第10話 最低の提案
私は両目を大きく見開いた。唇が意図せず開いたけれど、空気を吸うことも、吐くことも忘れてしまった。
ボクトケッコンシテクレマセンカ。
世の中にごくありふれた、プロポーズの言葉だ。この言葉を口にする時、誰もが人生で一番緊張し、相手への愛情を胸に抱く。けれど、今耳に届いた言葉には、感情が完全に欠落していた。アンドロイドの発する声のように。
知らず知らずのうちに生唾を飲み込む。
「何故、ですか」
プロポーズへの返答に、これほどちぐはぐな返答があるんだろうか。けれど、これ以外の言葉は思いつかなかった。彼はふっと笑みを浮かべ、顎の下で両手を組んだ。
「僕は、一生誰かを好きになる事はありません。けれど、結婚して会社の跡継ぎを残さないといけません。……そやから、咲良さんに、僕と結婚して子供を残すパートナーになって欲しいんです。勿論結婚は、表向きの関係でええのです。性交渉も求めません。体外受精をし、着床前診断で男子の遺伝子を持つ有精卵を選別し、受胎して頂きます。子供が産まれたら、すぐに離婚します」
胸の辺りに気持ちの悪い塊が生まれて、広がっていく。
「勿論、あなたの身体と戸籍を傷付けるのですから、相応の慰謝料を用意します。離婚しても、あなたが
全身の毛穴が泡立つのを感じる。目をギュッと閉じ、一から十までゆっくりと数を数えた。衝動的に叫びたくなる気持ちに、少しだけ隙間が空く。呼吸を整え、その隙間を少しずつ広げていく。
こういう時に感情的になったら駄目なんだ。今までだって、色んなことに脅かされてきた。感情的になると、足元を掬われやすくなる。
今するべきこと。それは、置かれている現状を冷静に分析することだ。
「要約すると、こういうことですか」
カトラリーが星の形の光を跳ね返している。それを注視しながら言葉を紡いだ。
「あなたが欲しいのは質の良い子供。私がその子供を産めばいいのですね。あなたはブリーダーのように生まれた子供だけを引き取り育てる。私は貧困から抜け出せる。成る程、いいお話しかも知れませんね」
私は顔を上げ、九条涼真を正面から見つめた。
「私が、犬だったら。ですけどね」
九条涼真はハッと息を吐いた。彼の瞳孔が開いていく。
動揺してるの?
今の今まで人間の心を持たないアンドロイドみたいだったのに?
彼は、魔法が解けて人間に戻ったみたいに激しく視線を彷徨わせていた。しばらくして彼は瞑目し、奥歯を噛みしめた。
ドアが開き、ウエイトレスが無言で皿を下げ、メインディッシュのステーキと交換していった。網模様の焼き色を覗かせる牛肉は香ばしい匂いを漂わせていたが、食品サンプルのように見え、食思は全く動かなかった。
彼は、深く重たい息を吐き出した。
そして、力なく頭を垂れる。
「申し訳ない」
そう言った彼の声は、震えていた。
「僕は、こういう人間なんです。人の心が分からない。相手が傷付くかも知れへんと思っても、自分の利益を優先するんですよ、最低でしょう?」
突然の告白に、困惑を覚えた。もしかしたらこれも戦略かも知れない。私は彼の前髪を見つめながら、欺されないぞと心の中で呟いた。
「本当は、昨夜パーティー会場にいた女性の中から一人を選んで、今言ったことを実行するつもりでした。勿論、真意は明かさず。表面上は仲の良い夫婦として過ごし、普通に彼女に妊娠して貰い、子供が産まれたら離婚を切り出す。そんな計画を立てていました」
「貧乏人の私なら、金に目がくらんで尻尾を振って計画に乗ってくると思ったんですか」
「そうです」
きつい声で問いかけたのに、彼はしおらしく目を伏せて頷いた。とても悪いことをした子供が、悪事を咎められている姿に見える。急変した彼の態度に、私は疑念しか抱けないでいる。彼は顔を上げ、テーブルの上にそっと両方の手の平を置いた。
「僕は、体外受精で出来た子供なんです。恐らく父には生殖能力が無く、極秘に親族の協力を得て作られた子供です。生まれてすぐに母から離されて英才教育を受け、木寿屋の社長として人格を形成されていきました。愛情というものを受け取ったことがないので愛し方が分からへんし、『普通』というものが良く分からへんのですよ。今回もね、君が喜んで話を引き受けてくれると、欠片も疑いませんでした。君がどう受け止めるかという視点が、ごっそり抜け落ちていたというわけです」
まるで「自分は丸腰です」と宣言するように天井に向けられた手の平は、とても平たかった。生まれてから一度も、重みのあるものを持ったことがないような手だ。
そんな手を持つ人が、私の気持ちを推し量ろうとしたのが不思議だった。彼は私よりも一段も二段も上の階層で生きている人なのだから、意図せず誘いを断った私に対して遠慮無く怒ればいい。それなのに何故、自分の過去を曝け出してまで言い訳をし、赦しを請うんだろう。私の代わりなど、掃いて捨てるほどもいるのに。
彼は両手をゆっくりと握り、ステーキの皿の横に力を持たない拳を二つ作った。それから、頼りない笑みを浮かべて私を見た。
「もしも、許してもらえるんやったら、明日からも変わらず我が社で働いて貰えませんか」
「え?」
思いがけない言葉に、少し間抜けな声が溢れた。彼は苦笑した。
「君がいると、社屋が磨かれて心地よいので」
その言葉は、混乱してささくれ立った心にほっと灯りを灯してくれた。上等なスーツやコース料理や折りたたまれた一万円札よりもずっと、私が欲しかったものだから。
「私で、お役に立てるのでしたら」
私はそう答えて、ここは少し笑顔を見せた方がいいだろうと思い、無理矢理唇の端っこを持ち上げた。彼も同じように、歪に口角を上げた。
「食事、最後まで付き合って貰えます?」
「勿論です」
頼りなげな上目遣いに、私は頷いてカトラリーを握る。彼は安心したように微笑み、ワインを口に含んだ。
***
よく、分からない。
眼下に広がる夜景を眺めながら、胸の中で呟く。本願寺の五重塔が、少し欠けた月に照らされている。
彼女の瞳に浮かんだ怒りを見て、俺は猛烈に己を恥じた。
こんな事は、初めてだ。
彼女の瞳に浮かんだ怒りは、何処までも高潔だった。澄み切った鏡のように。その鏡に映った自分の姿は余りにも卑劣で醜悪だった。
その時初めて、自分の提案が極めて酷いものだと気付いた。
恥ずかしい、と、猛烈に感じた。
卑怯で醜悪で非人道的な事を今まで平気でやって来た筈だ。何を今更、と思う。
グラスを満たした
彼女の瞳に映った自分は、目を反らしたくなる程醜かった。
そして、恐れた。
彼女が自分の醜さに呆れ返ってしまうのではないか、と。
気付いたら言い訳を並べていたと言うわけだ。
愚かしすぎて、反吐が出る。
カミュが喉を焼き、胃袋を燃やす。
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