第21話 付き纏う男

 入社して一週間が経ち、仕事のペースも掴めてきた。「職場が綺麗になって気持ちいいよ、ありがとう」と今日も何人か声を掛けてくれた。 


 清掃の仕事だから重労働だったり、不潔だったりしないかなと不安だったけれど、慣れてしまえば体力的に問題無いし、品の良い会社だから酷い汚れに出会うこともない。前に駅構内や雑居ビルの清掃をしていたことがあったけど、悍ましく汚れた便器に辟易するのは日常茶飯事だった。それに比べたら天国だ。古賀こがさんとも仲良くなった。昼休みに食事をしながらおしゃべりするのも楽しい。


 この生活が出来るだけ長く続けばいいのにと願いながら、自転車を押して裏門を出た。


「えー? もしかしてさーら?」


 突然後ろから声を掛けられた。思わず立ち止まり、後ろを振り返る。聞き覚えのある声に眉を寄せる。案の定一哉かずやだった。短パンにTシャツ。いかにも「ランニング中」というスタイルだ。


 私は思わず溜息をつく。


「あんた、私のことつけてない?」

「つける? 何でだよ。俺ん家はこのすぐ近くで、ここはランニングコースなんだ。さーらがここで働いてるなんてなー」


 答えに窮し、口を結ぶ。一哉とは接点を持ちたくないと思っていたけれど、勢いで職場を特定するようなことを言ってしまったと、家に帰ってから後悔していた。こんな風に頻繁に職場に来るようになっては困る。連絡先を秘密にした意味がない。


 私は一哉を睨み付け、自転車に跨がった。


「私の前に、もう二度と現われないで」


 そう言い捨てて、ペダルを漕ぐ。足に力を込め、ぐんぐんと加速していく。川沿いの湿った風が頬を冷たく撫でていくのを感じながら、無性に泣きたい気持ちになった。


 本当は一哉にこんなことを言いたくはない。連絡先だって交換したいし近況を話し合って仲の良い付き合いをしたい。


 一哉が悪意を持って私に接するはずがない。彼は正義感に溢れた人で、限りなく優しい人だった。変わっていないのは、少し言葉を交わせば分かる。


 弱気になった心に、地面が消えてしまったような頼りなさが押し寄せてきた。


 「消えてしまったような」じゃない。実際に「消えてしまった」んだ。ある日突然に私の立っていた地面はなくなり、硝子の瓶に放り込まれた。それからずっと、身の置き場のない孤独に身体がすっぽり包み込まれている。


『とても孤独なの』


 貴和子きわこさんの声が耳に蘇る。その気持ちが痛いくらい分かる。


 視界が滲む。溢れた涙を乱暴に袖で拭い、膝に力を込めて立ち上がる。ペダルに体重を掛け、スピードを上げた。桂川の水面が日の光をキラキラと弾き、光の粒のように小さな蝶が舞っていた。このまま元いた場所に走って行けたらと思う。けれど嘗て自分がいた場所は、欠片すら残っていない。消えてしまった場所には、どんなに力を込めてペダルを漕いでも、辿り着くことは出来ない。


 ***


 羽束師橋わづかばしを降りて千本通に入る。この路は車一台しか通れない細い路地だから、運転に気を遣う。対向車に出会わずに通りを抜けることが出来れば、とても幸運だ。すれ違えるポイントはいくつかあるのだが、通りなれない車はそのポイントで待たずに突っ込んでくる。そうすると、人通りが少なくはない路地をバックしなければならなくなる。


 今日は心得た対向車一台とすれ違っただけなので、まぁ幸運な方だ。社屋の見える交差点で赤信号に引っかかり、停車する。


 前方にランニングスタイルの男がいる。彼はブロック塀の影に隠れ、立ち止まっている。不審な姿に目を眇め、それが先日咲良と話をしていた男だと気付いた。男があの日吐いた「自首」「苦労が水の泡」というワードが気になっていた。犯罪に関するキーワードであることには、間違いない。


 奴は何らかの犯罪の主犯格で、手下に使っていた人間が自首をした。お陰で画策していた犯罪が、完遂できず水泡に帰した。


 そんな仮説を立てていた。咲良さらは金に困っているから、裏バイト的なものに引っかかったのではなかろうか。そんな不安に苛まれていた。


 裏門が開き、咲良が自転車を押して出てきた。男はおもむろに走り出す。間もなく、咲良が振り返った。


「社長、信号変わりましたよ」


 美雪みゆきに言われ、我に返る。急いで車を発進させ、咲良と男の横を通り過ぎた。会社の敷地に入ると裏手の職員駐車場へ回り、裏門に一番近い場所に停車する。車外に飛び出して裏門へ駆けつけると既に咲良の姿はなく、男がポツンと咲良が去ったであろう方向を見つめていた。俺はその腕を掴み敷地内へ引っ張り込んだ。後ろ手に腕を捻り上げてやろうと思ったが、男は素早く身体を捻った。俺の手はなすすべもなく男の腕から離れてしまう。


 こいつ格闘技の心得がある。


 俺は自分の手を見つめながら思った。


 だが、敷地内に引っ張り込めばこっちのものだ。チラリと視線を向けると、車内で美雪が電話を掛けながら、こちらに指で丸を作って見せた。警備員に連絡してくれたのだろう。


「うちの社員をつけ回すのはやめて貰おうか」

「え、なんの事っすかね」


 男はとぼけた様子で頭を掻いている。だが、とぼけながらも視線がこちらを観察しているのを察した。隙の無い鋭い視線で。俺はその視線に気付かない振りをし、呆れた顔を作って男を眺める。


「この会社の方、ですか?」


 何気ない口調でそう言い、チラリと車に視線を向ける。そして、黒塗りのレクサスLS500を見て一瞬目を丸くした。ふん、車を見る目はあるらしいな。


「まさか、社長さんとか……?」

「その通りだが。畑中咲良はたなかさらとの関係を聞かせて貰おうか」

「畑中、咲良……?」

「とぼけるな。さっき待ち伏せしてしてたんも、偶然を装って声を掛けたんも全部見とった。なんならドライブレコーダーに残ってる。そのまま警察に連行してもええんやで」


 その前に、咲良がおかしなことに巻き込まれていないという確証が必要だ。もしも社員が犯罪を犯しているとなればコンプライアンスに反する事態だ。申し訳ないが先に解雇させて頂くしかない。勿論、婚約などもっての外だ。


「しょうがねぇな……」


 男はポケットに手を突っ込んだ。ナイフか何かだろうかと、一瞬身構える。美雪も心配そうに助手席のドアから顔を出した。だが、男がポケットから取り出したのは想定外のものだった。


「俺は警察のものだ」


 刑事ドラマよろしく、警察手帳を翳してみせる。写真の彼は、確かに警察官の制服を着ている。


「警察……」


 そうなれば、先日の言葉は全く逆の立場から吐かれたものという事になる。成る程。思わず脱力し、息を吐いた。美雪に向かって指で罰を作る。美雪は頷き、通話を始めた。警備員に警察官を取り押さえさせるわけには行かない。


「で、警察官がなぜうちの社員を尾行するんです?」

「それは……」


 男は口ごもる。その様子に違和感を覚えた。嫌な可能性が頭に浮ぶ。


「畑中咲良に何かの嫌疑が掛けられているんですか?」

「いやまさか。彼女に限って」


 男は両手を振って全否定してから、ハッと我に返る。俺は再び警察手帳を凝視した。これ、本物かと疑いの念を抱く。さっきの尾行といい、否定の仕方といい、素人丸出しだ。警察手帳に書かれている「瀬戸口一哉せとぐちかずや」という名前は、記憶に刻み込んでおいた。男はまたガリガリと頭を掻いた。


「俺は彼女の知り合いなんだ」

「それやったら偶然を装わんと堂々と声を掛けたらええやんか」

 腕を組み男を睨み付ける。男は口をへの字に結んだ。


「それが……。連絡先を教えてくれなかったから……」

「ほな、これはストーカー行為やな」


 そう言いながらチラリと美雪を見る。美雪は既にこちらにスマートフォンを向けていた。流石だと胸中で唸る。動画は動かぬ証拠になる筈だ。


「捜査の関係があるんで詳しくは言えないが、今後何か面倒な事に巻き込まれる可能性があって注意を促したいんだ。だが、あまり具体的な事は言えない。捜査の妨げになっては困るからな」

「ふうん。それは私情からくる親切心?」


 うぐ、と男は喉を鳴らした。反応が面白い男だ。こんなに表情を装えない男が、警察官など務まるのだろうか。


「その親切心すら拒まれるって、どんな知り合いなん」

「あ、あなたには関係が無いだろう」

「関係? 雇用主と従業員という立派な関係がある。ストーカーなどせんでも、心配してる気持ちを伝えられる関係や」


 男の眉間に深い皺が寄る。怒りを感じているが、言い返すことは出来ない。そんなところか。


 美雪が小さな咳払いをした。スマホを掲げているのとは反対の手首を眼前に翳す。会議の時間が迫っている。そう言いたいようである。


「警察官であろうと、歓迎されない相手に付きまとうのは立派な犯罪やで。何べんも言うが、彼女は大切な我が社の社員や。今後彼女に付きまとったら、この動画と共に通報させて貰う」


 人差し指を突きつけてそう言うと、男は悔しそうに顔を歪めた。

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