第23話 結婚の契約
気晴らしによく利用する喫茶店で、
口ひげのマスターがサイフォン式で淹れる珈琲は絶品で、古典的なジャズがよく似合う。真面目な大学生という風情の青年が、窓際の席で彫刻みたいに身じろぎをせず文庫本を読んでいる。それ以外、客はいない。
俺と咲良は珈琲とミックスサンドを注文した。咲良の就業時間に会わせて十五時に退社したから小腹が空いていた。けれど、ハムサンド一つで小腹は充分満たされてしまった。残りは全て、咲良が平らげた。
咲良の一口は大きい。口を大きく開けて囓り取り、目を細めて実に美味しそうに咀嚼する。食べている間話をせず、「味わう」という事に全力を注いでいる。実に爽快な食べっぷりだ。しかし、思い返してみるとフレンチレストランでの咲良はとても上品に食事をしていた。音を立てずにカトラリーを操り、小さく肉を切り分けて食べていた。
彼女は、TPOに合わせる能力に長けているのかも知れない。身なりが変わるとがらりと姿を変えるように。それは、社長の妻としてこれ以上無い資質である。俺は頷き、鞄から封筒を取り出した。この間受けた人間ドックの結果が自宅に届いていたのだ。咲良も慌てたように、トートバッグから封筒を取り出した。
「咲良は健康優良児やな」
全ての数値が正常範囲内に収まっている結果を見て、思わず口笛を吹きたくなった。
「涼真さんはγ-GTPが高いですね。これ、お酒飲んでいたら高くなるらしいですよ。わ、中性脂肪も高ーい。余計な脂肪ついていなさそうなのになんで?」
「外食ばっかりしてるからやな。嫌やなー。昔はどんなに不摂生してもこんなんに反映されへんかったのに」
軽口を叩きながら、婦人科の結果をくまなくチェックする。性感染症検査、女性ホルモン分泌検査、内診・超音波検査、子宮癌、乳癌、甲状腺。全ての数値に全く問題は見受けられない。母の検品では「優」の烙印をいただけるだろう。
「第一関門はクリアしたから、正式に話を進めようとおもうんやけど。やっぱりやめたいと言うんなら、今。それ以降は、ちょっと困る」
「分かっています。私の気持ちは変わりません」
咲良の言葉を受け、鞄から契約書を取り出す。一応知り合いの行政書士に間に入って貰っている。何かもめ事が起こった時、正式な書類は印籠になる。ただ難点なのは、甲とか乙とか難解な言い回しが多くてまどろっこしいことだ。案の定細かい文字がびっしりと並んでいる契約書に、咲良が目を白黒させている。
「ここに書いてある内容は、この前話をしたんと一緒」
そう前置きすると、胸に手を当ててホッと息を付く。わかりやすい反応に、思わず口元が緩んだ。
「僕と咲良は子供が産まれるまでの契約結婚。住むところは僕のマンションでええかな。3LDKやねんけど、殆ど使うてない部屋がある。その部屋に鍵を付けて、家具を揃えておくわ」
「家具!? そんなの勿体ないです!」
両手を扇風機のようにぶんぶんと振る。
「私、段ボールで家具作るの得意なんです! スーパーの裏に行ったら、いくらでも材料は手に入ります。あ、オススメは、スイカとかカボチャが入ってた奴。段ボールが分厚くて丈夫なんです。キャベツや白菜でもいいんですけど、結構な確率で汚れていて……」
咲良は人差し指と親指で段ボールの厚みを示した。
「段ボール……」
一応ハイグレードの部類に入るマンションだ。その一室にカボチャの段ボールで作られた家具を配置してみる。余りにも滑稽で笑いが込み上げてきた。
「ちょっと、その特技は見てみたい気がするけど……。まぁ、家具のことは僕に一任して貰おうかな」
「は、はい……」
咲良は頬を真っ赤に染めて俯いた。失態を恥じているようだが、さっきの得意げな顔との落差が面白い。自然と口元が綻んだが、言わなければならないことが今日は沢山あり、言葉を続けた。
「イベントコンパニオンは、辞めてほしいんやけど。かまわへんかな」
「え……」
赤く染まっていた頬から、一気に血流が引き青ざめる。その変化の大きさに若干戸惑ったが、これはどうしても譲れない事だった。
「事情があっての事やとは承知してるねんけど、この前結構目立つことしてしもうたやろ? 相手は誰やと、騒がれてるらしい。その相手がイベントコンパニオンで、しかも結婚するというのはちょっとスキャンダラスかな……。ただ、あれは僕が悪い。そやから、お詫びに配置転換しようかと考えてるんや。給料が今よりも高い部署に」
「配置転換、ですか?」
声が裏返り、微かに震えた。咲良は怯えるような顔をこちらに向ける。
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