第22話 バーベキュー

 左京区の下鴨は、古くから高級住宅街と言われているところだ。白い蔵を持つ日本風の邸宅に、貴和子きわこさんは夫と二人で暮らしている。向かいに下鴨神社の糺の森が広がっており、庭に涼しげな影を作っていた。


 その庭で、貴和子さんは炭を熾し串に刺した肉を焼いていた。横には練炭のコンロがあって、真っ赤なダッチオーブンが乗っていた。鍋からは柔らかい香りが漂っている。


「ダッチオーブンは万能選手よね。オーブンとしても鍋としても、スモーカーとしても使えるもの。この年になるとお肉はそんなに食べられないから、野菜を煮込んだシチューなんてあるととても嬉しいのよ。ね、あなた」


 そう言って貴和子さんは鍋を空けた。ふわりと湯気が上がり、魚介の香りが辺りに漂う。


「今日はブイヤベースにしてみました」

 そう言って、少女のような笑みを浮かべる。


「あ、私よそいます」

「あらそう? じゃあ、お願いするわね」


 私は木の器とお玉を持った。海老やムール貝の存在感が凄い。具材が偏らないように気を付けて盛り付け、夫の住田義雄すみたよしおさんの元へ運んだ。デッキチェアに身を預けて、彼はビールを飲んでいる。既に頬が赤くなり、目がとろんと細くなっていた。私の姿を認めると、胡乱な目を向ける。


「誰や、お前」

「あ……。お邪魔しています。畑中咲良です」

「私のお友達なのよ。あなたも仲良くして下さいな」


 何度目かのやり取りなのだが、貴和子さんは毎度初めて伝える言葉のようにそう言った。私がブイヤベースを渡すと、義雄さんはそちらに意識を向け、かき込むように食べ始めた。その姿を貴和子さんは微笑んで見つめる。手元のお肉も良い香りを漂わせている。


「こちらも、お運びしますね」

「あら、ありがとう」


 貴和子さんは腰に手を当てて、慣れた手つきでトングを操っている。


「バーベキューは、よくされるんですか?」

 問いかけると、貴和子さんは微笑みながら眉を寄せて首を横に振った。


「久しぶりなの。二人だと、面倒だしそんなに楽しいと思えないから。だから、今日は嬉しいのよ。火を熾せる口実が出来たんだから」


 火というワードを聞く度に、私は寒気を覚える。けれど貴和子さんはそうでは無いらしい。炭で櫓を組んで火を付け、火柱が空高く上がると嬉々とした表情を浮かべていた。感じ方は人それぞれなのだと、私は思った。


 義雄さんは運ばれた食事を黙々と食べ、ビールを飲んだ。口を開くのは、ビールが無くなったのを伝える時くらいだ。


 だから殆どの時間を、私は貴和子さんの話を聞いて過ごしていた。


 如何に部下達の意見を尊重しながら思い描く戦略を進めていくかとても苦労しているということや、新しく高級住宅街の敷居を下げるような建売住宅を展開しようと考えていること、デザイナーが見つからなくて苦労していること、建築業界の人手不足が如何に深刻かと言う事。彼女が義雄さんに変わって背負っている苦労が伝わり、胸が痛くなる。


「会社を経営するって、大変なんですね」

「そうなのよ。私そんな苦労を背負うことになるなんて、考えてもいなかったの。結婚当初この人はバリバリの現役で、私は身の回りの世話をしながら悠々自適な生活を送っていたのよ。ダンスが好きって共通の趣味があって、よくパーティーで踊ったものね」


 遠くを見つめながら、貴和子さんは言った。それから、透明な溜息をついた。芝生を揺らす風に溜息がとけて行くのを見送りながら、貴和子さんの言葉を待つ。


「脳梗塞を起こしたのよ。それからちょっと人間性が変わっちゃったの。気に入らないことがあると激高して、暴力をふるうの」

「殴られたり、するんですか……」


 貴和子さんは小さく笑って、前髪を掻き上げた。そこに紫色の痣があった。ファンデーションで念入りに隠されていて、意識して見なければ分からないけれど。


「興奮を止めるお薬を処方されているの。それを飲ませるのは、上手になったわ。リスパダールって言う水薬でね、危ないなって思ったらパッケージの口を切って準備しておいて、怒鳴るために大きな口を空けたときにさっと飲ませるの」


 右手の人差し指と親指で何かをつまみ、投げるような仕草をする。私は何と言っていいのか分からず、黙って頷いた。貴和子さんはまた溜息をつき、下唇にギュッと力を入れた。それから、気持ちを切り替えるように顔を上げ、私に向かって笑みを浮かべた。


「やあね、私自分の話ばっかり。あなたの話も、聞かせて欲しいわ」

「私は、普通です。掃除の仕事、しています」

「あら、大変なお仕事ね」

「そうでもないです。楽しいですよ」


 へへ、と笑う。そう、と貴和子さんは言って私の顔を見た。


「本当なら、もっとちゃんとしたお仕事に就けるのにね。あなた、語学ができるでしょう? 確か、ホームステイに行ってたわよね。何処の国だったかしら」

「カナダです。父の古い友人がいて、そのお宅に」

「まぁ、カナダ!」


 パチン!と貴和子さんは手を打ち合わせた。


「私憧れなの! ねぇ、お話しもっと聞かせて? お父様のお友達って、どんな方なの?」


 少女のように瞳を輝かせ、こちらに身を乗り出してくる。貴和子さんが喜ぶのならと嬉しくなり、思考を巡らせた。


珠希たまきさんっていう日本人と、ケインっていうカナダ人のご夫婦です。珠希さんはとても優しくてチャーミングな人でしたよ。アクセサリーのデザインをされていました。日本でも人気があって、日本とカナダを往き来していました。娘さんと息子さんがいて、お姉さんはお母さん似。弟さんはお父さん似。家族皆仲が良くて、食事の時はとても賑やかで、食後に皆でダンスをしました」

「あら。だからあなた、ダンスがお上手だったのね。……クリスマスもあちらで過ごしたの? あちらのクリスマスプレゼントは、とても素敵なんでしょうね」

「手作りのものを贈り合っていました。私は皆に毛糸の小物を編んでプレゼントしていましたよ」

「あちらからは? 何か頂いた?」

「そうですね。お姉さんは、私にクッキーとかマドレーヌとか、焼き菓子を作ってくれました。弟は絵が上手で、私の似顔絵を描いてくれました。珠希さんは、アクセサリーを」

「アクセサリー? それだけ?」

「え、ええ。……あ、クリスマスプレゼントじゃ無いけど、一度テディベアを頂きました」

「テディベア……。それは、どんな大きさ?」


 貴和子さんは瞳を大きく見開いて聞いてくる。テディベアの愛好家かな? そう思い、できるだけイメージが伝わるように大きさを手で示す。


「これくらいの、抱きしめるのに丁度いい大きさです。私が生まれた時の重さを再現してあるって言ってたので、見かけの割に、重たいです」


 五十㎝くらいに手を広げてみせると、貴和子さんは胸の前で手を合わせ、立ち上がった。


「それは、まだ持っているの?」

「ええ、勿論」

「じゃあ今度……。見せていただけないかしら。私、手作りのテディベアが大好きなの」


 やっぱり、貴和子さんはテディベア愛好家のようだ。私は笑顔で頷いた。


「是非、会ってあげて下さい。私の相棒に」

「ええ、ええ! 今度その子を連れて来て! ああ、嬉しいわぁ……」


 貴和子さんはくるりと回った。まるで少女のようにスカートの裾を翻して。それから、パッと瞳を見開いて顔を上気させる。彼女は私の前にやって来て、腰を折ってから手を差し伸べてきた。


「踊って下さる?」


 突然の申し出に驚いたけれど、貴和子さんの笑顔に重なって、珠希さん達とダンスを踊った光景が在り在りと思い浮かび、胸が熱くなる。


 柔らかなラグと本物のもみの木のクリスマスツリー。パチパチと薪のはぜるストーブ。アイラとレオの、屈託無い笑顔。幸せしか知らなかった、温かな冬。


「喜んで」


 立ち上がってスカートを広げると、貴和子さんは微笑んでスマートフォンを操作した。スピーカーから、花のワルツが流れ始める。

 

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