第8話 雲に隠れた月

 耳障りな音が眠りから意識を無理矢理引き剥がし、現実の世界へと連れ戻した。光の中で目を開ける。見慣れない天井が視界を覆い、思わず瞬きを繰り返す。意識がはっきりすればするほど、頭がずんと重くなる。


 ああ、これは……。久方ぶりの二日酔いだ。


 身体を起こし、自分が見知らぬ所に居ると気付いた。自室のせんべい布団ではなく、ふかふかの羽毛布団。そして、ハッとして自分の肩を抱いた。


 身につけているのはキャミソール一枚。


 ……一応、パンツは、履いている。


 ピピピピうるさいアラームは枕元にあり、それを止めてから何故自分がここに居るのかを考える。


 昨日はめまぐるしい一日だった。出社して仕事終わりにコンドミニアムに行ったら社長さんがいて、バイトに行ったらまた社長さんがいて。


 社長さんと、踊って。何故か社長さんと会場を抜け出して、公園に行った。喉が渇いてジュースを買ったら、お酒だったんだ。3%だから大丈夫かなと思ったけど、やっぱり酔ってしまった。気持ちよくなってサンバを踊った気がする。そこからの記憶が無い。


「も、もしかして、社長さんにお持ち帰りされた……?」


 思わず肩を抱いて身体に意識を向ける。けれど、そんなことをされたような感触は残っていない。


「いや、それよりもさっ!」


 アラームに再び視線を向け、六時を過ぎていることに慌てる。ここはどこだろう。身支度を調えて出社しなければ。そう思い、現在地の手がかりを見付けるべくカーテンを開ける。


「うぇ?」


 そして、思わず声を上げてしまった。


 自分はとても高い場所にいて、眼下に広く街並みを見渡すことが出来た。二筋向こうに、ロイヤルブルーと茶色の社屋が見える。


「めっちゃ近い。これなら余裕で間に合うよ」

 ほっと息を付いた。それから再び息を飲む。


 あれからここにやって来たとしたら、身につけていたのはドレスだ。あの服を着て出社するのか。それはかなり恥ずかしいぞ。


 改めて部屋を見渡すと、大きなベッドにソファーセットとテレビがあった。クローゼットとドレッサーがあって、引き出しに『ホテルグリーン』と表題されたインフォメーションがわざと目に付くようはみ出して置いてあった。確か少しグレードの高いホテルだ。そのホテルの、シングルじゃ無くて良い部屋だ、ここは。


 ちょっと待てよ。私お金持ってなかったような気がするんだけど。

 クローゼットにはその証拠のように、コバルトブルーのドレスが掛かっている。


「詰んだわ。これで人生詰んだ」

 頭を抱える。


 自分でここにたどり着き、酔った勢いで「良い部屋用意して」なんて言ったのかな。社長さんといたした形跡が無いと言うことは。


「とにかくシャワー浴びて頭冷やそう。こうなりゃアメニティー贅沢につかってやる。どうせ料金一緒だし」


 貧乏人はせこいなと、口にしてから思う。シャワールームを探していたら、ソファーの上に紙袋を見付けた。ローテーブルの上には便せんがあり、文字がびっしり並んでいる。


畑中咲良はたなかさらさん。


 昨日は色々ありがとう。とても助かったし、楽しい時間を過ごせました。洋服はそのお礼です。ホテル代はもう支払ってあります。誓って、コンプライアンスに反することはしていませんから、安心してください。所持金がないと不便でしょうから、置いておきます。昨日一日の謝礼だと思って受け取ってください。


 イベントコンパニオンの会社には僕から連絡を入れ、お咎めがないよう説明してあります。今日中に荷物を取りに来て欲しいと言うことでした。


 その会社の近くにお気に入りのレストランがあります。もし良かったら、今夜一緒に食事をしませんか。午後七時に予約しておきます。


 九条涼真くじょうりょうま


 社長さんの字は、とても綺麗に揃っていた。どの文字も定規で測ったみたいに、横幅も高さも均一だ。


 メモを読み、脱力するし緊張するし、ドキドキした。めまぐるしい身体の反応に汗が滲む。社長さんが酔った私をこの部屋に連れて来て、服を脱がせて寝かしつけてくれたのだ。その上、洋服やお金を用立ててくれ、アルバイト先に連絡までしてくれた。


『その会社の近くにお気に入りのレストランがあります。もし良かったら、今夜一緒に食事をしませんか。午後七時に予約しておきます』


 最後の一文をドキドキした気持ちで読み返す。


「で、デートに誘われてる!?」


 指でなぞってみる。もしかしたら魔法がかかっていて、消えてしまったりして。そんなことを思ったけれど、文字は消えたりしなかった。紙袋を開けると、明るいグレーのスーツと綺麗に折りたたまれた一万円札が入っていた。


 ***


 美雪みゆきが珈琲を運んでくる。やけに澄ました顔に、笑いが込み上げる。珈琲をデスクに置くと、こちらにジロリと視線を向けた。


「社長、昨夜はあのクリーンスタッフをお持ち帰りされたようですけど、コンプライアンスに反するようなことは、いたしてはらへんでしょうね」


 予想通りの言葉に、吹き出しそうになる。努めて冷静な顔を何とか繕い、珈琲を啜る。昨日コーヒーメーカーの手入れをしてくれたようで、香りが格段に良くなった。


「勿論、いたしておりませんよ。それに、主催者の奥様からは好きなように振る舞ってかまわへんと許しを得たし」

「どういう事です?」


 不機嫌に疑問を加えた顔で美雪は首を傾け、丸いフレームの位置をなおした。俺は笑いを堪えて言う。


美葉みよを紹介してくれるんやったら、パーティーで女の子と踊らんでも母のお咎めがないように取りなしてくれるようなことを言うてたな」


「彼女を売るんですか?」

 美雪が口元をへの字に歪めたので、思わず首を振る。


「売るなんて、人聞き悪い。彼女は彼氏の仕事を手伝ってる筈や。その工房の名前を教えるのはコンプライアンスに反しはせんやろ?」

「どうですかね」

 美雪はひょっと肩を竦めた。それから眉を上げてこちらを見る。


「私にした宣言を反故にしましたね。最初に踊った女性と結婚するという」

「反故にはせぇへん。僕は最初に踊った人と結婚しますよ」


「は!?」

 丸いフレームの奥で瞬きする瞳ににやりと笑ってみせる。


「畑中咲良。彼女の履歴書を確認し、家柄を調べさせて貰うた。ご実家は関東で発達障害児のスクールを経営し、成功を収めている。元々は両親ともに公立高校の教師やったみたいやけど、ビジネスに乗り出して成功を収めたわけやね。どんな事情があって高校を中退したのかはわからへんけど、幼少期から海外の文化に触れさせるという高度な教育を受けているし、動作のそこかしこに気品がある。結婚するに当たって学歴は問題やない。子供に受け継がれるDNAが重要や。それに関しては、恐らく申し分が無い。それに、実家が教育関係というのもええね。建築業界とは無縁やから、軋轢が生まれへん。実に理想的な女性や」


 美雪はムッと唇を曲げ、暫し考え込んだ。それから少し納得したように頷き、まだ不満が残る顔で問いかけた。


「プロポーズは、したんですか?」

「いや、それは今夜」

 そう返して珈琲を啜る。


 昨夜のことを思い出し、思わず口元が綻ぶ。


 昔話を始め、急に顔を手で覆ったので泣き出したのかと思った。しかし、彼女が次に口にしたのは「気持ち悪い」という言葉だった。急いで公衆トイレに連れて行く羽目になった。


 トイレから出てきた咲良の顔面は蒼白で、ぐったりとしていた。タクシーを呼び、家の場所を聞き出そうとしたが眠ってしまった。一瞬自分の家に連れ帰ろうかと思ったが、目をつり上げる美雪の顔が浮んで断念した。


 彼女はきっと朝が早い。だから、会社の傍のホテルに泊めることにした。信号待ちをしている時にブティックが目に入り、そう言えば彼女は明日出勤する服を持っていないなと思った。タクシーを待たせ、ショーウインドウのマネキンが着ていたスーツを購入した。淡いグレーのスーツは、着る人を選ばないだろう。


 タクシーの中で履歴書にあった父親の名前を検索し、仮面夫婦の相手に使える女かも知れないと考えた。


 ホテルについて、ドレスを脱がせた。咲良は深い眠りに落ちていて、何をされても起きはしなかった。


 何と無防備な。


 そう思うとおかしくなって、キャミソール姿の彼女を見つめていた。そうしたら、彼女の姿が次々と思い出されて、止まらなくなった。


 掲示板を見つめていたクリーンスタッフの女の子。真剣に自分や李の言葉に耳を傾け、丁寧に言葉を選んでいた通訳の女性。キビキビと仕事をこなすイベントコンパニオン。コバルトブルーのドレスを着て、ワルツをリードした淑女。酔ってルンバを踊ったお転婆な女の子。暗い穴に落ちてしまったと呟いた、影のある女。


 そのどれもが彼女であるのに、一つの姿に纏りきれていないような印象を受けた。どれもこれもばらばらで、彼女は結局何者にもなれていない。


 月明かりに照らされた咲良の身体は、マネキンのように白かった。彼女は本当は人形で、抱けば人間として命を吹き返すのではないかと馬鹿なことを考えた。その邪念を振り払い、布団を掛け、彼女が困らないように長いメモを書いた。


 そして、外に出た時、さっきまであんなに煌々と空を照らしていた月は、雲に隠れてしまっていた。

 

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