第二章 彼女の背景

第13話 給湯室で

 今日一日、落ち着かない気持ちを引き摺っていた。とても大きな決断をし、それを伝えた後もずっと。


 こんな時ほどミスをしないよう気を付けなくちゃ。


 退社前に古賀こがさんと仕事内容について確認していたところだった。いつもよりも、丁寧に。丁度顔を合わせたのが総務課と人事課のある部屋だったので、給湯室で話をしていた。


「あら、お掃除のお二人お揃いで。お疲れ様やね。最近社内がピッカピカで凄く気持ちええわ。ええ匂いがするようになったし、ありがとうね」


 人事部の結城ゆうきさんだ。三十代半ばの、髪を後ろに束ねた優しそうな女性。入社式に出ずに仕事をしたいと言ったら褒めてくれた人だ。思わず古賀さんと顔を合わせる。古賀さんは頬を赤く染めて目を見開いていた。


「やったね!」

 自然とハイタッチを交わしていた。多分私も、古賀さんと同じような顔をしていたと思う。


「古賀さん、お掃除上手になりましたね」

「は、畑中はたなかさんの指導がええから……」


 古賀さんは後頭部に手をやった。私の教え方が特別上手いというわけではないと、言いたかった。誰かが最初に指導をしてあげさえすれば、彼は何の問題も無く仕事をこなしていただろう。


「こうなると、清掃員二人は無駄なんと違う?」


 北村きたむらさんが給湯室に入ってきた。彼女は私を押しのけるようにして、コーヒーメーカーのところへ行く。


「人事がマニュアル作れば良かったのに。人件費勿体ないやん」

「仕事のマニュアルを作るのは、配属先の仕事やろ?」


 北村さんの言葉に、結城さんはムッと唇を尖らせた。北村さんは振り返り、結城さんに人差し指を突き立てた。


「総務は色々忙しいねん。人事みたいに採用しましたポンってハンコおしてしまいという訳にいかへん」

「人事かて、色々忙しいよ」

「主婦のパート雇えるくらいやから、大したことないやん」


 結城さんはギュッと眉をしかめて口を結ぶ。北村さんは鬼の首を取ったみたいに口元に笑みを浮かべた。


「『子供熱出しましたー』って退社するのを『大変やねー』って言えるんやもん。そんだけ余裕があるっちゅうことやろ。人件費見直しは、人事部の配置からやね」

「おい、そこで騒いどったら気が散るわ。北村、さっさと珈琲淹れろや。……ほんまに、女が集まると会社でも井戸端会議始めるさかい、かなわん」

 尖った声に振り返ると、白髪頭の男性が戸口で眉をつり上げていた。北村さん、お茶くみやらされてるんだと思いながら、思わず手を上げる。


「あ、珈琲なら私淹れますよ」

「やめろ!」

 善意の申し出を一喝されひょっと首を竦めた。

「そんな便所触った手で淹れた珈琲飲んだら、腹下すわ」


 な、なんだと!


 心の中で叫び、両手の握りこぶしを握る。男性社員は汚物を見るような視線を私に向け、肩を竦めて席に戻った。


 北村さんはお盆に幾つかマグカップを並べ、珈琲をつぎ分けた。一つのカップにはミルクを、もう一つのカップには砂糖を二つ入れフンと鼻を鳴らしてオフィスに戻っていく。


 今時女性社員にお茶くみをさせるなんて、時代錯誤も甚だしい。気の強そうな北村さんが文句を言わずその慣習に従っているのが、信じられない。それに私はちゃんと手を洗っているんだぞ!


「ゴメンね、私が声かけたばっかりに嫌な思いさせて」

 慰めるように結城さんが言って肩に手を置いた。私は大きく首を横に振る。


「北村さんとは同期入社で仲良かったんやけど、私が結婚してパートに下がったくらいから、マウントとるようになってね。うちの会社、男性社員多くて育児に理解ないし、残業も多いし。子育てしながら正職員は無理そうで、泣く泣くパートに切り替えてん。……北村さん、せめて同じ女性社員として味方になってくれたらええのになぁ。総務と人事の溝も、深まる一方」


「すいません。僕が仕事出来へんから……」

 脈絡無く古賀さんが頭を下げる。ちがうちがうと、結城さんは慌てた。


「社員教育のシステムが、機能してへんの。それも、問題やねん。私が正社員やったら上司に意見してその辺も見直したいんやけど……。咲良ちゃん、正社員の座、死守せなあかんで。女はいっぺんパートに下がったら、正社員に戻るのは難しなるもん。結婚が上手く行くとも限らへんしね。パートに下がってから離婚してシングルマザーにでもなったら、目ぇも当てられへん」


「はい。頑張ります」

 複雑な心境で頷く。


 結城さんはきっと優秀な人なんだろうな。子育てと仕事の両立は確かに大変だと思うけど、そのせいで最前線から降りなきゃいけなかったのって、会社にとっても大きな損失じゃないかな。


 私が辞めても会社は損はしないけど、私は痛手を被るな。社長さんと結婚したら、私、仕事辞めなくちゃいけないんだろうか。


 でも、私は社長さんの申し出を受けるしかなかった。


 病状が悪くなる一方の仁美ひとみさんを家に置いておけない。出来ればしっかりと痛みを取り除き、平穏な気持ちで最期の時を過ごして欲しい。その為に、ホスピスの個室以上に最適な場所は無い。彼女にその環境を与えることが出来るなら、契約結婚も妊娠出産も大した事では無いように思えた。


 でも、少し冷静になると恐ろしくなってきた。形だけの結婚をして、シャーレの中で作られた子供を世に送り出す。その子は母の存在を知らずに育つのだ。


 社長さんは、自分と同じようにその子を育てようとしているのだろうか? 愛情がよくわからない人間に?


 急に押し寄せてきた不安をかき消すように首を振り、私は給湯室を出る。


 どの道もう、後戻りはできない。

 

 

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