらに向ける。綻んだ口元から綺麗に並んだ真っ白な歯がチラリと見えた。スーツ姿ではない彼を見るのは、初めてだ。しかも、凄くダサい格好。それなのにキラキラ輝いて見えるのは、何故?


咲良さらちゃんは、朝ご飯はしっかり食べる方?」

「そうですね。お掃除の仕事は身体を使いますし、これまでも大体肉体労働でしたから、朝ご飯は大事です」

「パン派? ご飯派?」

「断然米です。腹持ち良いですから。納豆とか、海苔の佃煮とか、なめたけとか、ご飯のお供でかっこみます。夕食で多めに味噌汁を作っておいて、それも。残り物野菜でぬか漬けを作ってるので、余裕があればそれも」

「ほお。健康的やなぁ」


 社長さんは目を細めた。隣に座っているというシチュエーションは、酔っ払っている時以来だ。ドキドキして、視線を向けられない。


「社長さんは、朝ご飯は何を召し上がるんですか?」

「僕? 僕は、会社で珈琲」

「それだけですか!?」


 視線を向けられないと思っていたけれど、驚いて社長さんの方を向いてしまう。思ったよりも近くに顔があって、目がチカチカする。


「夜にバーボンやらブランデーやらをストレートで飲むからやろうなぁ。朝はどうも胃の調子が悪いねん」


 社長さんは、胃の辺りを摩った。何とも不安な言葉だったから、顔を覗き込んでしまった。睫が濃くて、とても長い。鼻筋がすっと通った甘いマスク。こんなに素敵な人と契約とは言え結婚するなんて、現実味がなさ過ぎる。


「何か悪いもん見つかったら嫌やなー」

「それは、私も同感です」


 社長さんの言葉に頷いてから、ギュッと問診票を胸に押しつける。看護師が出てきて、番号を読み上げる。その番号は、私達より前で止まった。人間ドックは混でいて待ち時間が頻繁にあり、その度に社長さんと何気ない会話をする。最初は緊張で口が上手く回らなかったけれど、まともに言葉を交わせるくらいには慣れた。


「もしも、妊娠できないとか、しにくいとか、そう言う結果が出たら。そしたら、この話はなかったことになりますよね」


 慣れたからなのか、何度か口に出しかけて呑み込んだ言葉を、唇の向こうに押し出すことが出来た。社長さんの顔が、こちらに向いたのを感じる。私は自分の手の甲の血管を、目で辿っていた。


 頭にポンと温かな重みが乗っかり、軽く優しく、二度跳ねた。


「そしたら、ボランティアに切り替えよう」

「ボランティア?」


 ほてった顔を見られたくなくて、俯いたまま問いかける。うん、と社長さんは言った。


「婚約者の役を引き受けるわ。優しくて申し分ない旦那さんになりそうな好青年を演じて、『咲良さんの事は一生涯大事にします』って誓う。それから、ホスピスはもう目星が付いてる。ええ部屋を押さえられそうや。そこで、安心して過ごして貰おう。咲良ちゃんも、介護休暇を取って一緒に時間を過ごしたらええ。咲良ちゃんがしてあげたいと思うことを、後悔無いようにしてあげたらええよ。死んでしまってからは、何も出来へんのやから」


 そう言って、少し俯いて微笑んだ。その微笑みが少し寂しそうでつい余計な事を言ってしまう。


「お父様を看取った時、後悔したことがあったんですか?」

「うん?」


 社長さんは驚いたように、顎の先をこちらに向けた。それから、ふっと笑った。


「父親を看取った時か。後悔とかそんなんは一切無かった。特に悲しいとも、思わんかった」


 硬い石のような声だった。自分の言葉を後悔したけれど、社長さんの気持ちが少し分かる気がした。家族が死ぬ。それが常に純粋に悲しいとは、限らない。私は多分、仁美さんが死んだとしても、泣かないだろう。


 社長さんはベンチの背もたれに背中を預け、ふっと息を吐き、太ももの力を抜いた。これまでピタリと閉じられていた膝が、ダイヤ型に開く。


「不思議やな……。咲良ちゃんには、ポロッと本音を言うてしまうな……」


 社長さんはそう言って、クシャリと自分の髪を掻き上げた。照れた少年みたいな横顔と、言葉そのものに動揺してしまう。足の先から昇ってくる血液が沸騰して全身が熱くなった。俯いて茶色のスリッパを見ていたら、グーッて大きな音が聞こえた。社長さんの頬が、一瞬赤くなる。


「終わったら、うまいもん食べよか」

 赤い顔を明後日の方へ向けて、社長さんが言った。

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