第9話 レストランの個室で

 社長さんが指定したのは普通の民家にしか見えない、いわゆる隠れ家風のレストランだった。


 個室に案内され、向かい合って座る。その空間は、床も壁も天井も木材で覆われていた。木の持つぬくもりが狭い空間に溢れて、心地よい場所だ。


 残念ながら今は、社長さんと二人っきりというシチュエーションに緊張して、くつろぐどころでは無いけれど。


「昨日は、色々とご迷惑をお掛けてしまい、申し訳ありませんでした。これは、お返しします。ホテル代とスーツ代は、お給料から天引きにしてください。あ、でも……。できれば分割払いにしてくださると、ありがたいのですけど……」


 テーブルの上に一万円札を置く。紙袋に入っていたものそのままだ。使うのは気が引けて、朝食も昼食も買う気持ちにはなれなかった。スーツのサイズはぴったりで、今も着用させて頂いている。ジーンズで入るのはまずいお店かも知れないと思ったから。社長さんからは「意外と似合うやん」と言って頂いた。


 社長さんは困った顔で一万円札を押し戻した。


「そやから、これはお礼や。昨日一日、咲良ちゃんには助けて貰ったやろ? 通訳してもろうたし、一緒に踊ってもろうたし」

「それでも、一万円の価値がある仕事をしたとは思えません。だから、お金はいただけません」


 こういう頑なさが、私の欠点なんだろう。だけど、お金持ちに施しを受けるのは、どうしても生理的に受け付けない。


 社長さんは嘆息し、眉をハの字に下げた。


 彼は顎に親指を当て、黙り込んだ。気まずい沈黙が流れる。視線を上げると、星の形をしたランプが目に入った。トロリと優しい光が、樹洞のような空間を照らしている。その光は、照らしたものの現実感を奪う。


 もしかしたら、おとぎ話の世界に入り込んでしまったのかも。


 そんな馬鹿な考えがふわりと浮かんだ。


 会社の社長さんとダンスを踊ったり、こうして食事をしたり。何もかも信じられない。できればこんなことは今夜限りで、早く現実に戻って欲しい。おとぎ話のお姫様は、大抵大きな試練を与えられる。そんなのいらない。平凡に、穏便に、慎ましく生きていきたいのだ、私は。


「ほな、古賀こが君に掃除の方法を伝授してくれた講師料と、エッセンシャルオイルの代金」

「え?」

「綺麗に掃除出来てると褒めたら、古賀君、喜んでたで。エッセンシャルオイルもとても評判がええ。社員は頭がすっきりして効率が上がりそうやと言うてるし、来客は香りが爽やかでいいと褒めていたし。私物みたいやけど、それはあかん。会社で使う物は経費で購入せな。……これで矛を収めてくれへん? いっぺん出したお金を、財布にしまうのはどうしても抵抗があるんや」


 ああ、恥ずかしい。


 社長さんの言葉を聞いて私は俯いた。人にはそれぞれ立場や思惑がある。社長という肩書きを持つ人が、クリーンスタッフに一万円を施し、それを突き返されるというのは傍から見てみっともない。私は黙って、ありがとうございましたと頭を下げるべきだったんだ。生意気なことをしてしまった。


 ドアが開き、料理が運ばれてきた。四角い大きなガラスのお皿に、小さな料理が幾つか乗っている。薄くスライスした蕪で巻かれたサーモンや、ソースがかかった魚の切り身や、生ハムの乗ったアスパラガス。


 そして!


 中央にあるものに目を奪われる。


 卵の殻が綺麗に上だけ切り取られていて、その中にキャビアを纏った雲丹が入っている。


「う、雲丹とキャビアが……」

「ここの料理は本当に美味しい。どうぞ、食べてみて」

「はい!頂きます……」


 ドキドキしながらフォークに雲丹をのせ、口に運ぶ。ねっとりとした雲丹の食感が舌に広がり、濃厚な風味をキャビアの塩見がキュッと引き締める。


「雲丹の臭みが全くなくて、濃厚で、とても美味しいです。この時期だから、日高産でしょうか」


 社長さんの目が一瞬冷たくすぼんだ気がした。何か気に障ることを言っただろうか。それとも、見当違いなことを言ったのだろうか。そう思ったけれど、社長さんはすぐににっこりと微笑んだ。


「そうやね。四月に北海道で雲丹が解禁になるのは、日高地方や。恐らくこれは、日高産やろうね」

「美味しいです。とっても。キャビアが風味をキリッと引き締めていて、贅沢なだけじゃなくて、細かいところまで丁寧に計算された味だと思います」

「そうやね」


 社長さんは、白ワインを口に含んだ。そして、ワイングラスを片手に持ったまま私の目を覗き込む。


咲良さらちゃんは、実は良いとこのお嬢さん。この僕の推測は、当たってる?」


 ドキリと心臓が跳ね上がり、手が動かなくなる。視線をそらし、卵の殻に固定する。どう答えるのが最良の回答なのだろうか。めまぐるしく考える。


 黙ってもう少し相手の出方を待った方がいい。彼がどこまで私のことを知っているのか、まだ分からない。


 そう、結論を出した。


「君のご両親は、少し特殊な学習塾を経営していて業績は良好。神奈川市内にジワジワと業務を拡大している。質が落ちないように、社員教育を徹底しながら着実に。教育者としても実業家としても優秀やと、感銘を受けた。君は、そのご両親の血を受け継いでいる」


 目を閉じて、心を落ち着かせる。ドキドキしているのを悟られないようにしなければ。


 でも、何故彼は私の両親の事を調べたりしたんだろう? 私はただのクリーンスタッフなのに。社長さんは淡々と言葉を続けた。


「そして、どんな事情があるかはわからへんけれど、両親の庇護を飛び出し、苦労の多い生活を送ってきた。今も、人よりも秀でた能力を持ちながら、学歴がないという理由で清掃の仕事に従事し、副業の収入を足して生活を成り立たせている」


 彼は、柔らかく微笑んでいる。その裏側の意図が読み取れない。そこにある筈の感情も。


 まる人間に良く似せたロボットみたいだ。


 彼は白ワインをもう一度口に含んだ。透明な液体が波打ち、ほのかに赤い唇の内側に吸い込まれていく。


 彼は一瞬そっと目を閉じた。それから、ゆっくりとグラスをテーブルに置いて、私に向かって微笑みかけた。


「僕と、結婚してくれませんか」

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