第12話 稲妻の光が映し出したもの
駅まで歩くと頑なに言い張る
タクシーを頑なに拒むこの人と、一万円札を突き返そうとした私は、とてもよく似ている。この頑固さが私達に棘だらけのレールを敷いたのだ。もう充分痛い目を見たのに、頑なな自分を捨てることが出来ない。嫌な気持ちばかりが胸に広がり、私は窓の外を見る。
斜陽が町を照らしている。電信柱や、ブロック塀や、灰色の外壁や、紺色の屋根。ありとあらゆるものを、同じ属性にまとめ上げようとしていた。
この町がその昔、どんな姿をしていたのかは知らない。けれど、隣にいる人がいなくなってからも同じ形であり続けるのは変えようのない事実だ。私はここで、町と一緒に古ぼけていくのだろうか。たった一人で。
でも、私はこの町に住む人々とは違う。町に住む人々は緩くであろうが固くであろうが、何らかの繋がりを維持して生きている。私の周りには常に、硝子の壁がある。ツルツルと滑る硝子の壁を登ることは決して出来ない。私は牛乳瓶のような世界で一人、朽ち果てるまで生きていく。
仁美さんは私とは反対側の町を見つめている。私達はいつの間にか、こうやって反対側に首を向けあって生きるようになった。そして、反対側を見つめている内に、この人の命は、消えて行くのだろう。
「私の事は、放っておいて。死んだら焼いて、遺骨は桂川にでも流して頂戴」
「そんな訳には、いかないでしょ」
不明瞭な呟きに素っ気無い言葉を返す。
彼女を家に一人で置いておくのは不安だ。かと言って、働かない訳にはいかない。緩和病棟に入れるなら、個室にしなければ。差額ベッド代は、いくら位かかるんだろう。
そう考えて、思わず笑い出しそうになった。
私は、すぐ隣にいる同居人の命よりも、お金の事を心配している。お金で子供を買おうとした社長さんより、酷い人間だ。
***
陰湿な雨が窓を濡らしている。梅雨が間違えてやって来たような、静かで重たい雨だ。
雨の日、無垢のフローリングは、しとやかな淑女のような艶を見せる。燦々と差す陽気に輝くフローリングも良いが、雨の日もまた良い。室内はティーツリーとミントの清涼な香りが淡く漂っている。この匂いを嗅ぐ度に、そっと微笑む
「ところで社長、咲良さんにプロポーズしはったんです?」
珈琲を盆に乗せ、
「やっぱり母の推薦を受けたご婦人から選ぶ事にするわ。それが一番手っ取り早くて、面倒がない」
ローテーブルの上には、今日もまたお見合い写真が山積みになっている。美雪は丸眼鏡のフレームを持ち上げ、目を眇めた。
「振られたんですか?」
「……ああ」
嘘をつくのも面倒で、短く答えてから珈琲を啜る。美雪の淹れる珈琲はいつもながら少し苦すぎる。美雪は唇を手の平で隠した。そんなことをしなくても、堂々と嗤えばいい。
「選出は君に任せる。適当に一枚選んで。こんどはモンゴロイドでもネアンデルタール人でも、引いた相手と結婚する」
「やぁですよ。自分で引いてください。社長の人生に、これ以上深く関わるのはごめんです」
美雪が肩を竦める。そこへ、コンコンと控えめなノックが聞こえてきた。美雪が扉まで行き、訪ねてきた人物を確認するために少しドアを開けた。美雪は小さく声を上げ、それから少し笑ってドアを開けた。
小豆色のポロシャツを着た咲良が、開け放れたドアの外に立っていた。
彼女は一礼し、キュッと顔を上げて俺を見つめた。その瞳に、硬質な何かを認めて俺は思わず立ち上がる。手をそっと横に開いて入るように促すと、咲良はもう一礼し、真っ直ぐにこちらを見つめながら歩み寄ってきた。
「少し、お時間を頂きたいのですが」
きっちりとアイロンを掛けたような口調で、咲良が言う。俺は何故かゴクリと唾を飲み込んだ。そして、美雪に目配せを送る。美雪は承知していると言いたげににやりと笑い、一礼をして部屋を出て行った。
パタン、と軽い音を立ててドアが閉まる。その音を聞いた後、咲良は大きな深呼吸をした。そしてもう一度前を向き、俺の顔を真っ直ぐに見つめて言った。
「この間の申し出を、受けても良いでしょうか」
窓の外がパッと光った。その光は咲良の顔に深い陰影をほんの一瞬刻んだ。俺は咲良を見つめて、言葉の真意を探る。
遠雷が、空を震わせた。
「この間の申し出というのは……」
「結婚の契約のことです」
再び稲妻が光った。今度はもっとはっきりと、咲良の頬を照らした。堰を切ったように雨脚が強まり、窓硝子をバラバラと叩き始めた。
「お気持ちが変わっていなければ。私でお役に立てるのならば、子供を産みます。子供を産んだ後は、後腐れ無く去りましょう。その代わり、お願いしたいことがあります」
「お願いしたいこと?」
こくりと、咲良は頷いた。
「慰謝料はいりませんから、今直ぐお金を用立てて欲しいんです。私には、同居している家族がいます。その家族が、余命宣告を受けました。一ヶ月持つかどうかという診断です。彼女をホスピスの個室に入院させてやりたいんです。それから、婚約者として彼女に会って頂きたいんです。彼女が安心して、苦しむこと無く最期の時を迎えられるように、力を貸して頂きたいんです」
けたたましい雨音の中を、彼女の声は直線的に突き進んで鼓膜を貫いた。そのまま細い針のように胸をすっと刺し貫く。俺は答えるべき言葉を見失い、咲良を見つめた。稲妻は再び、咲良の顔を鮮烈に照らし出した。
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