第7話 パーティーを抜け出して

 迎賓館の敷地を抜け京都の街に出てからも、俺は畑中咲良はたなかさらの手を引いて走り続けた。


 もうそこはありふれた住宅街で、タキシードとドレス姿の二人を、すれ違う人々が不思議そうに振り返る。それでも、走り続けた。手を繋いでいるのは美葉みよだ。立ち止まれば彼女は消えてしまう。永遠に。


 手の平に伝わるぬくもりと、少し後ろから伝わる気配。それをつなぎ止めるために、走り続ける。


 しかし、彼女の足は徐々に遅くなり、とうとう立ち止まってしまった。振り返ると、彼女は身体を二つに折り曲げて荒く息をしていた。


 そこにいるのは、間違いなく、畑中咲良だった。


「すまない。こんなに走らせて……」


 身体を折り曲げたまま、咲良は首を横に振った。あわらになった背中が、大きく上下している。俺はその背中に手を当てて、軽く摩った。背は汗をかき、軽くしめっている。また美葉を思い出す。裸の美葉を抱きしめた感触が、手の平から全身に広がって行く。


 咲良が顔を上げた。そこに悪戯っぽい笑みを浮かべている。一瞬思考を読み取られたのかと思い、狼狽える。咲良は身体を起こし、一度大きく深呼吸をした。


「こんなに走ったの、何年ぶりでしょう。気持ちいいものですね」


 屈託無く、彼女は笑った。その笑顔につられて、頬が緩む。


 内側に光を持つ人だ、この人も。内側から溢れる光で周りの人々を照らし、温かい気持ちに変えてゆく人。


 美葉もそんな類いの人だった。


「ほんまや。明日、筋肉痛になるやろうな。……喉、乾いたな」


 汗をかいた身体が、水分を要求していた。咲良も頷いた。そして、あっと声を上げて遠くを指さす。


「見付けましたよ、給水所!」

 指の先には、「7」の文字が明るく光っていた。


 思わず笑う。


「目立つ給水所やなぁ」

「でしょ? 呼ばれてますよ。行きましょう、行きましょう」


 彼女は先頭に立って歩き出した。青いドレスの裾が美しいドレープを描き、風に揺れる花びらのようにハラハラと揺れる。スカートの裾から、白い脹ら脛が露わになっている。


 外灯の光は頼りなく、通り過ぎるヘッドライトの動きは気まぐれだ。この世界で、咲良の脹ら脛だけが確かな存在に見えた。


 街の灯りを白く照らし返している。夜の海を泳ぐ魚のように、しなやかに。

 

 その光を見失わないように、俺は咲良の後ろをついていった。

 

 コンビニで、咲良はピンクグレープフルーツの酎ハイを選んだ。アルコール度数は3%だ。俺はビールを買った。奢ると言うのを頑なに断りレジに行った癖に、財布を持っていないことに気付きシュンと頭を下げた姿が、可愛らしかった。


 コンビニの隣は小さな公園になっていた。向かい側に大きなマンションがあるから、住民用の公園なのかも知れない。そんなことには構わず、ベンチに腰掛ける。夜風は冷たく冷えて、背中を出している咲良は小さく震えた。俺はタキシードの上着を、彼女の肩に掛けた。


「英語とダンスは、どこで習ったん?」


 恐縮して上着を返そうとするのを拒み、問いかける。咲良はすぐには答えず、ぐいっと酎ハイを飲んだ。喉仏を揺らして飲み下し、甘い匂いの息を吐き出してから、咲良は答えた。


「物心ついた時から、夏と冬の休みには、カナダのホストファミリーの所に滞在していました。幼い頃は母が付いて来ていましたけど、中学生になってからは一人で現地に行きました。そこには、私よりも二つ年上の女の子と、一つ年上の男の子がいました。ダンスが好きな家族で、食事の後踊ったりするんですよ。素敵でしょう? 私も自然に、ステップを覚えました」


 咲良はゆっくりと言葉を紡いだ。絵本を読み聞かせるような、柔らかく淡々した口調だった。彼女の瞳は絵本に描かれた絵を見つめるように、揺らぐ事無く一点を見つめ続けていた。


 それから彼女は、喉を鳴らして酎ハイを飲んだ。ゴクゴクゴクと一気に飲み干し、立ち上がる。酎ハイの缶を地面に置き、タキシードの上着を脱いでこちらに返すと、にっこりと微笑んだ。


「私、ワルツよりもサンバの方が得意なんです!」


 そう言うと、軽快な音楽を口ずさみながら細かいステップを踏み、腰をくねらせ、くるりと回った。彼女の動きに合わせて、コバルトブルーのドレスも舞う。空にはまん丸に近い月が昇り、青い光で彼女を照らしている。咲良は笑みを浮かべ、ラテンミュージックを歌いながら舞う。


「社長さんも踊りましょ」

 咲良が手を伸ばす。


「サンバなんか、分からんよ」

「いいから」


 躊躇する手を強引に掴まれる。ちょっと戯けた表情で彼女は身体を揺らして見せた。その動きを真似ると、彼女は満足そうに頷く。


 彼女のように細かいステップを踏むことは出来ないが、歌に会わせて身体を揺するのは楽しかった。彼女が大きく腰を振れば、それを真似て笑う。くるりとターンすれば、後を追って回る。でたらめなサンバは、胸にこびり付いているタールのような粘りを緩やかに溶かし、浄化させる魔法を持っているようだった。


 咲良が身体を近付け俺の腰に手を回し、もう一方の手を高く上げた。それを真似、咲良の腰に手を回し、高く上げた手を握る。胸と腹が至近距離にあり、空気を伝ってお互いの熱が届き合う。咲良が腰を揺する。それに会わせて、同じ動きをする。悪戯な笑みを咲良は浮かべ、小悪魔のように見つめてくる。俺も微笑みを返した。


 咲良が月の方へ首を逸らした。細く白い首が、眼前に現れた。


 吸い付けられるように、そこへ唇を近付ける。若い娘の血を欲する吸血鬼バンパイヤのように。しかし、唇が触れる前に我に返った。唇を触れたら、正気を失ってしまう。そんな気がした。唇からほんの数ミリしか離れていない肌から熱が伝わってくる。彼女の、花の蜜を思わせる甘い香りも。


 それは香水とかそう言った、人工的な香りでは無い。彼女の身体から発する、甘い香り。花が蜂を呼び寄せるように、俺はその香りに引き寄せられたのだ。


 曖昧に歌が終わり、咲良は手を離した。そして、倒れ込むようにベンチに座った。


「社長さん、クラブって行ったこと、ありますか?」

「クラブ? いやぁ、無いなぁ……」

「私、行ったことあるんですよ。まだ高校生だった頃」


 肩で息をしながら、咲良が笑った。俺も隣に座った。息が弾み、喉が渇いていた。ビールの缶を手に取ると、横から咲良が手を伸ばし、ゴクゴクと喉を鳴らして飲み、笑いながらこちらに返した。咲良の頬は赤く染まっていた。


 缶には一口分のビールしか残っていなかった。仕方なくそれで喉を潤す。もう一度コンビニに行こうと咲良を誘うことも考えた。しかし、それがきっかけで彼女との時間が終わってしまうかも知れない。それが怖くて、喉の渇きを我慢した。


「ホストファミリーの兄弟に連れて行ってもらったんです。二人は、『社交ダンスなんてダサい』って言って……」


 寂しげに目を伏せて咲良が言った。月が、なめらかな頬に睫の影を作り出していた。


「アイラ……お姉さんの方です。アイラは誰か知らない男の人と踊ってて、私は弟のレオと踊りました。レオは金髪に青い瞳の、凄く素敵な男の子だったの。私、彼氏がいたんですけど、お酒飲んでズンズンお腹の底から突き上げる音楽に身を委ねていたら、なんだか変な気持ちになっちゃって。それが彼に伝わったらどうしようってドキドキしたの。その後、彼から『付き合って欲しい』って言われたけど、『彼氏いるから』って断ったの。本当はちょっとだけ、二股掛けてもバレないかななんて、悪いこと考えちゃったんですけど」


「実行しなかったんや。僕やったら迷い無く、二股掛けてるなぁ。付き合うまでいかんでも、その夜は一緒に過ごしたと思う」

「エッチするってこと?」

「そ。エッチするって事」


 咲良は視線をこちらに向けた。黒く大きな瞳が、じっと俺の顔を見つめている。ローズピンクの唇が、一度きつく結ばれ、震えながら離れた。


「……しちゃったんです」

 そう、咲良は言った。


 彼女の瞳は瞬きをせず、こちらを見つめ続けている。


「彼氏になれないって言ったのに、レオは私にキスをしたの。彼はラズベリー色の砂糖菓子を、口移しで私にくれて、そのまま深いキスになって。……そしたら、なにもかもどうでも良くなって、レオに身を任せたんです」


 外灯の下でキスをする男女の姿を思い浮かべ、その後上気したであろう咲良の顔を想像した。けれど俺を見つめる咲良の瞳は月の光を受けて淀みなく光り、その後の二人の情事に思いを巡らせるのを阻んだ。


 その瞳が小さく揺れた。


「悪いことをしました。彼氏にはその事を内緒にしていました。言わなければバレないと思ったし、実際に疑われることはありませんでした。レオとはそれきり会うことは無かったけど、もしあれからもホームステイに行っていたら、その間中彼と関係を持ったんじゃないかな。そして日本に帰ってきたら、しれっと彼との付き合いを続けるの」


 咲良の唇が奇妙な形に歪んだ。


「私は凄くずるくて、汚くて、悪いことばかりしているんです。だから、罰が当たったんです。ある日突然、真っ暗な穴に落ちてしまいました。縦向きに深くて、壁はつるつるしていて、落ちたら絶対に抜けることが出来ない穴です。そう、牛乳瓶に入れられた、蟻みたい。私は一生、その穴から抜け出すことが、できないの……」


 咲良は両手で顔を覆い、折り曲げた身体を震わせた。

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