第18話 困惑の申し出

 薄暗いショットバーのボックス席に、身体を小さく丸めて座っている。


 ソファーは黒い革張りで、テーブルは分厚い硝子製。カウンターには顔立ちの綺麗なバーテンダーが、黒いベストを着て立っている。映画のワンシーンのように、シェーカーをシャカシャカ振ってお酒を作っては小さなトレーに乗せ、それを肩の辺りに捧げ持って音も無く運んでいく。


 カウンターの奥には高そうなお酒がずらりと並んでいる。ここはいわゆる「会員制のバー」という所だ。カウンターに座っている人も、テーブル席の人も、皆高級そうな服を着ている。こんなところにジーパンとスウェットで来てしまって、消えてしまいたいほど恥ずかしい。


 バーテンダーが注文を取りに来たけれど、待ち人が来てから注文すると伝えた。メニューに価格が表示されていなかったからだ。


 座っているだけでもお金を取られるんだろうな。お尻を浮かせていてもだめかな。そう思ったら、胃がシクシク痛くなってきた。


「いらっしゃいませ」


 バーテンダーの静かな声で我に返る。貴和子きわこさんはすっと現われて私の向かい側に座った。彼女の後ろには初老の男性が影のように付き従っていた。


 子供のような身長なのに顔は皺だらけでアインシュタインみたいな白髪頭、グレーの上着に黒いベストのスリーピーススーツ。現実離れした相貌に視線を奪われる。私の視線に気付いたのだろうか。俯いたまま彼は視線をこちらに向けた。目玉だけを、ぎょろりと動かして。


 への字に曲がった唇の端がニュッと持ち上がった。


 けれどすぐに視線を下げ、貴和子さんから静かに離れてカウンター席に座る。

 

「はじめまして。……写真でしか見たことがなかったけれど、初めて会った気がしないわ」


 貴和子さんはそう言って、小さく首を傾けた。夜会巻きに髪を結っているので、長い首筋が露わになっている。彼女は相変わらず華やかで美しい。私はどう答えて良いのか分からず、黙って頭を下げた。


「何も注文していないの?」

 水の入ったグラスを見て、貴和子さんが言う。私はまた、黙って頷いた。


「何か飲みましょう?」

 貴和子さんの言葉を聞き取ったかのように、バーテンダーが音も立てずに現われる。貴和子さんはジントニックを注文し、問うように私を見る。私は小さく首を横に振る。


「お酒、飲めないので……」

「じゃあ、ソフトドリンクを頼めば良いわ」


 黒くてピカピカした紙に白抜きの文字でドリンクの名前が書かれている。コーラとかジンジャーエールとか、名前を知っているジュースの名前はそこには無い。


「柑橘系はお好き?」

「え、ええ、まぁ……」

「じゃあ、フルールを」


 貴和子さんがそう言うと、バーテンダーは指令を受けた影武者みたいに頷いた。


「先日は、私を庇ってくださってありがとうございました」


 バーテンダーが去ると、貴和子さんはすっと背を伸ばして頭を下げた。夜会巻きの美しい渦が目に飛び込んでくる。思いがけない行動に私はどう応じて良いのか分からなかった。貴和子さんは顔を上げ、困ったように眉を寄せる。


「怪我は、もう治ったのかしら」

「も、勿論です。そんなに大した怪我ではないですし」

「でも、若い女の子の顔に傷を付けるなんて、大変な事をしてしまったわ」

「そんな……」


 私達があなたにした事に比べたら、顔の傷なんて大した問題にはなりません。そう思ったけれど、言葉には出来なかった。私は小さく首を横に振ってから、テーブルの上に洗ったハンカチと小さなリボンの付いた包み紙を置いた。


「しみ抜きをしたんですけれど、完全に取り切ることが出来なくて。弁償になるとは思えないのですが……」

「まぁ、そんな。捨ててくださっても良かったのに」

「そんな訳には行きません」


 汚れたからと言って捨ててしまえるような、安っぽいものには見えなかった。驚きのあまり強い口調になってしまう。しまったと思った時、バーテンダーがドリンクを運んできた。


 ライムの浮いた透明なグラスが貴和子さんの前に置かれる。私は自分用のグラスを見て感嘆の息を吐いた。ドロップ型のグラスはクラッシュアイスで満たされている。グラスの底は深紅色で、その上にうっすらとオレンジ色の層があり、そこから半透明のグラデーションが広がっている。グラスの縁には櫛形に切ったオレンジが飾られていた。


 貴和子さんはグラスを軽く持ち上げた。


「乾杯」


 その言葉にも、どう応じて良いのか分からなかった。彼女はジントニックを一口のみ、至福の笑みを浮かべる。私も取り敢えず自分の飲み物を口にしようと思った。けれどこの美しいグラデーションを壊してしまうのが勿体なくて、ストローを少し動かしただけでやめた。


 貴和子さんが私の顔に、覗き込むような視線を向ける。

「十年になるわね」


 貴和子さんはそっと息を付いた。私は頷いた。


 もう十年も経ったのか。いや、まだ十年しか経っていないと言うべきか。


 二つの思いが絡まるように交錯する。私達にとってそれはとても辛い十年だったけれど、この人の前でそれを口にするわけには行かない。彼女もまた、もがくほど苦しい気持ちを抱いていたはずなのだから。そう思うと、自然に頭が下がっていく。気付けば硝子のテーブルに頭を擦り付けていた。


「本当に、申し訳ありませんでした……」


 私達はあまりにも理不尽な方法で、彼女が最も大切にしていたものを奪った。その上、とても乱暴に塩を塗りつけた。心の傷口に、べったりと。


「もう、やめましょう」


 想像に反して貴和子さんはそう言った。聞き間違いなのだろうかと、耳を疑う。顔を上げられない。私は罵られるべきであり、許されるはずはないのだ。


「もう、充分よ。充分なのよ。だから、顔を上げてちょうだい」


 貴和子さんの声は彼女のハンカチのように柔らかく、滑らかだった。聞き間違いではないのだと悟り、彼女の要求に応じた。貴和子さんは瞳を赤く染めて、唇をギュッと噛みしめていた。頬が一度ぐっと動いた。多分奥歯を噛みしめたのだ。それから小さく唇を開き、細い息を吐いた。ジントニックを一口飲んでから、前髪をそっと横に払う。


 そして、もう一度充血した視線を私に向けた。


「あなたは被害者だと思うの。十年経って、あなたの姿をこの前見かけた時、そう思ったの」


 静かな声で、貴和子さんは言った。思いがけない言葉に、頭が混乱した。


「勿論、あの時は腹わたが煮えくりかえるくらい腹が立って、殺してしまいたいとさえ思ったわ。……でも、時は人の心を変えるのよ」


 貴和子さんはそう言って、小さく息を吐いた。


「あなたがこの十年をどうやって生きてきたのか、派遣会社の社員さんに聞いてみたのよ。あの日あなたたちはパーティーをめちゃめちゃにしてくれたから、私にもあなたの素性を知る権利があると思ったしね。……あなた、高校はやめてしまったのね。中卒で色んなバイトを掛け持ちして生活費を稼いでいるようだと聞いたわ。仁美ひとみさんは、ご病気なんですってね」

「す、すいません……」


 その件については巻き込まれただけなのだが、結果的に申し訳ないことをしてしまったようだ。イベントコンパニオンの派遣会社からも、かなり怒られた。


「構わないのよ。私もあまり気乗りしないお願いをされていたものだから」


 貴和子さんは私の手に、恐れるように少しずつ手を伸ばし、そっと触れた。


「苦労してきたんでしょう?」


 彼女の指が私の中指に触れた時、刺されたような鋭い痛みが胸に走った。一瞬息をつめて両方の目をギュッと閉じた。


「あなたが悪いわけではないのよ。あなたは巻き込まれただけじゃない。それなのに、苦しめてしまったのではないかしら。慰謝料の支払いだって、大変な筈よね? その件について、和解をしたいと思うの。今、あなたが支払っているのでしょう? あなたがそんな事をする必要はないわ。それに……」


 貴和子さんは、気まずそうに目を伏せた。


「私、今ものすごく辛いのよ。……何故なのか、察しが付くでしょう? 私の夫、認知症なの。でも社長の座に執着していて困っているの。取り繕うのがとても上手で、周りの人間は気付いていないけれど。……違うわね、気付いているけれど、見て見ぬ振りをしているの。そして、徹底的な失敗をしでかして椅子から転げ落ちるのを待っているんだわ。私には会社の仕事はよく分からない。経営のことは彼の力を借りて、何とか会社を守ろうともがいているの」


 貴和子さんはカウンターの方へ顔を向けた。貴和子さんと一緒に店に入ってきた小柄で白髪頭の男性は、こちらを振り返らずに静かにグラスを傾けていた。


「こんなことを話す相手もいないの。……とても、孤独なのよ」


 貴和子さんは目を伏せて、またジントニックを飲んだ。今までの上品な一口ではなく、音がしそうな程ぐっとグラスを傾ける。テーブルにグラスを置いた時、氷がカランと音を立てた。


 私は、目の前のグラスを見た。氷が随分溶け、グラデーションが濁っていた。それを見てやっと決心が付き、ストローで底からかき混ぜた。アプリコットのような色に変わったジュースは、グレープフルーツのほろ苦い味がした。


「もしも、迷惑でなかったら、なんだけど。……もしも、良かったら……時々会って貰えないかしら。お酒が飲めないのなら、食事をしましょう? 私は結局子供が出来なかったし、幸せな結婚もしなかった。できればこうやって心の内をさらけ出せる友達を作りたかったけど、それも出来なかったの。私を助けると思って、時々一緒に美味しい物を食べながら、愚痴を聞いて貰えないかしら」

「わ、私なんかで良いのなら、喜んで……」


 信じられない気持ちのまま、私は頷いた。貴和子さんは感極まったように瞳を潤ませる。

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