第19話 再会

 貴和子きわこさんの申し出は、複雑な形の小石みたいに頭の中をゴロゴロ転がり続けていた。お陰で頭が上手く働かない。いつものスーパーで買い物カゴを手に売り場を巡るけれど、献立が思い浮かばない。取り敢えずもやしをカゴに入れ、何周目か分からない巡回を続ける。


 乾物コーナーを通り過ぎ、通路に出た時だった。横から強い衝撃を受ける。たたらを踏んだ私の真横で、男性が派手にすっ転んだ。カゴに入っていたビールと林檎があたりに散らばる。私は慌てて近くにあったものを拾い集め、男性に駆け寄った。


 「イテテ」と言いながら、男性は身体をゆっくり起こした。パーカーにジーンズというラフな服装で、短い髪が寝癖のように跳ねている。私と同年代かなと思いつつ、声を掛ける。


「大丈夫ですか? お怪我されていませんか?」

「す、すいません。……あれ……?」


 顔を上げた男性が目を見開いて私を見た。私も彼の顔を見て、息を飲む。


「さーら?」

一哉かずや……?」

 二人は同時に声を上げた。


 ***


 スーパーの外で、一哉と向かい合っている。一哉は自動販売機で缶コーヒーを買ってくれた。ホットを選ぶところが彼らしいと思いながら、熱い缶コーヒーを手の平で弄んでいる。


「まさかさーらとここで会うなんて。……この近くに住んでるの?」

 一哉の言葉に私は頷いた。


「私こそ、驚いた。どうして京都にいるの? 観光?」

「観光だったらこんな片田舎の住宅街にいるわけないだろ。俺も、この町に住んでるんだ」

「嘘でしょ……。そんな偶然ある……?」

「俺も驚いてる。やっぱ俺たち、運命で結ばれてんだよ」


 笑って冗談なのか本気なのか分からない事を言う。陰りのない笑顔が眩しい。当然ながら面差しが長く伸びて大人の男になったけれど、やんちゃなそうな表情は昔のままだ。


「そこは、『そうよね』って言うところだろ」

 私が黙っていると、一哉はそう言った。私は曖昧な笑みを返しておく。


 彼は瀬戸口一哉せとぐちかずや。私の高校時代の彼氏。一年程付き合っていたけれど、別れた。いや、別れたと言うよりも、私が一方的に彼の前から姿を消したのだ。


「一哉は、ずっとこの町に住んでるの?」

「そうだな。五年はいるかな……。さーらは?」

「私はまだ、引っ越してきたばっかり」


 一哉の住む町に、私が偶然引っ越して来たと言う事か。別れてしばらくは、会いたいと思うこともあった。側にいてくれたらどれだけ心強いだろうかと涙にくれたこともあった。でも日々の生活に追われるうちに、彼の存在は記憶の隅に追いやられてしまった。


「関西に来たのは、さーら達がどうやらこっちに引っ越したらしいって聞いたからさ。誠司せいじさんも京都に引っ越したから、頼ってってのもある。大阪の大学に通いながら、さーらの事を探してた。でも、何の手がかりも無くてさ……」

「ごめんね。心配掛けたよね」

「ああ、心配した」


 一哉の溜息を、細く伸びた影を見つめながら聞く。こうしていると、長い夢から覚めて高校生に戻ったのではないかと、錯覚してしまう。私はゆっくりと首を横に振って、馬鹿げた思いを振り払った。


「一哉は、今何してるの? やっぱり警察官?」


 一哉は苦笑して、缶コーヒーを口に含んだ。私もプルトップを開けて一口飲んだ。高校時代に好きだった、甘い味の珈琲だ。今ではブラックしか飲まないことを、一哉は知らない。


「警察官には、ならなかった。仕事を幾つか渡り歩いて、今は介護の仕事をしてる」

「介護? 一哉が?」

「意外?」

「勿論。……っていうか、警察官じゃない仕事を選んだのが意外。一哉ん家は警察官一族だし、誠司さんの事凄く尊敬していたじゃない。あんな警察官になりたいって、耳にタコができるくらい聞いたよ」


 誠司さんは一哉の従兄弟に当たる。一回り年上で、実の兄のように慕っていた。彼はとても優秀な警察官なんだとよく自慢していた。てっきり彼の近況が返ってくると思ったが、予想に反して一哉は黙り込み、奥歯を噛みしめた。


「どうしたの?」

 問いかけると、一哉は眉を寄せて小さく首を横に振った。


「誠司さんは、死んだんだ」


 苦いものを吐き出すように、一哉が言った。私は意味が飲み込めずに首を傾げる。一哉は大きく息を吐いてから、顔を上げた。


「自殺したんだ。車の中で練炭を炊いて、一酸化炭素中毒で死んだ。遺書がなかったから理由はよく分からない」


 すっと胃の辺りが冷たくなる。『車の中で練炭を炊いて』。その方法は余りにも身近に存在していた。目眩を感じて、固く目を瞑る。


「ごめん」


 察したのか、一哉が気まずそうに言った。私は否定する意味でも、余計な思い出を振り払う意味でも大きく首を横に振る。


「……だからって訳じゃないけど、警察官にはならなかった。介護の仕事はわりと向いていると思う。夜勤は辛いけど」


 そう言えば、午後四時にスーパーで買い物をする若い男性は珍しい。改めて彼を見れば、目元の隈が目に付いた。


「今日も、夜勤明け?」

「ご名答。夜勤明けって、あんまりよく眠れないんだ。だから、慢性的に寝不足」


 わざとらしくあくびをしてみせる。その仕草に、思わず笑った。私の笑顔を見て、一哉は安心したように微笑んだ。一哉は微笑んだまま、ズボンのポケットをまさぐる。そしてスマートフォンを取り出して言った。


「さーらの連絡先、教えてよ」

 当たり前のように吐き出された言葉に、私は身体を丸め一歩身体を引いた。


「ごめん、それは出来ない」

「え、なんで……」

 絶句する一哉から、私は更に離れる。


「一哉は私の高校時代の知り合いだから」


「だから……?」

 一哉が歩み寄った分、私は後退る。


「一哉が友達に私のことを紹介するとしたら、『高校時代に付き合っていた人』って言うでしょう? そこから数珠繋がりに、私が通っていた高校、住んでいた町、どんな子だったか。色んな事が明らかになるかも知れないじゃない。私は、昔の私を知る人とは関係を持ちたくないの」

「そんな。俺はそんなに口の軽い人間じゃない。さーらがどんなに大変だったか、知ってるんだし。……俺、さーらの助けになりたいんだよ」


 一歩近付く影を避けるように、私は顔を背ける。


「一哉にその気が無くても、何かの拍子に露呈するかも知れない。破綻する可能性があるものには、近付きたくないの。今まで散々、痛い目に遭ってきたの。いつの間にか噂が広がって針のむしろを敷かれるなんて、まだいい方。急に仕事を切られたり、玄関に悪口を書いた紙を貼られたりして、仕事も住むところも変えなきゃいけなくなること何て、ザラにある。私、キャリーケースに入る分しか荷物を持たないことにしてるんだよ。いつ引っ越ししても良いように。それでも、この春やっと正社員になれたの。創業百六十年の老舗材木店の正社員よ、それがどれだけ凄いことだか分かる? 風邪を引いて仕事を休んでも給料が減らないのよ。ボーナスが出るのよ。一定期間勤めたら退職金も貰えるの。凄いでしょう? やっと掴んだチャンスを、逃す訳には行かないの」


「さーら……」


 一哉の声で、彼がどんな顔をしているのか想像が付いた。その顔を見ないように、踵を返す。


「会えて嬉しかった。一哉の幸せを願ってる。さようなら」


 缶コーヒーを片手に、もやしの入った買い物袋を振って自転車置き場へ走る。


 この町で一哉に出会うなんて、質の悪い冗談みたいだ。


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