第20話 怪しい男
清水寺やねねの道のある観光地に石塀小路がある。石畳の敷かれた細い路地で、古都の情緒を感じさせる穴場スポットだ。その一角に、
カフェに立ち寄るのと同じ気軽さで無垢のフローリングに触れて欲しいと願い作った。二階はスペースデザイン事業部という、我が社の中では異質の部署がある。上質な木材や古材を使ったリノベーションも木寿屋では行なっており、そのデザインを担当する部署なのである。現在は事務兼リーダーの
京町屋を改築した空間は居心地が良く、本社から離れて少し羽を伸ばせる場所でもある。そこへは出来るだけ一人で出かけていく。レッド・ホット・チリペッパーズを聞きながら、レクサスを走らせるのは至福の時間だ。自然と鼻歌が溢れる。
だが、快適な時間に邪魔が入った。ジョン・フルシアンテの軽快なギターが途切れ、着信音に代わる。俺は嘆息し、通話ボタンを押した。
『社長!』
『忘れ物です! 私が言付けた品物、そっくりそのまま忘れてってるやないですか! この人でなし!』
これが経営者に掛ける言葉かと、怒りを通り越して呆れる。そう言えば美雪から佐緒里に渡して欲しいと紙袋を預かった。それをデスクに置き忘れた気がする。
「ごめんごめん。今度やあかん? もう取りに帰るのは億劫や」
『億劫? じゃ途中で買ってって下さい。胡麻麦茶とからだ健やか茶Wとヘルシア。春ポテト甘うま塩味とふんわりサワークリーム。ポテチの春限定フレーバーですから、間違えんといてくださいねっ』
「なんや、その矛盾だらけの組み合わせ」
『佐緒里とはそういう生きもんなんです!』
わざと大きな溜息をついた。美雪の耳にはっきりと聞こえるようにだ。狸によく似たスペースデザイン事業部の佐緒里と秘書の美雪は同期入社で仲が良い。二人とも先代の社長時代から「切れ者女子社員」として妖怪のように恐れられてきた。共に独身で、四十代に突入してから結束が深まったような気がする。
『溜息付きましたね。ええですか、これは償いなんですよ。社長のせいで突発的に残業が降って沸き、約束してた食事会をキャンセルした償いの品なんですよ。なかなか予約とれへんステーキ屋さんやったのに!』
美雪の声がキンキンと尖っていたので、思わず音量を下げる。運転中に耳を塞ぐわけには行かない。
「わかったわかった。丁度目の前にスーパーがあるから、買うていく」
投げやりにそう言い、通話を打ち切る。父が社長だった頃は、二十代の若く優秀な美人秘書だったのだろう。父が病に倒れ急遽社長を継ぐことになり、美雪と佐緒里には随分助けられた。そんな歴史があるから、二人には逆らえない。
左折して小さなスーパーの駐車場に車を止める。ディスカウントを前面に打ち出したスーパーだ。こんなところに出入りするのは、プライドが受け付けない。そう嘆息して顔を上げ、息を飲む。
スーパーの自動販売機の横に、
だが、二人は楽しい話をしているようには見えなかった。急に咲良は男から後退りした。それなのに男は詰め寄っていく。その男に咲良は硬い表情で何かを捲し立て、背中を向けて走り去った。
後に残された男は、険しい表情で咲良の後ろ姿を見つめている。随分長い間、男はその場から動かなかった。そして、自転車に乗った咲良の姿が曲がり角に消えると同時に、走り出した。
咲良の後を付けようとしている。
ピンとこめかみに痺れが走る。その瞬間運転席のドアに手を掛けた。だが、男が急に足を止めたので思いとどまる。男はポケットからスマートフォンを取り出した。名残惜しそうに咲良が去った後を見つめながら、スマートフォンを耳に当てて通話を始める。
あの男は、何者だ?
俺はスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを外してワイシャツのボタンを二つ外した。少しでもこの場所に溶け込むためだ。出来るだけ気配を消して車外に出ると、スーパーの入り口に向かう。そして自動販売機の前で思いついた風を装いズボンのポケットをまさぐる。小銭入れを取り出して、自動販売機で水を買った。すぐにキャップを開けて、いかにも喉が渇いていたというようにその場で水を飲んだ。
男の声が風に乗って流れてくる。やや高い、良く通る声だ。
「いや、大人しくしてましたよ、勿論。何もして無いっす、マジで。……え、マジッすか。自首したって。……んだよ、これまでの苦労が水の泡じゃねーか! ……いやまぁ、そうなんっすけどね……」
通話をしながら男は咲良が去ったのとは違う方向へ歩き始めた。男の声は風に紛れて消えて行く。
***
「会えて嬉しかった。一哉の幸せを願ってる。さようなら」
さーらはそう言って踵を返し、走り去って行った。俺はその後を呆然と見つめる。
連絡先は簡単に教えてくれると思っていた。想定外の反応に驚き、その理由を聞いて愕然とする。さーらがこれまで辛い思いをしてきたと想像してはいたけれど、こんなにも切迫していたとは。想像力が足りなかったと歯噛みする。
咲良の姿が曲がり角に消えた。俺はすぐに後を追う。公然と連絡を取り合えないのならば、彼女の住む場所を知る必要がある。
だが、ポケットでスマートフォンが振動し、着信を告げた。相手を見て、俺は溜息をつき足を止める。先輩刑事
『
「いや、大人しくしてましたよ、勿論」
訝しむ松原さんの声に、あっけらかんと答える。
『ホンマやろうな、スタンドプレーしてへんな』
「何もして無いっす。勿論」
尚も追求する声にそう答えると、松原さんは嘆息した。それから、少し間をおいて言った。
『ホシ、自首したで。おめでとう』
「え、マジッすか。自首したって」
『これで連日の張り込みから解放やな』
「んだよ、これまでの苦労が水の泡じゃねーか!」
思わず叫ぶと、松原が呆れたように溜息をついた。一瞬会話が途切れる。
そこへ、妙な気配が入り込んで来た。『自分は誰かに見張られている』そんな気配だ。
そっと辺りを見回す。カートを押す老女がスーパーに入っていく。入れ違いに、小さな子供の手を引いた女性が出てきた。車の荷台に荷物を積んでいる人、裏口に段ボールを運ぶ店員。また、スーパーから人が出てきた。小さな袋を下げた高齢の男性だ。自動販売機の隣で、ワイシャツ姿の男性が飲み物を飲んでいる。サラリーマンが仕事をさぼっているのだろうか。このスーパーに似つかわしくない、いいズボンを履いている。
その男から、こちらを注視するような気配を察した。
『何言ってるんだよ。捕まったことは良いことだろ』
「いやまぁ、そうなんっすけどね」
俺はそこから歩き出した。男は、明らかに俺に視線を向けている。上質のスーツ。それは鍵になりそうだ。もしかしたら、さーらを狙う側の人間かも知れない。
『ところでな、犯人が自首しようとした理由、分かるか? 俺、それ聞いて吹いたわ』
「へ? なんすか?」
『警察官が連日付きまとうから、怖くなってって言うたらしいで。つまり、お前の尾行がバレバレやったっちゅうこっちゃな!』
電話の向こうで松原さんがやたらと大きな声で笑う。俺は憮然として、受話器を耳から遠ざけた。
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