第17話 終活
仕事を終えて家に帰ると、やはり
西日で部屋は熱せられている。暑くないのかしら。心配になったけど、起きている時、厚いカーディガンを羽織っている事を思い出した。身体はもう、上手に熱を作り出せなくなっているのかも知れない。
洗濯物を取り込もうとして彼女の足元を通り過ぎた時、部屋の片隅にゴミ袋が二つと、紙袋が一つ置いてある事に気付いた。
京都市指定の三十リットルのゴミ袋には、衣類が詰め込まれていた。冬のコート、厚手のセーター、半袖のTシャツ、踝丈のイージーパンツ。彼女がもう、着る予定のない服だ。右側の袋の一番上に、藤色が覗いていた。
ウッと呻きそうになった。
タートルネックの薄手のセーターだ。冷たい風が吹き始めたらそれを着る。木枯らしの吹き付ける真冬には厚手のニットを重ね着して、冬が終わり春の気配を感じるとまたそれだけを着る。彼女が一年で一番多く袖を通すニットだ。藤の花から絞り出したような色は、仁美さんの肌を白く綺麗に見せた。一応メリノウールで編まれている。千九百八十円だったけれど。
ずっとずっと昔、私が彼女の誕生日にプレゼントしたものだ。彼女にとってはもう、それはゴミなんだ。
ゴミ袋の隣の紙袋はぺたんと厚みがない。「棺に入れるもの」と、マジックの細い字で書かれている。中身は見なくても予想が付く。
色あせた結婚写真と、二本のネックレスと、ダイヤモンドの婚約指輪。
アクセサリーはもっと沢山持っていたけれど、いつの間にかお金に変わってしまった。残ったのは土産物屋で買い求めた硝子製のネックレスと、木彫りのペンダント。
思い出は金にはならない。
ダイヤモンドの婚約指輪は、意地でも売りには出さなかった。結婚指輪は、枝の節のような関節によって何とか彼女の薬指に引っかかっている。
「断捨離してたの」
ベランダの手前で声を掛ける。庇の下で白い長袖の下着が揺れている。重力に抗うのが億劫だと言わんばかりに、ゆらゆらと。
「断捨離じゃなくて終活。今日は、体調が良かったから」
「無理したんじゃないの」
「少しは無理しないとね。今日が一番体調が良いのよ。明日の方が良くなるなんてことは、ないんだから」
無理するほど、荷物はない。多分もう、捨てる物は何もないはずだ。
ここに移り住んだのが三月の末。その時、それぞれキャリーケース一つ分の荷物しか持ってこなかった。
私のキャリーケースはカナダへ向かうため、大昔に買ったものだ。一週間旅行用の特大サイズで、ちょっと重たい。紺色のごくありふれたものだけれど、嘗てはワクワクする気持ちを沢山詰め込む宝箱だった。今は、生きるのに必要最低限の物を運ぶ道具になっているけれど。
何か言葉を発すれば、気の滅入る言葉が返ってくる。そんな事に体力を使うのは意味が無いことだ。私はベランダに出て洗濯物を取り込む事にした。どこからか、カレーの匂いが漂ってくる。もうしばらく作っていないなと思ったけれど、食べたいという気持ちにはならなかった。
白い木綿の下着、靴下、長袖のTシャツ、私の下着。全部自慢できるくらい使い込んでいるものばかりだ。その中に、白地のハンカチが紛れ込んでいる。シルクのようになめらかな手触りで、四隅に花と鳩が描かれていた。淡いピンクの鳩と薄水色の鳩は口づけをするようにくちばしを合わせている。
私はそれをラブの前に広げた。
「ね、どうしたらいいと思う?」
声をひそめ、つぶらな瞳に問いかけてみる。勿論ラブは答えない。
あの日私は唇を切ったから、顔に当てられたハンカチは血液で汚れた。洗濯王子と称する人の動画を見てシミ落としを試みたけれど、完全に血痕を消し去ることは出来なかった。
洗濯機で洗った後に、ラベンダーの精油を垂らした水に潜らせた。その香りがほんのり漂う。彼女には、ローズの方が似合うんだろうけど、そんな高価なオイルは買えない。その代わりに、薔薇の花が描かれたハンカチを買った。
ウイルスや雑菌対策にティーツリー、気分をスッキリさせるためのミント、眠れない時にはラベンダー、風邪をひいたらユーカリ。持っているのは、これだけ。
アロマは体調管理の為に使っている。私が倒れたら、仁美さんと野垂れ死ぬ事になるから。
何度目かのため息をつく。
ハンカチに、名刺が挟まれていた。それは、偶然入り込んだものではないだろう。
勿論、ハンカチを返そうとは思っていた。でも、直接渡すことは選択肢にはなく、会社に手紙を添えて贈ろうかと思っていた。名刺を見るまでは。
私はスマートフォンを握りしめ、外に出た。この会話を仁美さんに聞かれるわけには行かない。
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