第11話 残りの時間

 夕刻の待合室は人がまばらで、時計の針はとても緩慢に動いていた。秒針の無い時計を見つめながら、私は社長さんの事を考えていた。


『僕と、結婚してくれませんか』

 

 その声を思い出す度に、脳みそが沸騰しそうなくらい腹が立つ。彼は私の子供を金で買おうとした。貧乏人は喜んで引き受けるのだと、疑いもしなかったらしい。犬や猫じゃあるまいし、馬鹿にするのもいい加減にして欲しい。


 でも、何故彼は謝罪なんかしたんだろう。わざわざ自分の出生や育ちに触れてまで。あんなことを言われたら、怒り続けるわけには行かない。


 顔、合わせるの嫌だな。

 思わず溜息をつく。デザートまでご馳走になり、表面上は穏やかに別れたけれど、次に会った時どんな顔をしたらいいのか分からない。


「さっきから、溜息ばっかりついているのね」

 席を一つ空けて座っている仁美ひとみさんが、ぼそりと言った。けだるそうに骨張った身体を丸めている。俯いた頬は黄土色で、こちらを向いた目はドロリと黄色く濁っている。


 彼女は「同居している仁美さん」と呼ぶことにしている。彼女はもう何年も、胃がんを患っている。発見した時には既に手術は出来ない状態だった。それでも抗癌剤は効果を発揮し、一時期は病気がどこかに消えてしまったのかと思うくらい元気になった。年が明けるまでは仕事もしていたし、食欲もあった。


 異変があったのは年が明けてからだ。職場で倒れ病院へ搬送された時、肝臓に転移していた癌が大きくなり、肝臓の機能をかなり損なっていると診断され、三ヶ月の余命宣告を受けた。


 痩せ細っているのにお腹だけは腹水でパンパンに張れ、腹痛と倦怠感がある。今朝その症状が余りにも辛そうだったから、仕事から帰ってすぐ病院につれてきたのだ。本当は今夜イベントコンパニオンのバイトが入っていたんだけど、キャンセルさせて貰った。


 初回にやらかしているし、二回目の出勤はドタキャン。折角時給の良いバイトを見付けたのに、このままじゃクビになっちゃう。


 先ほどの問いかけに「何でも無い」と答えながら、また溜息をついた。


 税金や健康保険、医療費と彼女が抱えている賠償金。働けなくなった彼女の代わりに多くのお金を支払わなければならない。仁美さんを扶養家族にしてしまえばかなり楽になるのだろうけれど、それはしたくない。


 社長さんの申し出を受ければ、何もかも解決するのかも。一瞬そんなことを考えてしまい、頭を大きく振った。


 検査結果が上がってこないのか、空いている癖にいつまで経っても呼んで貰えない。重たい空気に辟易として、この場から逃げ出したい衝動に襲われる。私は立ち上がり、トイレに向かった。


 病院のトイレはタイル張りで、しゃれたところはどこにもなかった。ウォッシュレットも付いていない。どうせすることはどんなトイレでも同じだからまぁいいか、と思いつつ個室を出た。同じタイミングで、隣の個室から女性が出てきた。多分仁美さんと同じくらいの年齢だと思う。けれど彼女は比べものにならないくらい上質なワンピースを纏っていた。この人も病人なのかしらと、そっと鏡を盗み見る。そして、ハッと息を呑んだ。


 岡田貴和子おかだきわこさんが、そこにいた。


 嫌違う、今は昇陽建築しょうようけんちくの社長夫人、住田貴和子すみたきわこさんだ。手を洗っていたことを忘れ、彼女に見入る。私の視線に気付いたのか、鏡越しに目が合った。慌てて視線を逸らそうとしたが、彼女があまりにもじっくりと私を見つめているので、縫い付けられたように目玉を動かせなくなった。


 彼女は陳列棚に並んでいるものを見つめるような、無機質な視線を私に向けている。


 彼女は私の事を知らないのだろうか。確かに直接会ったことは無いので、その可能性もある。もし知っていたとしても、十年前の私だ。高校生だった頃の。大人になった私に気付かない可能性だってある。


 動かない思考を無理矢理働かせ、自分を安心させる。兎に角早く、この場から立ち去らなければ。


 その時、彼女の唇がそっと微笑みを浮かべた。そして身体の向きを変え、鏡越しではなく直接視線を向けてきた。私は恐る恐る顔を上げた。陳列棚から目当てのものを見付けたように彼女は笑みを深め、唇を開く。


「貴和子! 何処へ行った! 貴和子!」


 突然外から怒鳴り声が聞こえてきた。彼女の顔からさっと血の気が引き、表情が強張る。次の瞬間には身を翻し、洗面所から外に飛び出した。開けたままの水道が、音を立てて流れている。私は自分と彼女の蛇口を閉め、ペーパータオルに手を伸ばした。


「何処へ行ってたんや! 男あさりか! この売女め!」

「そんな筈無いでしょう、ここは病院ですよ」


 怒鳴り声に弱々しく応じる声が聞こえる。私は手の水分をいい加減に拭き取り、外に走り出た。昇陽建築の社長は怒りに顔を歪ませて、腕を振り上げている。


「この、阿呆!」


 拳が、彼女に向かって振り下ろされる。そう思ったら、身体が勝手に走り出していた。次の瞬間、こめかみの辺りに衝撃が走り身体が宙に投げ出されていた。


「なんや、お前! 邪魔すんな!」


 昇陽建築の社長は、私の脇腹を蹴り上げた。内臓に食い込むような熱い衝撃が身体を貫く。思わず身体を丸めてお腹を守った。灰色のスラックスが再び持ち上がる。今度は背中を蹴られる。そう思い、全身に力を込めた。だけど、衝撃は訪れなかった。その代わりに、そこかしこから集まって来るいくつもの足音が聞こえた。


 私は男性の看護師に脇を抱えられ、身体を起こした。唇から鉄のような不快な味が侵入してくる。頭を殴られた時、唇を噛み切ってしまったみたいだ。


 口元にフワリと柔らかいものが触れた。顔を上げると、住田貴和子さんがハンカチを私の口元に押し当てていた。彼女の瞳は、少し潤んでいた。


 ***


 頭に氷嚢を当てながら、私は仁美さんの後ろに座っていた。若い男性医師が私に苦笑を向ける。


「災難でしたね。認知症外来の患者さん、奥さんとはぐれて怒り出しちゃったんですってね。新患さんで、待たされてイライラしていたみたいです。ああいう時は直接助けに入らないことです。病院なら職員に知らせてください。こちらで何とかしますから」


 言いたいことは沢山あったけれど、「はぁ」と曖昧に頷いた。私が間に入らなければ、彼女が殴られていた。職員が駆けつける間に、誰かしらは暴力を受けていたという訳だ。そんな時でも「ちょっと看護師さん、あそこで暴れている人がいますけど」と通報するのが正解らしい。


 医師は私への義務を果たしたと言わんばかりにMRI画像に身体を向けた。画像の隣には、血液検査の結果らしき数字が並んでいる。彼はじっとそれらを見比べてから、おもむろにくるりとこちらを向いた。


 先ほどとは重みの違う表情が、若い男性医師の顔に浮んでいた。彼は膝の上に両手を置き、仁美さんではなくて私の方を見た。


「率直に申し上げて、とても厳しい状態です」


 すっと背骨が冷たく痺れた。私は顔を上げ、無機質な白黒の画像を見つめる。医者はマウスを動かした。緑色の+の形が画像の白い部分を丸く囲うように動いた。


「肝臓が殆ど機能しなくなっています。そうなるとね、急激に全身状態が悪化していくんですわ」

「抗癌剤で、小さくは出来ないんですか? 駄目なら、放射線とか……」


 私の言葉に、医師は硬く首を横に振った。


「抗癌剤などの積極的な治療には、もう身体が耐えられへんでしょう。後は、出来るだけしんどくないように時間を過ごすことです。会いたい人には、今のうちに会っておいてください。これからは、緩和ケアに切り替えましょう。在宅診療か、緩和病棟か、どちらかを選択してください」


 そう言って、尖った顎を人差し指で掻いた。顎には、うっすらと髭が青く伸びていた。私は何か言おうとし口を開けたけれど、言葉を空中で見失ってしまった。


「これから、というのは……。具体的にはどれくらいの期間ですか」


 仁美さんが、弱々しい声で問う。薄いコートを纏った彼女の背中に、背骨の形が頼りなく浮んでいた。その形は、自分の命の残り時間を問う間、一欠片も動かなかった。


「この月をまたぐことは、出来へんと思います」

 医師は初めて仁美さんに視線を向け、そう言った。


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